第38話 改めまして、こんにちは
さて、この紀元前六二十年の夏に
改めてその士会のことに、少し筆を費やすこととする。彼は
しかし、それは士会の思い違い、もしくは思い出補正であった。幼少のころからすでに異常な賢さを見せた士会に父親は扱いかね、祖父に相談したのである。士蔿は士会の才に気づき、快く預かった。
士会が天才であるなら士蔿は異才と言うべき男である。法制を整えたというのは、この男を語るに全く足りぬ。彼は謀略において同時代人の中で抜きんでた存在であった。例えば、
日々、庭を眺めて春秋を数えるだけの士蔿は、士会をかわいがってやった。史官や父の代わりに儀礼の手ほどきもしてやった。晋でも最高峰の儀礼を身につけた男に基本を教わったのであるから、士会の所作に礼の本質が馴染んでいるのも頷けるであろう。そうして、幼い士会の一見とりとめのない話をいつも聞いてやった。情報を全て即座に咀嚼し答えを出す士会の言葉は突拍子もなく聞こえ、また、人の心の奥底を突いてくる。兄が必死に素読し覚えようとしている書を、一読で覚えてしまった士会を見て、士𡙇は恐怖し慌て、前述の通り士蔿に押しつけたのである。弟が兄より少々優れている程度なら良い。しかしはるかに優れ、いっそ父を越えるとなれば別である。家が崩れる、と思ったのだ。
「じいさまの書はおもしろい」
十にもならぬ幼子が、老人の腕の中で書簡を見ながら笑う。己が国のために心血注いだものも、この幼児には娯楽らしい。士蔿はまだまるこい手を持つ士会をあやしながら、
「会、碁をしよう」
と言ったりする。もちろん、士会は喜んだ。この祖父の手は子供だましではなく、本気で潰しにかかってくる。幼いながらもそれを感じながら、打つのは楽しいものであった。士蔿は、士会を計るために、外にも出かけ、時には要衝や河にも赴いた。その地で士会に武を問えば、指でさし示しながら即答される。さぐればさぐるほど、孫の才能は無尽蔵であった。それゆえに、害でしかない。長男でなく末子が天才である。兄の
「
と、幼い士会に常に言った。士会は素直に頷き、その言葉を心の中に静かに溶かしていった。この祖父が死ぬころには、士会は己の異常性をなんとなくわかっていたが、常識的な擬態も自然に身につけていた。士蔿の教育のたまものであろう。ただ、士会は気の置けぬ仲のものに特別扱いだけはされたくない。ゆえに、郤缺が時折好奇の目をむけてきたり、距離を置くことは、我慢ならなかった。
夏に来るであろう戦に向けて、晋はひそやかに牙を研いだ。来なければそのまま捨て置くだけであり、己の牙を研ぐことは無駄ではない。
「数日、この子を預かって欲しい」
と趙盾から申し入れがあった。
「韓氏の主は数年前から病床にある。ゆえに私が預かり養っているが、行き届かぬものがある。
礼をつくした挨拶と共に、そのような内容の書が届き、士会は仕方無く応じた。書に詐術は無く、理もある。韓氏は謹厳な家風を持つ武の氏族である。親が託せず趙盾が指導できぬものを補いたいのであろう。まあ、そのように読めた。預かった韓厥は趙盾以上に表情に乏しく、士会はいっそ呆れたが、才は驚くべきものであった。士会の意図を理解し、様々な戦場を想定した質問をしてきた。士会はいちいち答えた。
「士氏の兵は命じられたとおり動いておられます。ここまでの練れた兵は
ある時、韓厥がまっすぐと士会を見上げながら問うた。
「斬れ」
士会は端的に返した。この子供は逡巡することなく、ご教示ありがとうございます、と返礼した。
韓厥が随邑を辞したあと、対秦戦に向けての軍編成が発された。現行の席次から変えたのである。
中軍の将、趙盾
中軍の佐、
上軍の将、
上軍の佐、
下軍の将、
