第38話 改めまして、こんにちは

 さて、この紀元前六二十年の夏にしんしん令狐れいこという土地で戦った。はっきりとはしないが、郤缺げきけつ下軍かぐん大夫たいふとして許されてから十年近く経っている。すでに四十半ばを越えていた。この間、郤缺が新たに出会った人間は多い。その中で長いつきあいになってきたのが士会しかいである。初見で才を見抜き、その可能性を見たいという思いで交友を願いでたのも、懐かしいほどであった。

 改めてその士会のことに、少し筆を費やすこととする。彼は氏という法制の一族である。代々がそうであったわけでなく、士会の祖父である士蔿しい大司空だいしくうに任じられてからとなる。この男が制定した法を『士蔿の法』と言い、士会の代になっても使われている。士会はその祖父士蔿にかわいがられた。父が兄にかかりきりであったため、じいさまが相手をしたのであろう、と士会は今も思っている。

 しかし、それは士会の思い違い、もしくは思い出補正であった。幼少のころからすでに異常な賢さを見せた士会に父親は扱いかね、祖父に相談したのである。士蔿は士会の才に気づき、快く預かった。

 士会が天才であるなら士蔿は異才と言うべき男である。法制を整えたというのは、この男を語るに全く足りぬ。彼は謀略において同時代人の中で抜きんでた存在であった。例えば、曲沃きょくよくの開祖である桓叔かんしゅくやその息子の荘伯そうはくの血を引く公族どもが、時の君公くんこうである献公けんこうを圧迫してきた。士蔿は苛立つ献公をなだめてさらりと動き、たった三年の策謀で彼らを反乱分子にしたてあげ、族滅した。また、その一族たちの財を全て回収し国庫に納める手際の良さである。武に強いが政治に弱い献公の頭脳を全て担当していたと言って良い。これほどの彼も、献公の乱心を止めることはできなかった。士蔿は献公に忠を捧げていたが、諫言を無視されるとすぐに引退した。むろん、彼は公子たちと君公の対立を予想し、さらに公子たちの争いも予想しており、その全てを含め言葉を尽くして諫めた。が、献公はもはやてきの女により惑乱しており、聞く耳持たぬ。失意のまま士蔿は、しかし潔く政界から去ったのである。ゆえに、士氏はその後の内乱で一切被害がない。絶大な権勢をあっさり捨て、保全を手に入れたのだ。士蔿の凄味が見える一件でもある。士会の知る士蔿は、すでに引退し息子に家督も譲っている。むろん、士氏の長は士蔿であるが、実権は息子の士𡙇しけつ、つまりは士会の父であった。

 日々、庭を眺めて春秋を数えるだけの士蔿は、士会をかわいがってやった。史官や父の代わりに儀礼の手ほどきもしてやった。晋でも最高峰の儀礼を身につけた男に基本を教わったのであるから、士会の所作に礼の本質が馴染んでいるのも頷けるであろう。そうして、幼い士会の一見とりとめのない話をいつも聞いてやった。情報を全て即座に咀嚼し答えを出す士会の言葉は突拍子もなく聞こえ、また、人の心の奥底を突いてくる。兄が必死に素読し覚えようとしている書を、一読で覚えてしまった士会を見て、士𡙇は恐怖し慌て、前述の通り士蔿に押しつけたのである。弟が兄より少々優れている程度なら良い。しかしはるかに優れ、いっそ父を越えるとなれば別である。家が崩れる、と思ったのだ。

「じいさまの書はおもしろい」

 十にもならぬ幼子が、老人の腕の中で書簡を見ながら笑う。己が国のために心血注いだものも、この幼児には娯楽らしい。士蔿はまだまるこい手を持つ士会をあやしながら、

「会、碁をしよう」

 と言ったりする。もちろん、士会は喜んだ。この祖父の手は子供だましではなく、本気で潰しにかかってくる。幼いながらもそれを感じながら、打つのは楽しいものであった。士蔿は、士会を計るために、外にも出かけ、時には要衝や河にも赴いた。その地で士会に武を問えば、指でさし示しながら即答される。さぐればさぐるほど、孫の才能は無尽蔵であった。それゆえに、害でしかない。長男でなく末子が天才である。兄の士縠しこくはそれに耐えられる図太さが無い。しかし、封じるにはもったいなさすぎる天稟てんぴんである。ゆえに、士蔿は

かいなんじは頭が良い。しかし、目上の方々はもっと思慮深い。長幼を忘れ割り込んではならない。常に謙譲を持ち、敬を以て礼を尽くし、恥を知れ。人に何も譲らず、敬を持たず礼を尽くさず、恥を知らぬものは終わりが良くなく祀りが絶える。汝は将来兄を支え、国に仕え、君公に忠を奉る。才に振り回され謙譲を忘れるな、礼を蔑ろにするな、己の恥を見据え続けろ。己を押し通すな、潔く引け。良いな」

 と、幼い士会に常に言った。士会は素直に頷き、その言葉を心の中に静かに溶かしていった。この祖父が死ぬころには、士会は己の異常性をなんとなくわかっていたが、常識的な擬態も自然に身につけていた。士蔿の教育のたまものであろう。ただ、士会は気の置けぬ仲のものに特別扱いだけはされたくない。ゆえに、郤缺が時折好奇の目をむけてきたり、距離を置くことは、我慢ならなかった。

 夏に来るであろう戦に向けて、晋はひそやかに牙を研いだ。来なければそのまま捨て置くだけであり、己の牙を研ぐことは無駄ではない。趙盾ちょうとんらしい考えである。士会も中軍の大夫として己の手勢を調練していた。随邑ずいゆうは比較的裕福なゆうであり、手勢は増えた。そのようなおり、

「数日、この子を預かって欲しい」

 と趙盾から申し入れがあった。かん氏の嗣子しし韓厥かんけつという十代半ばの少年であった。

「韓氏の主は数年前から病床にある。ゆえに私が預かり養っているが、行き届かぬものがある。士季しきの武を数日見せてやってほしい」

 礼をつくした挨拶と共に、そのような内容の書が届き、士会は仕方無く応じた。書に詐術は無く、理もある。韓氏は謹厳な家風を持つ武の氏族である。親が託せず趙盾が指導できぬものを補いたいのであろう。まあ、そのように読めた。預かった韓厥は趙盾以上に表情に乏しく、士会はいっそ呆れたが、才は驚くべきものであった。士会の意図を理解し、様々な戦場を想定した質問をしてきた。士会はいちいち答えた。

「士氏の兵は命じられたとおり動いておられます。ここまでの練れた兵はちょう氏にもおりませぬ。もし、軍律を逸脱し、列を乱したり動かぬ兵はどうすればよろしいのでしょうか?」

 ある時、韓厥がまっすぐと士会を見上げながら問うた。

「斬れ」

 士会は端的に返した。この子供は逡巡することなく、ご教示ありがとうございます、と返礼した。

 韓厥が随邑を辞したあと、対秦戦に向けての軍編成が発された。現行の席次から変えたのである。

 中軍の将、趙盾

 中軍の佐、先克せんこく

 上軍の将、箕鄭きてい

 上軍の佐、荀林父じゅんりんぽ

 下軍の将、先蔑せんべつ

 下軍の佐、先都せんと

 軍率いず、郤缺

 構成員は変わっていないが、席次が変わってしまった。先都は、先克の陰謀かと政堂で睨み付けた。が、先克も趙盾から何も聞いておらぬ。しかしここでうろたえては先都につけこまれると、冷たいかおを努め、先都を無視した。先蔑は昇進となる。が、この男はいまだ公子ように心残りがあり、趙盾の差配に不満がある。はっきり言えば、恥をかかされたと思っている。また、先克には何故か怒鳴られる始末で、先克派の中で浮き上がり、かといって今さら先都派に身を寄せるつもりはない。そのような時の昇進は素直に喜べなかった。

「上軍の佐へのお引き上げありがとうございます。しかしながら申し上げます。先叔せんしゅくは武に強いせん氏のかた。そのかたを上軍から下軍の佐にお変えになるのは、いささか腑に落ちません。正卿せいけいの差配はよくお考えのことかと思いますが、失礼を承知で願いたてまつります。この非才にわかるよう、ご説明ご教示いただけませぬでしょうか」

 この発言はもちろん荀林父である。めざといくせに相変わらず政治勘が極めて低い。が、この場では良い呼び水であった。郤缺は趙盾が荀林父を役に立つと言い切る理由がわかる。この男は、叩き台にしやすいのである。常識的な彼の言葉を受けて返すことにより、己の意を通しやすくなる。

「先氏におかれましては、軍ひとかたまりで動いてほしく、先叔には先子せんしの支えとなっていただいた。先子は勇あるかたと先主せんしゅから伺っている、そのようなかたは将に相応しい。先叔は年も上で知のあるかた、将である先子を佐として導き遺漏なく戦を進めることができると考えた。上軍も下軍もけいとしての責は同じ、問題はないでしょう。私は武に疎いが、同じ氏族が共に動いたほうが理に適うくらいわかっている。先主は我が中軍の佐として務めてほしいが、下軍を先氏にお任せすることよろしいか」

 いきなり話をふられ、先克は唾を飲み込んだ。先蔑と先都の仲はもちろん良くない。ゆえに、先蔑が引きいる兵と先都の率いる兵の息は合わぬ。が、ここで先氏の軍は統一されておらぬゆえ無理だ、とは言えなかった。先氏は先軫せんしん先且居せんしょきょと続く武の一族であるのだ。

「……我が先氏一同、力添えし、戦いに挑む所存です。先子に将としての心得を、先叔に佐としての心得を充分に教示し、中軍の佐としても先氏の主としても責を果たす所存でございます」

 襄公じょうこうに強い進言をしていた若者はどこへいったのか。先克は完全に趙盾に従属してしまっている。先蔑が不快を隠さず、趙盾を睨んだ。この正卿が先克をいじめているのだ、と少々稚拙な発想を持つこの卿は思っているのである。なかなかに子供じみた考えであるが、おおむね合っている。ただ、己が原因であると先蔑は気づいていない。先都も苦い顔を隠さぬ。先且居の弟として先氏を束ね、趙氏に負けぬよう勢力を伸ばすつもりであったのが、若い甥の暴走により後手後手に回ってしまっている。文公恩顧の氏族のうち、卿にいるのは趙氏と先氏のみである。数として先氏が多いはずであるが、現実は趙氏に牛耳られている。それもこれも、先克のせいであると、先都は己を棚の上にあげて歯ぎしりした。

 そのような、空気の悪さを趙盾は気にもしない。郤缺にとっても、いまや蠅か蚊のように思っている。荀林父はむろん気づいていない。趙盾派の中軍と無色であるが政治勘の悪い荀林父に挟まれる箕鄭は困惑するしかない。結局、戦争にかこつけて、趙盾がやりやすい席次を決めたということであった。趙盾は巣を作るがのごとく、政堂を己の庭としている。郤缺はもはや趙盾を止めようとは思わない。あの男が道を踏み外したときに誅戮ちゅうりくするだけであり、その時こそ郤缺が権勢を握る。趙盾を殺してでも晋を守れと言ったのは、そういうことであろう。

 さて、視点がころころ変わって申し訳ないが再び士会である。正直、この天才を通して語ったほうがこの項はわかりやすいので、以下、士会をえがくこととする。郤缺は脇に置くことになるが、ご容赦願いたい。

 士会は、変わりゆく空、においで夏の到来を感じていた。趙盾は国境付近の邑に対し、報告を密にするよう命じているらしい。武に疎くてもその程度はわかるのか、それとも荀林父や郤缺の上申か。どちらにせよ、情報は国の宝である。大軍が動くとき、独特の気配がある。相手の物見であったり、狄の移動であったりと、獣に驚いた鳥たちが飛び立つような前兆がある。士会はそれを二十代に入ったころ、見た。文公率いる晋軍が楚軍とぶつかり、大勝した会戦である。士氏のこわっぱていどで参戦したが、それでも凄まじい体験であった。実戦に勝る教本はないものだ、と未だに深く身のうちに染みこんでいる。帰国の途中、文公に見いだされ何故か車右しゃゆうになった。手慰みに棒術で遊んでいたら、呼びかけられたのだ。彼の公は士会を別の誰かと見間違え、物懐かしさに若者を車右に任じた。士会はそれに気づいたが、口に出さなかった。他者の郷愁を土足で踏み荒らすのは、誰であれ許されぬことであろう。

「文公のおかげで、色々なことを知れた。誰かは知らぬが、感謝はする」

 中軍に加わる晋公の兵に指図しながら、士会は小さく呟く。そこへ、使者がやってきて

「調練のあと、正卿がお会いしたいと」

 と伝えてきた。士会は柔らかな笑みで使者をねぎらい、

「何かご伝達であればここで伺おう。ご命じされることがあれば、それはおおやけのお話、政堂で卿の方々と共に承る。正卿のみがお会いしたいということか?」

 と優しく問うた。使者に罪は無い。使者は言葉の厳しさに戸惑ったが、声音の優しさにすがり、さようでございます、中軍の大夫の意見を伺いたいとおおせ、と必死に言いつのった。士会は会うのが宮中内であることを確かめると、了承した。立ち去る使者を見ながら、士会は心底嫌だ、と思った。中軍の大夫である士会を呼ぶと言ったが、中軍の大夫は他にもいる。わざわざ己だけを呼ぶと強調するのは、次の戦で大夫たちを束ねろということであろう。中軍の大夫は趙氏やその傘下の氏族が多い。ますます趙盾の走狗のようである。が、趙盾は便利を求めるが閥は求めない。碁石を並べるように都合の良い配置を作ったのだ。そして士会もそれはわかる。きっと、己が適任であった。

 果たせるかな。

「次の戦、中軍の大夫を士季がとりまとめてもらえぬだろうか。士氏の手勢は少ないが、あなたの腕は良い。少ない兵で終わらせるのは惜しいので、大きく働いてもらいたい」

 趙盾は想定どおりのことを言った。宮中にある控え室のひとつである。趙盾以外、寺人じじんさえもおらず、まるで謀議のようだと士会は眉をひそめた。とにかく、二つ返事で受け取るわけにはいかなかった。

「正卿におかれましては、この会をお認めいただき、うれしく思います。しかし、辞するべきお話です。まず、わたしは格も低く若年の身です。中軍の大夫の方々はみな経験深き貴き方々。年功どちらの序列を考えてもわたしがお指図するわけには参りません。また、わたしは文公の車右でありましたが、戦後の任命であり戦功無き飾りでした。戦に巧みな方々が多いなか、わたしのような非才が手ほどきなどできましょうか。そして中軍には先主が佐をされます。先氏は武に秀でた方々。その貴き卿を差し置いてわたし風情が大夫たちを束ねるは無礼となります。せっかくのお話光栄でございますが、辞することをお許しいただきたい」

 士会はゆっくりと頓首とんしゅし、返礼した。薄い表情を浮かべた趙盾の感情は外から見て分かりづらい。不快であるのか、納得したのか。が、士会は、そこに

 それで?

 という言葉を嗅ぎ取った。趙盾からすれば士会の辞意など想定済みであったろう。そのくらい、士会もわかっている。しかしここで折れれば、少なくとも士会は趙盾の道具として完全に取り込まれる。兄のことを慮ってということもあるが、何より士会が気に食わぬ。このような男を、無徳というのだ、と吐き捨てたかった。心の奥底で、その道をわたしは捨てた、なぜ平気なのか、という不快もある。幼少の士会にとって祖父も含めて全てが己を肥やすための道具であった。それをたしなめ続けたのがその祖父であった。

「士季のおっしゃること最もなれど、我が君はいまだ幼年、長く仕える臣が必要です。私も若年の身であるが重い責を負っている。また、あなたは己を非才と言うが、その才を慕うものは多い。そして先氏ですが先主は若く戦もはじめてです。あなたが見本となり示して頂けると助かる。受けてもらえぬか」

 趙盾の言葉に士会はやはり頷かぬ。先の秦への使いで己は任を果たせぬ無能を露呈した、そのようなものに重責はかなわぬ。趙盾ももちろん引かぬ、秦が公子雍を手放さぬがためとすり替えの論を言う。幾度辞しても趙盾は許さなかった。士会は趙盾の諦めの悪さに呆れそうであったが、趙盾も士会の往生際の悪さに内心呆れていた。らちがあかなかった。

趙孟ちょうもう。遅ればせながら、名乗りをしたい」

 士会はいきなり言った。初めて趙盾が薄い表情を動かした。想定外の言葉に驚いたらしかったが、頷いた。

「周より晋へと移った隰叔しゅうしゅくの末、士季と申す。我が祖父は献公により大司空を賜り法制を整えたゆえ我が士氏は法を重んじている」

 拝礼し言うと、士会は趙盾をじっと見た。趙盾も拝礼し、

「同じく周より晋へと移りよくの文侯におとりたていただいた趙叔帯ちょうしゅくたいが末、趙孟です。趙氏本家は御の巧みを矜持としておりますが、我が分家においては文を重んじております」

 と、返した。士会は小さく頷くと口を開いた。

「で? あんたは戦でわたしにどうしてほしいんだ?」

 一気に砕けた士会の態度に、趙盾は目を見開いて、息を飲んだ。思わず首をかしげ、

「士季。ここは私邸でもなく、その、私とあなたは上席と大夫だ。あ、ここはまつりごとの場、でもある」

 と、ぽつぽつと言った。驚きすぎて、言葉がひっかかっているらしい。確かに、宮中ではある、と士会は笑った。

「この閉じられた場所で、あんたとわたしが、密やかに談じている。これがわたくしごとでなく、なんであろうか。ゆえに、名乗りをしてやったのだ。わたしに任じるのであれば、朝政ちょうせいの場でやるべきであった。先に念押ししたかったのであろうが、それなら腹を割れ。察しろ、とするな」

「あなたは言わぬでもわかる人ではないか」

 笑う士会に趙盾が薄い表情で指摘した。士会は首を振った。その言葉は正しくあったが、この場において、間違っている。

「わたしはわかっている。わたしを選んだ理由の全ては知らぬが、わたしに何をさせたいか、先氏へのやりかたでわかっては、いる。しかし、受けてほしければ、言え。それが人に対する礼儀と言うものだ。わたしは君公の大夫であるが、趙氏の手勢でもなく、あんたの手下でもない」

「……意外とあなたはめんどくさいな」

 趙盾がぼそりと言った。その顔は本当に面倒だ、という表情であった。士会はめつけ、普通だ、と返す。

「では申し上げよう。先子は私を逆恨みしている。戦に乗じて私の背後を襲おうとしている。戦に事故はつきものであるが、故意にされては秦を追い返すこともできぬ。下軍に先叔を置いて監視しあってもらおうとしたのであるが、先子はそれも思わぬな方らしい。先主に釘を刺してはいるが、そのようなな方を御するのも、あの若さでは難しいだろう。あなたは武にとても優れている。下軍の一部が妙な動きをすれば、どうにかしてほしい」

 士会は膝に手を置いて、け、と息を吐き捨てた。

「どうにかしてほしい、とは投げたな」

「私は武が全くわからぬ。ゆえに、細かいことは申し上げようもない。卿同士で妙な軋轢あつれきがこれ以上できては困る。が、あなたは戦場のものであり、何をしてもまつりごとには問題ない。軽輩であるあなたが丁度良い」

