第35話 欺瞞の日々、そして

 先蔑せんべつ士会しかいの復命は、もちろん朝政で行われた。先蔑が様々な言葉をつくして趙盾ちょうとんに報告しているが、結局、

 公子ようは情勢を見て来るのをやめた

 ということであった。郤缺げきけつは務めて心を平坦に、政堂を見る。まず先蔑は、狐射姑こやこもいなくなったのであるから、今度こそ連れてきましょう、と進言している。目の前の趙盾が、もはや先蔑に興味を失っていることに気づいていない。哀れというべきか愚かというべきであろうか。士会には声がかけられなかった。郤缺は、少々意外の念を思った。趙盾はどうも士会を有用であると評価している。何か問わぬのか、と二人の間に視線を動かした。

 趙盾は士会を幾度か見たが、問わず、士会も察したが口を開かぬ。なおも話し続ける先蔑を見て、郤缺は苦笑した。この場で士会が先蔑の顔を潰すようなことを言うわけがない。さすがに趙盾もそこは察したらしい。

「公子雍の議に関しましては、まず私から改めて秦に書を出すつもりです。先子せんし士季しきも、長い旅、重要なお役目ご苦労さまでした。本日の朝政ちょうせいはここまでにしましょう、こみいったお話もございましたから、明日しきりなおすのがよろしい」

 先蔑のうわついた進言をむりやり打ち切り、趙盾が言った。細かな議は既に終えているため、頃合いではあった。郤缺の目端に、士会が呼ばれ、寺人じじんに連れて行かれる姿が見えた。やはり、直接問いたかったらしい。士会は趙盾に嫌悪を抱いているが、同時に能力は認めている。いや、有能であるからこそ、厳しく見ている。もっとやりようがあるだろう、という言葉が多い。

「……同族嫌悪というものかな。いや、ちがうか? まあいい」

 郤缺は独り呟くと、女の泣き声へと向かっていく。今日も、宮城の庭、朝廷にて穆嬴ぼくえいが幼い公子を連れて土に額をこすりつけて泣いていた。毎日泣いているためか、やつれ、顔色も悪い。絹の重ね着も土で汚れていた。まだ三十路になるかならぬか。多く見積もって趙盾と同じ年であろうか。しかし、印象は幼い。この妃は夷皋いこうの他にもう一人、子を産んでいる。秦から襄公じょうこうに嫁いで十年近いに関わらず、少女のような印象を覚えた。

「后妃。もう、寒くなってきました。公子の手も赤い、お戻りになられてはいかがですか。正卿は、悪いようにはしないでしょう」

 郤缺は庭を歩きながら、優しく話しかけた。圧の無い郤缺の笑みに穆嬴は少し安堵の顔を見せたが、首を振った。すっと立ち上がり郤缺をひたりと見る。

正卿せいけいは、この子を晋公にすると言っていたではないの。でも、違う男を据えるという。悪いようにしないなんて、わからないもの」

 己にしがみつく夷皋をさらに引き寄せ、穆嬴は強く言った。彼女は政治など全くわかっていない。ただ、母の本能として、息子を守ろうとしていうのであろう。そのわりには、行動が遅い。そしてやることは無邪気な顔をしてえげつない。

 郤缺は今、氏族をなんとか、なだめている。

 ――卿たちは先君の遺言を無視して勝手に次君を決めた

 そのような噂が流れ、その言葉を裏付けるように、穆嬴は宮城の庭から趙盾の邸に飛び出てしまった。当初、毎日でもなく、朝政が終わるのを見計らって、庭で泣いていただけの穆嬴であった。この庭は散策などでなく、政治的な発表の場と思えば良い。ここまでは、政治の内側だけの話であった。

 が、狐射姑が亡命したあたりで、趙盾の邸の前に陣取るようになった。それを、郤缺はいいかげん諦めなさい、とさとしているのである。

「正卿の決定は穆嬴、あなたが思うより重いものです。そして君公くんこうの任はさらに重い。八つの幼子に背負わせるおつもりか」

 言葉の内容はきつかったが、郤缺は優しく問いかけ、失礼、と夷皋に視線を合わせるよう身をかがめた。一ヵ月以上連れ回されている幼子は、萎縮し、最初から怯えていた。ずっと母が泣いており、この子がかわいそうと訴えられているのである。夷皋は、いっそ自分が悪いからではないかと思ってしまっている。目の前の大人が、味方かどうか計る目をしていた。