下軍の佐、
軍率いず、郤缺
構成員は変わっていないが、席次が変わってしまった。先都は、先克の陰謀かと政堂で睨み付けた。が、先克も趙盾から何も聞いておらぬ。しかしここでうろたえては先都につけこまれると、冷たい
「上軍の佐へのお引き上げありがとうございます。しかしながら申し上げます。
この発言はもちろん荀林父である。めざといくせに相変わらず政治勘が極めて低い。が、この場では良い呼び水であった。郤缺は趙盾が荀林父を役に立つと言い切る理由がわかる。この男は、叩き台にしやすいのである。常識的な彼の言葉を受けて返すことにより、己の意を通しやすくなる。
「先氏におかれましては、軍ひとかたまりで動いてほしく、先叔には
いきなり話をふられ、先克は唾を飲み込んだ。先蔑と先都の仲はもちろん良くない。ゆえに、先蔑が引きいる兵と先都の率いる兵の息は合わぬ。が、ここで先氏の軍は統一されておらぬゆえ無理だ、とは言えなかった。先氏は
「……我が先氏一同、力添えし、戦いに挑む所存です。先子に将としての心得を、先叔に佐としての心得を充分に教示し、中軍の佐としても先氏の主としても責を果たす所存でございます」
そのような、空気の悪さを趙盾は気にもしない。郤缺にとっても、いまや蠅か蚊のように思っている。荀林父はむろん気づいていない。趙盾派の中軍と無色であるが政治勘の悪い荀林父に挟まれる箕鄭は困惑するしかない。結局、戦争にかこつけて、趙盾がやりやすい席次を決めたということであった。趙盾は巣を作るがのごとく、政堂を己の庭としている。郤缺はもはや趙盾を止めようとは思わない。あの男が道を踏み外したときに
さて、視点がころころ変わって申し訳ないが再び士会である。正直、この天才を通して語ったほうがこの項はわかりやすいので、以下、士会をえがくこととする。郤缺は脇に置くことになるが、ご容赦願いたい。
士会は、変わりゆく空、においで夏の到来を感じていた。趙盾は国境付近の邑に対し、報告を密にするよう命じているらしい。武に疎くてもその程度はわかるのか、それとも荀林父や郤缺の上申か。どちらにせよ、情報は国の宝である。大軍が動くとき、独特の気配がある。相手の物見であったり、狄の移動であったりと、獣に驚いた鳥たちが飛び立つような前兆がある。士会はそれを二十代に入ったころ、見た。文公率いる晋軍が楚軍とぶつかり、大勝した会戦である。士氏のこわっぱていどで参戦したが、それでも凄まじい体験であった。実戦に勝る教本はないものだ、と未だに深く身のうちに染みこんでいる。帰国の途中、文公に見いだされ何故か
「文公のおかげで、色々なことを知れた。誰かは知らぬが、感謝はする」
中軍に加わる晋公の兵に指図しながら、士会は小さく呟く。そこへ、使者がやってきて
「調練のあと、正卿がお会いしたいと」
と伝えてきた。士会は柔らかな笑みで使者をねぎらい、
「何かご伝達であればここで伺おう。ご命じされることがあれば、それはおおやけのお話、政堂で卿の方々と共に承る。正卿のみがお会いしたいということか?」
と優しく問うた。使者に罪は無い。使者は言葉の厳しさに戸惑ったが、声音の優しさにすがり、さようでございます、中軍の大夫の意見を伺いたいとおおせ、と必死に言いつのった。士会は会うのが宮中内であることを確かめると、了承した。立ち去る使者を見ながら、士会は心底嫌だ、と思った。中軍の大夫である士会を呼ぶと言ったが、中軍の大夫は他にもいる。わざわざ己だけを呼ぶと強調するのは、次の戦で大夫たちを束ねろということであろう。中軍の大夫は趙氏やその傘下の氏族が多い。ますます趙盾の走狗のようである。が、趙盾は便利を求めるが閥は求めない。碁石を並べるように都合の良い配置を作ったのだ。そして士会もそれはわかる。きっと、己が適任であった。