 格が低いから逆に良い。分かっていた答えであるので怒りはせぬが、いざとなれば切り捨てるという態度をあらわにされると、それはそれで不快である。まあ、口に出した以上は保護を考えるであろう。士会は趙盾が人を道具としている以上、役に立つなら安易に捨てず、使いたおすとも見ていた。自分の価値くらい士会はわかっている。己はこれ以上なく便利な道具であろう。

「先子は勇猛であるが後先考えぬ御仁だ。そして昨年から矜持を傷つけられたまま燻っている。あんたのいうとおり、背後から殴る可能性はある。留守を任せるのも難しいな、いなおって乱を起こしかねない。が、あんたはなぜ断言できる。そして他にも才あるものはいる、趙氏の本家は武に優れているだろう」

 士会の指摘に趙盾がうっすらと笑った。嘲っている笑みではなく、どこか誇らしげな笑みであった。己の功を見せびらかしたいのかと士会は眉をひそめた。

「私の養い子にけつというものがいる。ご存じだと思うが、韓氏から預かった大切な嗣子だ。とても頭が良く優れた子だ。あなたのところにもご教示たまわるべくお送りした。私は厥に様々なことを学んでほしく、卿の方々にも頭を下げご教示をお願いした。その子は本当に役に立つ良い子なのだ。先氏で、様々なものを見て私に先子が不穏と教えてくれた。あなたのことはとても敬っている。最も武に優れたお人、いずれ三軍を率いる器であると」

 士会は、思わず嫌悪でのけぞった。この男は、養っている韓厥を自慢しているのであろうが、言っていることは子供に間諜をさせた、ということである。正気か、と思ったが、本人は特に後ろ暗いつもりはないらしい。趙盾は本気で嬉しそうに、いかに韓厥が『役に立つ良い子か』と褒めちぎり続ける。意外に親ばかな気質なのやもしれぬが、士会は倫理観の欠如に趙盾を殴りたくなった。が、それは本題ではない。手で、もういい、と制すると、趙盾の顔はすっと薄い表情に戻っていった。

「私は韓氏の平静で謹厳な血筋を信じている。子供とはいえその目は確かです。先子にはこのあたりでしっかりと、己の立場をわかっていただきたい。そして、秦に我らは勝たねばならぬ。先の戦には先君や亡き先氏の武に優れた方々がおられたが、いまはいない。本来なら郤主げきしゅに軍をお任せするのが良いが、内を見るとそれは難しい」

 趙盾の言葉は、げき氏への怖れではなく、先氏の騒乱や箕鄭の策謀を指している。下手に郤缺を入れれば、権勢争いに巻き込まれかねない。趙盾にとって郤缺の有用性は、権力を持たず政治に口出しをできる、という点である。彼が末席であるかぎり、責をとる必要なく、趙盾を支えることができる。士会は、郤缺が趙盾と裏で繋がっていることを察した。何やら渇いた心地となった。

 どうしようもない、と士会は思った。戦っている最中に同士討ちが起きれば、秦に負け、正卿は死に、不毛な抗争が始まるであろう。それを押さえるはずの君主は幼い。

「あんたはきっちり腹を見せた。わたしもそれに応じる。秦との戦、わたしが下役なれど差配しよう。ところで、令狐あたりか」

 令狐は晋に近い秦の地である。趙盾は驚きもせず頷いた。

「そのあたりの邑に戦の差配をしているようだ。狄も移動している。そして、我が都、こうへと一番近い道です。わたしとしては限度はそこです。それ以上来られると、我が領土に近すぎる」

 士会が、意外に武がわかるではないか、と言えば、わかりませぬ厥の助言です、と返される。趙盾は本当に戦略も戦術も疎いようであった。

「そろそろ、足音も聞こえるころだろう。ここ七日の間には来るとわたしは思っている。では令狐で追い返す、他はわたしが決める。あんたはわたしに中軍の大夫を率いろと最初に言ったが、こうも言ったな。三軍を率いる器、と。策はわたしが立てろということで良いな?」

 士会の念押しに、趙盾が少し苦笑した。薄い苦笑であった。

「わかっているのであれば、聞く必要はないだろう」

 いや、必要だろう、と思ったが、士会は黙っていた。

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