第37話 やってきた夜明け
「本日より公子
「我らは公子
郤缺の言葉は、見事なずるさである。公子雍は帰らなかったではなく、秦によって帰れないとすり替え、穆嬴の噂で動揺した氏族を主語にする。自然、誰も悪くなく、あえていうなら間が悪かったのだ、ときれいに横へ滑らせた。不誠実極まり無い内容を、さも義心あるように見せることは
この、詐欺めいた言葉は、責任の所在をぼやかすものでもあり、卿たちは内心安堵した。それはもはや議ではなく決定という合図でもある。その合図に気づかぬ
太子夷皋、と発布され、穆嬴は子を抱きしめながら安堵のため息をついた。女と子供の姿に罪悪感を覚えていた氏族たちも、胸を撫で下ろす。見たことのない公子より、宮城と趙氏の邸を往復する母と子のほうが生々しかったのだ。しかし趙盾は安堵に身を委ねられなかった。彼はこれからが本番である。
翌年の初春、夷皋は正式に晋公となった。年が明けたために、数え九才である。この幼児は、君主がなんたるか、ということもわからぬまま、皆の前に引き出された。傍らに三十四才となった趙盾が寄り添い、手を引き、そしてぬかずいた。夷皋は言われたとおりの言葉を発し、儀礼は終えた。子供に全てをつき合わせるわけにいかぬ。
「あとでまた参りますゆえ、我が君におかれましては、ゆっくりお休みください」
趙盾が薄い表情で夷皋に言った。夷皋は少しひきつった顔をしたが、頷き、
「中軍の佐に
つまり、成人してまもない
さて。先克は素直に喜んだか。話をもってこられたときは、内心喜んだ。少なくともあと十年は叔父を睨み付けながら牽制し耐えねばならぬと苦々しく思っていたところに、二十代の若さで卿である。しかも、次卿であった。趙盾は若い。ゆえに若いもので閥を作ろうとしているのだと、親近感さえわいた。しかし、趙盾は先克の力など実はどうでもよかったし、先氏の争いにも興味が無かった。
「賈季の席が空いておりますので、お願いする。ところで
先克は辞退を考えた。先氏の争いを入れたことを暗に指摘され、無能二人を面倒見ろと言われたのである。若いゆえと辞するべきであったが、趙盾の恫喝に屈した。――お困りならおっしゃってください。言えば、先氏の半分ほどは殺される、と先克は断じた。ゆえに、受け入れ、後日
親の余光でたまたま
「君公が若く、戦に出ることは無い。
税制と法制を照らし合わせ報告に来た
「己の不甲斐なさを棚に上げ、他者を圧し、縛るとはどういう了見だ、あの男は!」
郤缺の邸で、士会が苛立ちを隠さず吐き捨てた。もう春であったが、強い風の中に寒さは残っている。温めた
「白湯でよい。甘いものも酒精もいらぬ。罪を問われたくないものには問い、責をとる気のものには問わぬ。うまいことやっている。初志貫徹せぬ正卿と、もはや誰も言わぬ。……わたしは恥を知っているつもりだ、本来なら辞さねばならぬ。しかし、私が辞せば先子に話が飛ぶ。あの御仁が卿をやめようがどうかはどうでもよい。ただ、空いた席でまた揉める。趙孟はあんたに兵をつけたくないようだな、
「まあ、よいではないか。私ていど、末席でよい」
郤缺は笑顔で返した。もし順当に行くなら、先克をつっこまず、それぞれを繰り上げ、郤缺を
「隠しているなら答えなくていいが、聞く。それでいつ戦をする?」
士会の唐突の問いに、郤缺は目を丸くした。
「戦、とは」
郤缺が素で返したことに気づき、士会が呆れた顔を見せた。
「秦が攻めてくるだろう。議にもあげてないのか、
言われてみればその通り、ではあるが、言われねば思いもしなかったと郤缺は嘆息した。趙盾が秦や公子雍とどのようなやりとりとしているのか、郤缺は聞いていない。が、穏便に終わったと考えるのは確かに楽観すぎた。
「明日、趙孟に問うてみよう。あのものは武に疎い、漏れているやもしれん」
武に強い己さえ気づいていなかったのである。可能性はあった。が、士会は首を振った。
「あの男はわかっている。武に疎いが、頭は回る。わざわざ言わぬは己以外は決めぬで良い、考えぬで良い、という傲慢さがあるからだ。どちらにせよ、戦の準備は早い方が良い。わたしは任じられた役は果たす」
郤缺は不快を隠さぬ士会を、見つめた。そこに好奇の目が入っていることを自覚している。士会は、趙盾の性格が気に入らぬらしく、彼らしくなく罵倒する。しかし、郤缺などよりよほどこの男は趙盾の能力を知り、信じている。士会は趙盾が幼君を奉ったことを不甲斐ないと嘆くが、間違っている、と言ったことはない。ああ、まあ、あの男ならやりとげるだろうよ。最初に問うたときの答えが、それであった。
晋に二つの才があるというのに、両翼にならぬは惜しい。郤缺は苦笑した。物事はそうそううまく転がらぬものである。
さて、士会が郤缺にくだをまいていたこの春。趙盾は最後の仕上げにかかっていた。夷皋の私室にて、穆嬴ともう一人を呼びつけていた。ついたての向こうにいる女性に、趙盾は拝礼し話しかけた。
「穆嬴に、朝会の庭や私の邸前で泣き落としをするよう命じたのはあなたですね、