果たせるかな。
「次の戦、中軍の大夫を士季がとりまとめてもらえぬだろうか。士氏の手勢は少ないが、あなたの腕は良い。少ない兵で終わらせるのは惜しいので、大きく働いてもらいたい」
趙盾は想定どおりのことを言った。宮中にある控え室のひとつである。趙盾以外、
「正卿におかれましては、この会をお認めいただき、うれしく思います。しかし、辞するべきお話です。まず、わたしは格も低く若年の身です。中軍の大夫の方々はみな経験深き貴き方々。年功どちらの序列を考えてもわたしがお指図するわけには参りません。また、わたしは文公の車右でありましたが、戦後の任命であり戦功無き飾りでした。戦に巧みな方々が多いなか、わたしのような非才が手ほどきなどできましょうか。そして中軍には先主が佐をされます。先氏は武に秀でた方々。その貴き卿を差し置いてわたし風情が大夫たちを束ねるは無礼となります。せっかくのお話光栄でございますが、辞することをお許しいただきたい」
士会はゆっくりと
それで?
という言葉を嗅ぎ取った。趙盾からすれば士会の辞意など想定済みであったろう。そのくらい、士会もわかっている。しかしここで折れれば、少なくとも士会は趙盾の道具として完全に取り込まれる。兄のことを慮ってということもあるが、何より士会が気に食わぬ。このような男を、無徳というのだ、と吐き捨てたかった。心の奥底で、その道をわたしは捨てた、なぜ平気なのか、という不快もある。幼少の士会にとって祖父も含めて全てが己を肥やすための道具であった。それをたしなめ続けたのがその祖父であった。
「士季のおっしゃること最もなれど、我が君はいまだ幼年、長く仕える臣が必要です。私も若年の身であるが重い責を負っている。また、あなたは己を非才と言うが、その才を慕うものは多い。そして先氏ですが先主は若く戦もはじめてです。あなたが見本となり示して頂けると助かる。受けてもらえぬか」
趙盾の言葉に士会はやはり頷かぬ。先の秦への使いで己は任を果たせぬ無能を露呈した、そのようなものに重責はかなわぬ。趙盾ももちろん引かぬ、秦が公子雍を手放さぬがためとすり替えの論を言う。幾度辞しても趙盾は許さなかった。士会は趙盾の諦めの悪さに呆れそうであったが、趙盾も士会の往生際の悪さに内心呆れていた。らちがあかなかった。
「
士会はいきなり言った。初めて趙盾が薄い表情を動かした。想定外の言葉に驚いたらしかったが、頷いた。
「周より晋へと移った
拝礼し言うと、士会は趙盾をじっと見た。趙盾も拝礼し、
「同じく周より晋へと移り
と、返した。士会は小さく頷くと口を開いた。
「で? あんたは戦でわたしにどうしてほしいんだ?」
一気に砕けた士会の態度に、趙盾は目を見開いて、息を飲んだ。思わず首をかしげ、
「士季。ここは私邸でもなく、その、私とあなたは上席と大夫だ。あ、ここはまつりごとの場、でもある」
と、ぽつぽつと言った。驚きすぎて、言葉がひっかかっているらしい。確かに、宮中ではある、と士会は笑った。
「この閉じられた場所で、あんたとわたしが、密やかに談じている。これがわたくしごとでなく、なんであろうか。ゆえに、名乗りをしてやったのだ。わたしに任じるのであれば、
「あなたは言わぬでもわかる人ではないか」
笑う士会に趙盾が薄い表情で指摘した。士会は首を振った。その言葉は正しくあったが、この場において、間違っている。
「わたしはわかっている。わたしを選んだ理由の全ては知らぬが、わたしに何をさせたいか、先氏へのやりかたでわかっては、いる。しかし、受けてほしければ、言え。それが人に対する礼儀と言うものだ。わたしは君公の大夫であるが、趙氏の手勢でもなく、あんたの手下でもない」