 郤缺は、その目を不快とは思わなかった。哀れと思ったが、それをおもてに出せば、この母子はかたくなになるであろう。

「お寒いのではないですか、公子」

 郤缺はゆっくりとした口調で問うた。子供は、わからないまま頷いた。郤缺はそれに頷き返すと、後ろに控えていた手勢を呼び、てんの毛皮を持ってこさせる。

「私のものをお渡しするは不敬なれど、大人が子にさしあげるのです、お許し下さい」

 言いながら首に巻いてやる。夷皋はくすぐったいのか、少し肩をすくめた。

「……無礼を許します。この子は少し喉が弱いの、感謝を。でもどこかへ行って、あなたは私の味方ではないわ、私たちのことの責を負う気は無いのでしょう、責は問うても、責を負う気がないのが男だもの」

 郤缺は反論せず、丁寧に礼をすると立ち去った。穆嬴の望まぬ責任のとり方ならできよう。故郷の秦に戻るならそう手配し、実家が嫌なのだというなら、周都にでも送って生活の保障はしよう。しかし、八つの幼児を君主にすえられぬ。幼君の苦労を彼女にはわかっていない。彼女の父は秦の穆公ぼくこう、夫は文公の息子である襄公。穆嬴にとって、国の君主というものは生まれてから結婚しても普通にある、当然のものであり、苦労が見えぬのであろう。

「それにしても、誰だ、穆嬴に妙な知恵をつけたのは」

 穆嬴は宮を出て正卿の邸の前どころか、最近はむりやり押し入り庭の中にまで入ってぬかずいているという。世間知らずな彼女が思い浮かぶにしては、少々悪趣味すぎた。噂を広めたぬしと、穆嬴をそそのかしたものは違う。噂を広めたものも、まさか穆嬴が宮から出てくるとは思わなかったであろうし、今頃手に余る状況に困っているであろう。

趙孟ちょうもうを追い落とそうとするは良い、それは好きにすれば良し。しかし、己らの評判も落としてどうする、箕子きし

 郤缺は、いまや知らぬ存ぜぬをつきとおすつもりらしい男を思い浮かべながら呟く。噂は箕鄭きていである。これは氏族から直接聞いたものであり、間違いはない。氏族がそれぞれ郤缺を頼みにしていることを、箕鄭は知らぬ。それは良い。そのために氏族はゆれ、郤缺が手を焼いているのは前述した。

 しかし、この馬鹿な行為を穆嬴にさせたのは誰だと言うのであろうか。

 さて、趙盾は秦に書を送ったというが、内容ははっきりとさせなかった。公子雍をいつ迎えるか、とも言わぬ。もうそろそろ冬本番という時も、穆嬴は訴え続けている。

「思ったよりしつこいな」

 政堂で先都せんとがぽつりと呟いた。趙盾はその私語も無視して、議を進める。本来なら公子雍が君主に座っているはずであった。が、それはなされず、しかし公子楽はすでにいない。空白の玉座があるだけである。

 趙盾は、穆嬴を見ることもなく、常に歩き去っている。そこまで無視するなら、宮の奥に押し込んで閉じ込めておけ、と言いたくなるのだが、誰も言い出せぬ。みな、趙盾が行った蛮行におののいているのが大きい。郤缺はおののいておらぬが、末席で問われもせず議題にもあがらぬものを口に出せぬ。荀林父じゅんりんぽに対しては何も言わぬよう強く念を押しした。この男はまっとうな意見を己の政治勘のなさでぐちゃぐちゃにしてしまう。繊細な情勢で下手に動いて潰れるのは忍びない。

 この時点で、郤缺は半ば趙盾を見捨てていたとも言えた。困ったときは言え、と伝えている。それを掴まぬようであれば、手をさしのべる必要はない。ただ、趙盾が完全に潰れると、国が動かぬのも事実であったため、ほどほどのところで助け船を出すつもりではあった。さっさとお引き取りねがえ、追い払え。それだけの話なのだ。

 その日も、薄っぺらい朝政のあと、女の泣き声響く庭を、郤缺は横切った。趙盾も同様に横切っていた。まっすぐと前を見て歩く趙盾の顔に、疲れがあることを、郤缺はとっくに知っていた。

 雲行きあやしく、午後からちらちらと雪が降り始める。穆嬴は趙盾の邸へ行くべく、馬車に乗った。幼い夷皋が、寒いのか首に巻いた貂を握りしめる。

「あの、男。そう、郤氏の人がくれた物ね、暖かそうね」

 穆嬴は夷皋の頭を撫で、少しかがみこんで言った。そのまま、貂の毛皮に手を伸ばし、するりと首から抜き取っていく。

「でも、汚いから、捨てましょう。人を乞食のように見る偽善者ですもの。お父様に処刑された逆臣の子のくせに、きたならしい」

 首元の寒さに、夷皋は悲しそうな顔を毛皮に向けた。誰がどうなど知らぬ、ただ、その毛皮は暖かかったのだ。しかし、母は心底嫌悪した顔で、毛皮を馬車から放り捨てた。雪が肌に落ちてきて冷たく、抱き寄せてくる穆嬴の手も冷たい。夷皋は目をつむった。自分がいるから、母は苦労し、大人達は困惑している。八つの少年は、いっそ消えてしまいたかった。

 邸の前で常の通り土に額をこすりつけて泣きつづけた後、穆嬴は、趙氏の門をむりやりくぐった。門衛も止めたいのであるが、相手は先君の内室である。そして、傍には公子がいる。おやめください、と懇願するしかない。最初はそれに引き下がっていた穆嬴は、少しずつ押し始め、今や趙盾の室前の庭で泣き訴えるようになった。日も落ちようとしている夕闇の中、しんしんと降り積もった雪の上で、母と幼児が泣いていた。何度もぬかずき、泣いていた。

「この子に何の罪があるというの、この子を見捨てるなんて、今さらどういうことなのですか」

 かそけき声は、確実に趙盾に届いていた。趙盾は逃げず、己の室でじっと穆嬴の声を受け止めている。この趙家ちょうけに穆嬴が殴り込むようにやってきて、庭に陣取り泣き出したとき、一度だけ君姫くんきに呼ばれた。亡き父、趙衰ちょうしの第二夫人である。慧眼かつ明察。正直、趙盾にとって彼女が君公であれば、と思うほど貴い才媛であった。

 ――あれはまつりごとの議のお話。私宅に持ち帰ったは、あなたの手抜かりです。

 しっかりと叱られ、趙盾はついたての向こうに平身低頭した。柔らかく少し甘い声であるが、発音はきびきびとしている。その声を久しぶりに聞いたというのに、内容は散々であった。

「私は趙氏の内にいるものです、まつりごとのお話をお聞きすることできませぬし、これ以上問いません。しかし私も君公を父にもち、子を産んだ女、覚悟を持っています。穆嬴も覚悟があってのことでしょう。ゆえに、あなたはどのような決断をしても良い。私は義母として最後まで支えます」

 最後、優しく励まされ、趙盾は拝礼し、辞した。

 あの時から幾日も幾日もが過ぎた。趙盾は己でも頭を抱えたかった。彼は生まれて初めて、問題を先送りしてしまっていたのである。初めて彼女が子を連れ、宮庭で訴え泣き始めたとき、趙盾は何が起きたかわからず、そのまま歩き去った。穆嬴から見れば、無情にも無視をしたと思ったであろうし、実際そう判じた。しかし、趙盾は、己が公子雍を選ぶということは、こういうことだと視覚で見せられて、動揺したのである。この男は襄公が死んでようやく、己の深い忠に気づいた鈍感さを持つ。遺児を託すという重さを理で知っていたくせに、目の前に見せつけられて情が揺れた。それを、むりやり理で押さえつけたが、情の氾濫のほうが今は強い。当初は、必死に一つの言葉を唱え続けた。

「公子雍が帰ってこられれば」

 いらぬものが消えたのだ、あとは趙盾が公子雍に脅してでもこいねがい、夷皋を後継にするよう誓わせれば良い。が、公子雍は戻らず、しかも全く使えぬことまでわかった。ついでに先蔑も使えぬと再確認したが、今さらである。

「よもや、己の政敵が消え、臣が一人死に、一人が亡命した程度で怖じられるとは思わぬ」

 なんと役に立たぬ公子かと、趙盾はぽつりと呟き、息を吐いた。その時、庭の泣き声が消えた。穆嬴が帰られたのか、と趙盾はほっとした。が、こんどは幼児の泣き声が始まり、趙盾は慌てて庭への扉を開けた。

 雪の中に穆嬴が倒れ込んでおり、夷皋が、ははうえ、ははうえ、と泣いていた。趙盾は反射的に飛び出し、裸足のまま庭を走った。倒れ込む穆嬴を起こし、息を見る。死んでいない、とまず安堵したあと、熱や脈を診た。熱がやはり高い。

「お寒いのに、薄着でうろつくからです、穆嬴」

 常の薄い表情のまま呟くと、趙盾は穆嬴を背に担ぎ上げる。夷皋の手を取り、己の室へと歩き出した。雪まみれの足で、室に入り、

「先君の后妃が、お倒れになられた! 我が趙氏の矜持、責にかけて、お助けしろ!」

 と叫んだ。常は静かな主の、切羽詰まった声であり、内容もとんでもない。趙氏の家宰かさい以下、至急に手配し、穆嬴を温かな部屋へと運んでいった。その騒ぎをぼんやり見ている夷皋に対し、趙盾はぬかずいた。

「我が君におかれましては――」

 趙盾はそこまで言い、首を振った。己の本音をのぞき見、そして恐怖する。人は、こんなにも情という役に立たぬものに囚われる。

「おそれいります、公子におかれましては、お体がお冷えになっております。お食事もまだでしょう。我が邸でおくつろぎ下さい。后妃がお目覚めになりましたら、宮城にお送りいたしましょう」

「……ぬか」

 子供が小さく呟いた。顔を上げると、怖じたような媚びたような顔で夷皋が趙盾を伺っていた。

「お言葉をもう一度」

 趙盾は、静かに問うた。薄い表情の男の顔は、幼児には怖かったであろう。が、この子供はもう一度口を開いた。

「殺さぬか。ははうえと、我を」

 ここで、趙盾はぬかずき、そのようなご心配は一切いりませぬ、后妃も公子のこれからを、我らの責をもってとりはからいます、と常のように言うべきであった。常の彼なら、完璧に行い、一つ、二つの邑を彼らの所有地として、あとは周都に預けたであろう。しかし、彼はそうしなかった。彼は疲れてもおり、穆嬴が倒れたことに動揺もしており、また、夷皋を見捨てるなという先君の重みがもたげ、何より。

 何より、趙盾は父の都合で捨てられた子であった。目の前の公子も国の都合で捨てられつつある。趙盾は、拒絶するものを追うお人好しではないが、手の中にあるものを捨てられぬ愚か者であった。

 結局、この若い宰相は、先君の忘れ形見を抱きしめながら

「お守りします」

 と誓ってしまった。子供は何もわかっていないため、この誓いは反故できるものである。しかし、趙盾は己に対して反故できるような、性格ではなかった。

 趙盾は、夷皋を寝かしつけると、

「今から郤主げきしゅのところへ行く。急ぎ先触れしてください。もし寝ていたなら、起こして下さい」

 と言い、衣服を整えた。歩くと少し痛く、庭に出た際に素足で石か何かを思いきり踏み傷を付けていたようであった。それに慌てたものどもを制し、

「この程度、死ぬことはない。些事です」

 と、趙盾は言った。やはり彼は、己に対して無頓着であった。

 先触れを受け取った郤缺は、もちろん寝ておらず、起きていた。趙盾の邸で何が起きたか、までは知らぬ。が、穆嬴のことであろうと、見当はつく。正直に言えば、よくもまあ、もつものだ、と言いたい。先君の内室が奴隷のように土に額をこすりつけ、毎日哀願してくる、というのは、えげつない脅迫である。本来なら、すぐさま対応すべきであった。そうでなければ数日で気がおかしくなるであろう。が、趙盾は人を使うことに長けていても人に頼ることは下手くそである。なおかつ、無駄に根性があり耐えることができてしまう。ようやく、根をあげたということだった。

「お困りのときはご相談つかまつると、申し上げた。が、困っている自覚くらいしてほしいものだ」

 客人を迎える差配をしながら、郤缺はやりきれぬ気分で呟いた。

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