第36話 雪空とおく夢ちぎれ
――かしこに
風が雪を舞い散らせる夜、訪れた
「このたびは、夕も過ぎ夜も更け、
席に着く前に、趙盾が美しい
「謹んで返礼つかまつる。
郤缺の返礼に、趙盾は頷き、しずしずと席についた。
獣の脂が燃えるにおいがする。灯りは小さく、部屋は薄暗い。郤缺は趙盾が口を開くまで待った。上席のものが下席の邸に急遽押しかけたのである。言いたいことがあるなら、言うべきである。すでに無官の若者と
「……先君ご内室が我が庭でお倒れになりました」
「なんですと?」
厳しい顔をする郤缺に、趙盾が手で制する。
「大事はありません。寒い中、薄着でおられて熱を出したよし。我が邸で安静にしておられます。公子もお休みいただきました。明日の朝、お戻しします」
それで、と郤缺は言わなかった。趙盾が少し目をつむったあと、再び口を開いた。
「公子
郤缺は、小雨のようなしめやかさで言葉を紡ぐ趙盾を薄目でじっと見た。他のものがこれを言うのであれば、郤缺は苦笑しながらも優しくさとしていたであろう。が、趙盾が口に出すのは許されぬ。この男は、極点を迷うことなく取った。三十少しという若さ、十九まで
「かしこに葛を采らんと一日見ざれば、三月の如し」
あそこに行って葛をとってくる、だなんて言いましたけれども、本当はあの人に会いに行くためです――。郤缺の放った詩に、趙盾が目を見開いた。初めて会ったときに交わした古詩である。当時は父を当てこすった趙盾であった。今、郤缺が趙盾を当てこすっている。
「……かしこに
ここまで己の醜態をさらしながらも、趙盾は目をそらさず、薄い表情のまま郤缺を見て、言った。趙盾という男は、情として愚かな人間であるが、理としては明晰と言ってよい。ゆえに、迷いは本来無い。どうすれば、で止まるあたりに、彼の中に答えがあると断言していい。郤缺は、柔らかく笑みながら言葉を返す。
「あなたは、元々わかっておられる。私より見本の
趙盾が少し眉を顰めた。
「ええ。父であればこうしたであろう、ということは承知です。我が父は晋を最も重く考えた臣です。それにならえば、穆嬴を宮中の奥へ閉じ込め、出さず、見捨てることが得策です。そうして、年かさの公子を据えます。公子雍でも誰でも良い。そういう父です」
「その答えは最初から出ておられたでしょう。そうなさい」
郤缺の柔らかい声に、趙盾が止まった。端然と膝の上に置かれていた手が、ぎゅっと握られ拳を作る。若い宰相は強く息を吐いた。郤缺は笑みながらも冷たくそれを見る。
「私は、父のような非情になれぬ。先君に託された遺児です。いずれは君公になっていただく。そのための公子雍であったのだ。その程度も役に立たぬ公子とは思いませんでした。いずれ君公になるのであれば、いっそ今でも構わぬ。私は、私の名誉矜持、命、人生の全てをかけて、公子夷皋をお守りする所存です」
「それはあなたの亡びです、
趙盾が、はじめて目を落とし、俯いた。
「わかっておりますが、わかりませぬ。私はどうすれば、私の忠を奉れるのか。ご教示頂けますか、郤主」
背を丸め、威儀が消える。己の重みに押しつぶされそうな姿であった。郤缺の目の前で趙盾が年相応の、下手をすればそれよりも幼い姿をさらしている。常に全身をよろいで覆い、とげをまき散らして防御攻撃をし続けているような男である。隙をここまでさらすのは、よほど郤缺を信用しているのであろう。
郤缺はその肩を優しく撫でてやろうとした。
優しく撫で、そして『あとはおまかせを。穆嬴の件、公子の件、私がなんとかしましょう』と柔らかく溶かすように言ってやる。普段の趙盾であれば跳ね返すであろうこの言葉は、きっと甘く縋り付きたくなる響きであろう。一人で立っている男は、立ち続けるからこそ強い。一度、他者に支えられれば、もう一人で立てぬ。支えてきたもの、つまりは郤缺に依存せねば立てなくなる。
そうなれば、有能であるが後ろを省みない趙盾を郤缺はさとしやすくなり、晋の政治は安定に向かう。
そう。そうなれば、郤缺の手に趙盾という便利な手駒が名実共に入ってくる。この、頭は良いが成熟においてはちぐはぐな若者など、たやすく手の上で転がすことができるのだ。数年にわたり、郤缺は趙盾と書を交わし、信頼され、今もこのように頼られている。あと一息であった。もう一息で、
――それは隠しなさい
郤缺は、趙盾の肩をわしづかみにした。趙盾が驚き、顔をあげる。
「趙孟。あなたが正卿です。あなたが決めたことを誰も覆すことはできぬ。君公さえ容易に反論できぬ立ち位置、それが正卿です。あなたは己で正卿を掴んだ、辞されなかった。ゆえにその重さからもう逃げられぬ。決めごとも、発する言葉も、あなたが責を負うものです。しかし、あなたは私に迷いを見せた。その迷いに対し私の答えはありませんが、あなたが何を選ぼうが、何を決めようが、私は支えよう。迷いを見せた信への、私のせいいっぱいの敬です」
いっそ厳しさをこめた声で、郤缺は言い放った。弛緩していた趙盾の顔が少しずつ引き締まり、目に光が宿る。肩を掴んだ郤缺の手を、趙盾の手が、優しく撫でた。礼であるのか心配ないと言いたいのか。郤缺はゆっくりと手を離し、失礼つかまつった、と言った。趙盾が首を振り、感謝を、と返す。
「……郤主のおしかり、励ましの言葉、我が喜びとします。あなたは趙氏ではない。ゆえに、
郤缺は拝礼し、
「承った」
と短く返した。この瞬間、公子雍の線も、趙盾を手駒にする妄想も消えた。公子雍の件はともかく、趙盾を手駒にせぬと己は一度言ったのである。それに未練がましく手を伸ばそうとしたのが間違いであった。記憶にある
「ところで、郤主。穆嬴をけしかけたものに一人、私には心当たりがある。これは私で処理する。これ以上、まつりごとを乱されては適わぬ。太子に関しては、明日にでも朝政に議を出します。あなたを信じて申し上げます、これにご賛同願いたい。これは謀議ですが、ご容赦を。私はもう止まるつもりはない」
音も無く降り積もる雪のように紡がれる趙盾の言葉に、郤缺は承った、と再び言った。
この、寒く。寒すぎる雪の夜に、もう一人、晋の先々を見ていた男がいた。
「来年、秦と戦がある。今から備えろ」
と、言った。理由は言わぬが、家のものたちは、頷いて引いていった。この若い主は恐ろしいほど慧眼である、ということが既にわかっていたからである。
士会はため息をついた。趙盾は公子雍の話を聞いて、一瞬で切り捨てていた。いらぬ道具、という評価は正しいが、それで終わらせるのであれば穆嬴も邪魔な道具と切り捨てるべきであった。が、この時期になってもせぬのは、心がそちらに傾いたからであろう。それが、趙盾の顔から見えた。
「女の涙に負け、言葉を曲げるとは不甲斐ない」
小さく吐き捨てた後、冬の空を見た。どんよりと曇り、月も星も見えぬ。雪はさらに激しさを増している。晋の行く末を象徴するようであった。
紀元前六二一年、晋。秋に
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