名指しされた女は、ぴくりと口元を歪ませる。文嬴は文公の第一夫人である。かつて、襄公を詐欺めいた言葉で脅し、秦の将を解放させたことは前述した。これにより
「あ、違うの、私が困って、お姉様……いえお
問われもせぬのに、穆嬴が必死に庇った。この女はどこまでも浅はかである。結局、文嬴の指示であることを吐露していると同じであった。趙盾はため息ひとつつかず、まっすぐとついたての先を見る。直接視線を交わしてもおらぬのに、文嬴は圧を感じて身を固くした。小せがれのくせに、と唇を噛みしめる。
「ご内室の方々にこのようなことを申すこと、お許しを。こたび、我が先君の忘れ形見をお守りするようお命じになられたこと、私め
「それはこの文公の夫人を代表する、私に対する脅しですか、正卿」
文嬴が凛とした声で返した。趙盾の薄い表情はすっと笑みと変わる。それは霜が降りたような冷たい笑みであった。
「はい。お話が早いようで私としても助かります。文嬴はおわかりいただけたとのこと、ではおられますか、出られますか」
趙盾の真っ直ぐな言葉に文嬴はたじろいだ。脅しかと問えば、普通は違うと否定するのが人間というものであろう。そうして、互いの妥協点をはかるのではないか。しかし、この正卿は脅しであることを隠さず、そして二者択一の要求をつきつけてくる。晋で小さくなって余生を過ごすか、国外へ出るか。
「私は武は好みません。人の死も好きではない、徒労ですから。しかし、無駄なものをかたづけることは大切だと思っております。女人をさらすことはございませんので、ご安心下さい」
なおも威をもって反論しようとした文嬴に、趙盾は冷や水をぶっかけた。文嬴にあるのは格式と威厳だけである。趙盾には権力と暴力がある。そしてその二つを行使することにためらいがないのは、すでに実証されていた。文嬴は実家の秦へひそかに逃げ帰った。彼女が己の妹たちを守りたかった、というのは本音であったろう。子を失い心も失った辰嬴は連れ帰った。失った子はもちろん公子楽である。穆嬴は文嬴の手を振り払い、晋に残った。夷皋の母の道を選んだのである。ただ、彼女は浅はかであり愚かな女であったので、夷皋の支えになれるような器ではなかった。
「夷皋。正卿に逆らってはいけないわ、母もお前も殺されてしまう。いいえ、違うの、あの人のおかげであなたは生きていけるのよ、正卿に感謝しなさい、ねえ、感謝するのよ、でないと殺されてしまう」
趙盾が去った部屋で、穆嬴は青ざめながら夷皋に何度も話しかけた。九才の幼児は、それを子守歌のようにずっと聞き続けた。
文嬴がいなくなった翌日、趙盾は朝政にて
「秦と書をかわしていたのであるが、どうも行き違いがあるようだ。公子雍を連れて行きたいのでお迎えを、とおっしゃられる。もちろんいらぬ世話であるとお答えしようと思うのだが、いきなりそのようにお断りしては大国に恥をかかせるというもの。お迎えできぬがお越しになる時はお伝えいただくよう、書を送っている。この議についてみなに問いたい」
と言った。先蔑が何か言おうと口を開いた瞬間、先克が睨み付けた。先克は、中軍の佐という法外の地位をもらいながら、先蔑と先都を睨み、趙盾の邪魔をさせぬことに全力を傾けねばならなくなっている。
「末席からよろしいでしょうか、正卿」
みなが互いを見計らっているすきをつき、郤缺は口を開いた。趙盾が頷く。互いに打ち合わせさえもしておらぬが、まるで予定調和のような心地である。
「おそれながら、お伺い申し上げる。公子雍を秦が立てようと考えているのであれば、武による侵攻も考えているでしょう。正卿は、秦がいつごろお越しになるとお思いで」
郤缺は一息に言う。趙盾が薄い表情のまま、一瞬だけ満足げに目が光った。
「秦に対して少々非礼なれど、春も秋も冬も我が国に来られてはお逃げになりますね、縁が無いのです、お越しにならぬほうが良いとご忠告した。そうすると、夏は逃げておらぬとお返しになられた。秦は詐術を使わぬ誠実なお国柄、夏に来られる」
馬鹿正直は煽るに限る。趙盾は夏に戦う、と言い切った。否、夏にさせた、と言い切ったのである。郤缺は士会の苦い顔を思い出しながら
――いやはや、もったいないことだ
とやはり苦笑した。趙盾は士会を有用ていどにしか見ず、士会は趙盾の有能さを知りながら不快の念をいだいている。郤缺は頼まれもせぬため、必要でないかぎり取り持とうとは思わぬ。しかしまあ、もったいないが人の相性はそういうものなのだろう。
郤缺はさっと余事を横に流し、秦を迎える議に意識を戻した。
「秦が我が国に心をくだき、気づかって下さるは感謝すれど、私は先君から秦を国に入れるなと命じられました。一歩たりとも、入れてはならぬ。それが覇者というものだ」
公子雍云々はともかく、趙盾の秦に対する本音を垣間見て、郤缺はうっすらと笑った。
晋は己が肥え太るためであるなら、親戚国でも併呑し、覇者の地位を強奪し、恩人さえ殴る国である。もはや切り捨てた秦など、蹂躙しても良い。一歩もいれるな、というのはそういうことである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます