第36話 雪空とおく夢ちぎれ

 ――かしこにかつらんと 一日いちじつ見ざれば 三月さんげつの如し

 風が雪を舞い散らせる夜、訪れた趙盾ちょうとんの髪は少ししっとりしていた。雪がまとわりつき、そして解けたのであろう。郤缺げきけつは主人として、客の趙盾を出迎えている。この男が郤缺の邸に来るのは初めてであった。私人として書簡を交わしても、公人としてまつりごとを語っても、互いの邸を往き来したことはない。

「このたびは、夕も過ぎ夜も更け、郤主げきしゅとしてはお休みであったところを、私の都合でおしかけましたご無礼、申し訳ございません。郤主が我が無礼狼藉を咎めずお会いいただいたこと、まことに感謝し、我が喜びとしたいと思います」

 席に着く前に、趙盾が美しい頓首とんしゅと共に拝礼した。その見事さを堪能している場合ではないが、郤缺の目元が自然に緩む。趙盾が権力を笠に着て強襲したわけではなく、この夜更けにもかかわらず郤缺に頼りたいという思いが滲み出ていたからである。郤缺は感謝を求めているわけでもなく、したてに出て欲しいわけではない。しかし、本気で頼りたいのであれば、表明すべきだと思っているのだ。

「謹んで返礼つかまつる。正卿せいけいにおかれましては、朝も夕もまつりごとのことをお考えでしょう。私は末席であり非才であるが、問われることがおありなら、それは火急のこと。時間など関係ございません、お答えしよう」

 郤缺の返礼に、趙盾は頷き、しずしずと席についた。

 獣の脂が燃えるにおいがする。灯りは小さく、部屋は薄暗い。郤缺は趙盾が口を開くまで待った。上席のものが下席の邸に急遽押しかけたのである。言いたいことがあるなら、言うべきである。すでに無官の若者と下軍大夫かぐんたいふの年配ではない。この、打てば響くように言葉を発する宰相は、何故か黙っている。趙盾は以前、独学で全てを修めたと言っていた。そのような人間は、他者に相談したこともないであろう。問うことはできる。しかし、頼ることができぬ。他者を頼るというのも才であり術である。それができねば、社会的に人は死ぬ。

「……先君ご内室が我が庭でお倒れになりました」

「なんですと?」

 厳しい顔をする郤缺に、趙盾が手で制する。

「大事はありません。寒い中、薄着でおられて熱を出したよし。我が邸で安静にしておられます。公子もお休みいただきました。明日の朝、お戻しします」

 それで、と郤缺は言わなかった。趙盾が少し目をつむったあと、再び口を開いた。

「公子ようが戻られるのをしぶっている。私としては、しん公不在をこれ以上伸ばすわけにもいかぬと思っている。こちらの窮状を訴え、秋にお呼びの使者を出し、書も出しても動かぬ御仁。そのような方を晋公としてお迎えするのは、先君への不義にならぬかと、正卿として危惧しております。また、氏族の間にも先君の子を差し置き弟を継がせるのはいかがかという声が出ており、国を束ねるものとして人々の不安は最もだと思っております。郤主は文公にその徳を見いだされたお方。お考えを伺いたい」

 郤缺は、小雨のようなしめやかさで言葉を紡ぐ趙盾を薄目でじっと見た。他のものがこれを言うのであれば、郤缺は苦笑しながらも優しくさとしていたであろう。が、趙盾が口に出すのは許されぬ。この男は、極点を迷うことなく取った。三十少しという若さ、十九までてきにいた社会的欠落は言い訳にならぬ。

「かしこに葛を采らんと一日見ざれば、三月の如し」

 あそこに行って葛をとってくる、だなんて言いましたけれども、本当はあの人に会いに行くためです――。郤缺の放った詩に、趙盾が目を見開いた。初めて会ったときに交わした古詩である。当時は父を当てこすった趙盾であった。今、郤缺が趙盾を当てこすっている。

「……かしこにしょうを采らんと一日見ざれば、三秋さんじゅうの如し……。郤主、あなたは正しい。私はあなたも己も詐ろうとしていた。公子雍が来ぬことを問う、などは口実。穆嬴ぼくえいと公子夷皋いこうをどうすれば」

 ここまで己の醜態をさらしながらも、趙盾は目をそらさず、薄い表情のまま郤缺を見て、言った。趙盾という男は、情として愚かな人間であるが、理としては明晰と言ってよい。ゆえに、迷いは本来無い。どうすれば、で止まるあたりに、彼の中に答えがあると断言していい。郤缺は、柔らかく笑みながら言葉を返す。

「あなたは、元々わかっておられる。私より見本のけいがおられたでしょう」

 趙盾が少し眉を顰めた。

「ええ。父であればこうしたであろう、ということは承知です。我が父は晋を最も重く考えた臣です。それにならえば、穆嬴を宮中の奥へ閉じ込め、出さず、見捨てることが得策です。そうして、年かさの公子を据えます。公子雍でも誰でも良い。そういう父です」

「その答えは最初から出ておられたでしょう。そうなさい」

 郤缺の柔らかい声に、趙盾が止まった。端然と膝の上に置かれていた手が、ぎゅっと握られ拳を作る。若い宰相は強く息を吐いた。郤缺は笑みながらも冷たくそれを見る。

「私は、父のような非情になれぬ。先君に託された遺児です。いずれは君公になっていただく。そのための公子雍であったのだ。その程度も役に立たぬ公子とは思いませんでした。いずれ君公になるのであれば、いっそ今でも構わぬ。私は、私の名誉矜持、命、人生の全てをかけて、公子夷皋をお守りする所存です」

