第二部
第27話 策謀の季節
「父上、お喜びください。
「戦場では良い働きだったと聞く。わしは汝が息子なのが誇らしい」
少々獰猛な笑顔は、祖父も父も同じであり、きっと己も同じ笑みを浮かべるであろう。郤氏という一族は、戦いにこそ花咲く血を持っている。
「そういえば、史官が戻ったと聞いたぞ、
夢であると断じてる己は驚き、対峙している自分は笑顔で返す。
「ええ、
それはめでたい、と
「しばらく冀邑は
「わざわざ調べたのか」
多くの所領を持つ欒枝はいちいち
「調べておりませぬ。私の体験です。私は数年、あの地で民と同じくらしをしておりました。いつだったか。平伏している私の態度が気に食わぬと引きずり出され、意味もなく何度も殴られ蹴られ、最後に小便をかけられた次第」
さらりと言う郤缺に欒枝がこわばった顔を見せた。彼は戦場も知っており、粛正による処刑も見ているが、一見意味のない不毛で下品な暴力など知らないのだ。ここで、『小便をかけられたのではく、口にぶちこまれました』と言えば、この名門貴族は叫びだすに違いない。ゆえに、比較的穏便な表現をしている。
「わ、我が邑も調べた方が……」
蒼白になり震える声で声を絞り出す欒枝に、郤缺は柔らかい笑い声と共に口を開く。
「無駄ですよ。調べても出てきやしませんし、きっと我が邑を管理する下役のものの、似たようなことをはじめます。これは、儀式です。まあ、私が受けたものは少しやりすぎだと思いますので、締めますが」
「儀式?」
嫌悪感をあらわにする欒枝は本当にわかっていないようであった。
「民を考えさせないようにする、取り立てる下役は目の前の民を同じ人だと思わぬようにする、儀式です。これ以上、欒伯は考えないように。まあ、目に余る
農民に身をついやし、想像を超える屈辱を味わった郤缺に民たちは優しく声はかけてくれた。喉に指をつっこんで、げえげえと嘔吐する男を優しく撫で
『よくあることだ、運が悪かったね』
と、同病相憐れむ顔で慰めてきた。郤缺は、目の前の民がおぞましい生き物に見え、悲鳴をあげそうになるのを堪えた。このようなことを、その言葉で受け入れてしまえる精神が汚い、と生理的嫌悪で鳥肌が立つ。今で言う差別意識であるのだが、このあたり郤缺は貴族であり選民思想であった。
このような思考停止した民と距離を置くために下役は虐待をしているのだと気づいた。もし、心砕きあわれみを持てば、彼らから税を搾り取ることなどできなくなる。
ここまでを欒枝に伝えるほど郤缺は悪趣味ではない。
「史官の話でしたのに、妙な流れになりましたな」
ぎこちない空気を払拭するように明るく言えば、欒枝がほっとした顔を見せた。その顔が妙にかわいいと思い、己は手を伸ばし、頬を触る。欒枝がその手の平にまかせるように顔を沿わせ、優しく笑んだ。そうして、己は、この郤缺は。
「……酷い夢だ」
真夜中に飛び起き、息を吐く。隣で寝ていた
「いや、なんでもない。お前は寝てなさい」
若い妾は頷くと、寝入ってしまった。慣れぬ新しい家で疲れているのであろう。郤缺は眉と眉の間を指で押さえ、ため息をつく。欒枝が死してもう一ヵ月経とうとしている。そろそろ年を越す。ようやく心が落ち着いてきたと思った矢先に、酷い夢であった。郤芮に報告するという、浅ましい甘えと、それが欒枝にすりかわり、やはり浅ましく試し甘える日々である。よくよく考えれば、郤缺本人の視界ではなく俯瞰の目線であるため、記憶はすでに歪んでいるのであるが、この男は己の愚かさに歯がみし、気づいていない。
「……まったく。影を足踏みしてても仕方があるまい。今は正念場だ」
息を吐いて郤缺は己を叱咤する。過去に学ぶは前に進むことに繋がるが、過去を追いかけるのは停滞に身を委ねることである。それは死ぬ直前にすることで、今ではない。
郤缺はそのまま起き上がり、室を出た。外を見れば、まだ暗い。が、月の位置を見るに夜明けが近いようであった。どうせすぐ参内の準備をするのである。寝る必要はあるまい。そろそろ家宰も起きてくるころであった。