「……意外とあなたはめんどくさいな」
趙盾がぼそりと言った。その顔は本当に面倒だ、という表情であった。士会は
「では申し上げよう。先子は私を逆恨みしている。戦に乗じて私の背後を襲おうとしている。戦に事故はつきものであるが、故意にされては秦を追い返すこともできぬ。下軍に先叔を置いて監視しあってもらおうとしたのであるが、先子はそれも思わぬ
士会は膝に手を置いて、け、と息を吐き捨てた。
「どうにかしてほしい、とは投げたな」
「私は武が全くわからぬ。ゆえに、細かいことは申し上げようもない。卿同士で妙な
格が低いから逆に良い。分かっていた答えであるので怒りはせぬが、いざとなれば切り捨てるという態度をあらわにされると、それはそれで不快である。まあ、口に出した以上は保護を考えるであろう。士会は趙盾が人を道具としている以上、役に立つなら安易に捨てず、使いたおすとも見ていた。自分の価値くらい士会はわかっている。己はこれ以上なく便利な道具であろう。
「先子は勇猛であるが後先考えぬ御仁だ。そして昨年から矜持を傷つけられたまま燻っている。あんたのいうとおり、背後から殴る可能性はある。留守を任せるのも難しいな、いなおって乱を起こしかねない。が、あんたはなぜ断言できる。そして他にも才あるものはいる、趙氏の本家は武に優れているだろう」
士会の指摘に趙盾がうっすらと笑った。嘲っている笑みではなく、どこか誇らしげな笑みであった。己の功を見せびらかしたいのかと士会は眉をひそめた。
「私の養い子に
士会は、思わず嫌悪でのけぞった。この男は、養っている韓厥を自慢しているのであろうが、言っていることは子供に間諜をさせた、ということである。正気か、と思ったが、本人は特に後ろ暗いつもりはないらしい。趙盾は本気で嬉しそうに、いかに韓厥が『役に立つ良い子か』と褒めちぎり続ける。意外に親ばかな気質なのやもしれぬが、士会は倫理観の欠如に趙盾を殴りたくなった。が、それは本題ではない。手で、もういい、と制すると、趙盾の顔はすっと薄い表情に戻っていった。
「私は韓氏の平静で謹厳な血筋を信じている。子供とはいえその目は確かです。先子にはこのあたりでしっかりと、己の立場をわかっていただきたい。そして、秦に我らは勝たねばならぬ。先の戦には先君や亡き先氏の武に優れた方々がおられたが、いまはいない。本来なら
趙盾の言葉は、
どうしようもない、と士会は思った。戦っている最中に同士討ちが起きれば、秦に負け、正卿は死に、不毛な抗争が始まるであろう。それを押さえるはずの君主は幼い。
「あんたはきっちり腹を見せた。わたしもそれに応じる。秦との戦、わたしが下役なれど差配しよう。ところで、令狐あたりか」
令狐は晋に近い秦の地である。趙盾は驚きもせず頷いた。
「そのあたりの邑に戦の差配をしているようだ。狄も移動している。そして、我が都、
士会が、意外に武がわかるではないか、と言えば、わかりませぬ厥の助言です、と返される。趙盾は本当に戦略も戦術も疎いようであった。
「そろそろ、足音も聞こえるころだろう。ここ七日の間には来るとわたしは思っている。では令狐で追い返す、他はわたしが決める。あんたはわたしに中軍の大夫を率いろと最初に言ったが、こうも言ったな。三軍を率いる器、と。策はわたしが立てろということで良いな?」
士会の念押しに、趙盾が少し苦笑した。薄い苦笑であった。
「わかっているのであれば、聞く必要はないだろう」
いや、必要だろう、と思ったが、士会は黙っていた。
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