「それはあなたの亡びです、趙孟ちょうもう。先の決定を変え、幼君を奉れば、あなたは不徳専横のそしりを受ける。それがわかっているから、先送りになされていたのでしょう。あなたが亡び晋が乱れる。それがわかっているのではないか」

 趙盾が、はじめて目を落とし、俯いた。

「わかっておりますが、わかりませぬ。私はどうすれば、私の忠を奉れるのか。ご教示頂けますか、郤主」

 背を丸め、威儀が消える。己の重みに押しつぶされそうな姿であった。郤缺の目の前で趙盾が年相応の、下手をすればそれよりも幼い姿をさらしている。常に全身をよろいで覆い、とげをまき散らして防御攻撃をし続けているような男である。隙をここまでさらすのは、よほど郤缺を信用しているのであろう。

 郤缺はその肩を優しく撫でてやろうとした。

 優しく撫で、そして『あとはおまかせを。穆嬴の件、公子の件、私がなんとかしましょう』と柔らかく溶かすように言ってやる。普段の趙盾であれば跳ね返すであろうこの言葉は、きっと甘く縋り付きたくなる響きであろう。一人で立っている男は、立ち続けるからこそ強い。一度、他者に支えられれば、もう一人で立てぬ。支えてきたもの、つまりは郤缺に依存せねば立てなくなる。

 そうなれば、有能であるが後ろを省みない趙盾を郤缺はさとしやすくなり、晋の政治は安定に向かう。

 そう。そうなれば、郤缺の手に趙盾という便利な手駒が名実共に入ってくる。この、頭は良いが成熟においてはちぐはぐな若者など、たやすく手の上で転がすことができるのだ。数年にわたり、郤缺は趙盾と書を交わし、信頼され、今もこのように頼られている。あと一息であった。もう一息で、げき氏が。ちちうえ、およろこびを。

 ――それは隠しなさい

 郤缺は、趙盾の肩をわしづかみにした。趙盾が驚き、顔をあげる。

「趙孟。あなたが正卿です。あなたが決めたことを誰も覆すことはできぬ。君公さえ容易に反論できぬ立ち位置、それが正卿です。あなたは己で正卿を掴んだ、辞されなかった。ゆえにその重さからもう逃げられぬ。決めごとも、発する言葉も、あなたが責を負うものです。しかし、あなたは私に迷いを見せた。その迷いに対し私の答えはありませんが、あなたが何を選ぼうが、何を決めようが、私は支えよう。迷いを見せた信への、私のせいいっぱいの敬です」

 いっそ厳しさをこめた声で、郤缺は言い放った。弛緩していた趙盾の顔が少しずつ引き締まり、目に光が宿る。肩を掴んだ郤缺の手を、趙盾の手が、優しく撫でた。礼であるのか心配ないと言いたいのか。郤缺はゆっくりと手を離し、失礼つかまつった、と言った。趙盾が首を振り、感謝を、と返す。

「……郤主のおしかり、励ましの言葉、我が喜びとします。あなたは趙氏ではない。ゆえに、黄泉こうせんの入り口を共に入れとは言いませんが、私が亡びゆく様を見届けて下されば、嬉しく思う。そしてひとつ。私は亡びますが、その代わり夷皋は徳深い君公になるよう、務めます。私の屍を糧として晋が栄えるのであれば、これほどの喜びはありません。私一人では難しきことゆえ、郤主には手を患わせるかもしれません。私は私を亡ぼしてでも、先君の遺児を覇者として立たせます。郤主も私を殺してでも、晋をお守り下さい」

 郤缺は拝礼し、

「承った」

 と短く返した。この瞬間、公子雍の線も、趙盾を手駒にする妄想も消えた。公子雍の件はともかく、趙盾を手駒にせぬと己は一度言ったのである。それに未練がましく手を伸ばそうとしたのが間違いであった。記憶にある欒枝らんしがその手を止めた。手駒にせよと言ったのはあなたではないかと、郤缺は思わない。彼の人は郤缺の誠実さを認めていたのであり、薄汚い策謀を望んではいなかった。

「ところで、郤主。穆嬴をけしかけたものに一人、私には心当たりがある。これは私で処理する。これ以上、まつりごとを乱されては適わぬ。太子に関しては、明日にでも朝政に議を出します。あなたを信じて申し上げます、これにご賛同願いたい。これは謀議ですが、ご容赦を。私はもう止まるつもりはない」

 音も無く降り積もる雪のように紡がれる趙盾の言葉に、郤缺は承った、と再び言った。

 この、寒く。寒すぎる雪の夜に、もう一人、晋の先々を見ていた男がいた。士会しかいである。士会は趙盾の邸で穆嬴が倒れたことなど知らぬし、その後、郤缺と密談したことなども知らぬ。ただ、家宰かさいどもに

「来年、秦と戦がある。今から備えろ」

 と、言った。理由は言わぬが、家のものたちは、頷いて引いていった。この若い主は恐ろしいほど慧眼である、ということが既にわかっていたからである。

 士会はため息をついた。趙盾は公子雍の話を聞いて、一瞬で切り捨てていた。いらぬ道具、という評価は正しいが、それで終わらせるのであれば穆嬴も邪魔な道具と切り捨てるべきであった。が、この時期になってもせぬのは、心がそちらに傾いたからであろう。それが、趙盾の顔から見えた。

「女の涙に負け、言葉を曲げるとは不甲斐ない」

 小さく吐き捨てた後、冬の空を見た。どんよりと曇り、月も星も見えぬ。雪はさらに激しさを増している。晋の行く末を象徴するようであった。

 紀元前六二一年、晋。秋に襄公じょうこうが死に、冬に息子の夷皋が太子として立った。翌年、この八才の幼児は晋公となる。

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