もうすぐ春、つまり翌年を控えたこの時、四人の卿がいなくなった穴をめぐって、水面下で争いがあった。まず、
そのような驩へ最初に助言したのは
「亡き
と、奏上した。驩は、戸惑った。
「それでは、そのようにいたそう」
驩の悪い癖が出た。熟考せず、独断で即決である。驩は武に優れていたようで、その活躍は史書に記されている。が、政治的な判断は苦手な君主だったらしい。先の
それが正しいのか
とよく考えずに頷いてしまうところがあった。
ただ、この人事は流れた。同じ日に、
「
と、
もちろん、先克は寝耳に水であった。驩はぽかんとして先克を見た。先氏の中で決まったことがらではなかったのか。
「どういうことだ」
と尋ね、先都の構想をべらべらと全て話した。先克は若年でありながら、静かに全て拝聴し、
「
驩はなるほど、と頷いた。狐氏の主は
先克は先且居よりは
「我が叔父、
目の上のたんこぶである先都をきっちりと卿にいれ、さらに己の一族傍系の男、
「
朝に決めたことを昼に変えてしまうわけであるから、驩は確かに補佐が必要な君主であった。この人事に郤缺の名は一切入っていない。先克は郤缺を過去のものと見なしており、驩は郤缺に軍を渡すなという先達の言葉を愚直に守っている。
先都、士縠、箕鄭一同は己らの思惑が通ったと祝杯をあげ、先克は情報を伏すよう驩に念を押した。下手に開示すれば、また先都がすっとんでくる。そうして、泥沼になりかねなかった。
「私は卿になれるやもしれぬ」
士縠が士会に機嫌良く言った。春に向けての各邑の差配も兼ねて
「それは、めでたいことです。君公からお声かけいただいたのですね」
ウキウキとした士縠の言葉に士会も嬉しくなり、華やいだ声音で問うた。士縠が、いや、と首を振る。
「お声かけはこれからだ。だが、我らはそのように奏上している。これから忙しくなるぞ、
士会は、ただ頷き、拝礼した。これが兄ではなく他者であれば
「一度、きちんと確かめたほうがよい。物事は最後まで見届けなければ断言できぬ」
と助言したであろう。が、家長である兄にそれを言うのは憚られた。士会は我ながら身内に甘いと自嘲する。既に子は二人目であったが、一人目は生まれてすぐ死んだ。妻の嘆きを慰めながら、我が子をかまいすぎたのか、それとも放りだしすぎたのか、己でもわからない。兄に対しても妻に対しても、子に対しても、甘くしてしまう。そうでないと、全てを平坦に、物のように見る自分が浮き上がってくるからだ。まるで碁石を並べるように整頓し、効率よく差配する。適材を適所に置き、気持ち良く動いてもらうよう並べる。そうなれば『美しい』やもしれぬが、兄も妻も、そして友も、ただの物体に見えてしまうであろう。
ゆえに、士会は兄に、それはまやかしだ、とは言えなかった。もっと言えば、兄だからこそ、兄にだけ、言えず、常に黙って従った。
士会は、そのような弟を士縠がひそかに怖れていることに気づいていない。否、気づかないよう努めていると言うべきか。自分が恐ろしいほどの天才であることを、この男はわかっていなかった。そこに、この兄弟の不幸があった。
年明けの、春に向けて政堂は静かに準備を行っている。いまだ人事がわからぬまま、郤缺はきなくさい、と見ていた。箕鄭の空気が軽々しい。いまだ政道さだまらぬ中で、妙に浮かれている。
趙盾は相変わらずである。己が仮の次卿と自覚し、箕鄭や郤缺に準ずると口では言う。しかし、議になるとその鋭い思考を垂れ流し、驩は頷き、箕鄭は苦い顔をした。箕鄭にとって、齢三十を超えたばかりの若造が、調子に乗っているように見えるらしい。
「……君公は、腹を決めているのか、決めていないのか」
――春の揃いはどうされるので?
とは聞けなかった。
「やっかいなことだ」
いかに欒枝が郤缺の手足を支えてくれていたのか、今さらながら実感した。もうすぐ、年が明け、春になる。
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