第26話 父の死
それぞれの驚きを、感慨もなさそうな顔で趙盾が眺め、そうして先且居をじっと見た。政堂の中に入らず、端正に座り、口も開かずその眼差しを
「
その言葉に趙盾は寛大なお言葉ありがたくから始まる完璧な返礼を見せたあと、しずしずと入り、郤缺より末席に座った。書は交わしても、見るのは数年ぶりであった。郤缺の知る趙盾は二十代半ば程度であったが、今や三十をすぎている。年が重みに近づいているようだった。
時間どおりに政堂にやってきた
「
ここですぐに応えないのが趙盾である。彼は先且居の許可が無いと口を開かない。筋は通っているが、急なことであろう、と先且居が苦い顔をした。結局、先且居が促し、ようやく趙盾は口を開いた。
――趙衰が病に倒れた
驩が思わずよろめき、姿勢を崩した。驩も、趙衰が
「容態は」
口早に問う。
「おそれながら奏上つかまつります。父は昨年から悪かったものを隠していたとのこと、我が家のみならず
「いや、そこまで聞きたいわけではない。助かりそうかどうかが知りたい」
趙盾は薄い顔をして困惑している驩を見つめた。きっとこの男はなぜ主君が困惑しているのかわからぬのであろう。郤缺は苦いため息をこらえた。医者のような説明ではなく、驩はご心配なさらず、という言葉を答えを望んでいたのである。
さて、趙盾の答えである。
「助かりませぬ」
みじんも表情を動かさず、己の父の死を言い切った。趙盾は助からぬ理由を言わぬ。それを驩が望んでいないということを、先ほどの問答で知ったからである。その態度は無情にも見える嗣子であった。しかし、逆に驩は落ち着いてしまった。偉大な父を持つもの同士の共感があったのかもしれなかった。驩は姿勢を正し、卿を見渡す。卿たちは驩の言葉を粛々と待った。
「衰は父の代からささえた忠臣である。我が公室の医者を向かわせる。盾は衰の名代として
驩の言葉に趙盾が辞を表する。若輩であり、他の卿を差し置いてできぬ、とぬかづいた。が、驩は許さず、結局趙盾は趙衰の席に座った。座ると、いやにしっくりくる男である。実際、趙衰が倒れたとしても政治は止まらぬ。慌てて席次を細かく動かすより、有能な息子をとりあえず置いた方が早かった。
その日の
「趙子余の容態はいかに。助からぬほどか」
と小声で聞いた。趙盾はさすがに長々と返礼はしなかった。
「父は腹部が膨らみ、吐血と下血を続けております。あの人はずっと隠していたようで、汚れた衣は全て己で焼いていたと、白状しました」
どうも、高熱で動けない父親を責めたてたらしい。
「……私は毎日見ていたはずなのに、父が痩せ細っていたことにも気づきませんでした。徐々に変わるものには気づかぬものと、最後に教えられた」
それは郤缺も同じである。いや、卿たちも驩も朝政で見ていたにもかかわらず、その変貌に気づかなかった。元々痩せていた男であり、加齢でさらに痩せたのであろうと、勝手に思い込んだのかもしれぬ。どちらにせよ、趙衰の復帰は難しいと郤缺も思わざるをえない。
初春の風が、冷たく吹いた。その冷たさを太陽のほのかな暖かさが包むが、場は寒々しい。趙盾が思い出したように口を開いた。
「私は若輩者でまつりごとも父について学んだていどです。郤主はこの五年、卿として立派に務められている。ご教導をお願い申し上げます」
郤缺は非才ながら、と返答し、
「おつらいときはおっしゃってください」
と趙盾の肩を優しく撫でた。趙盾は不思議そうに首をかしげたが、感謝を、と静かに返した。趙盾は、父を亡くしたあとの空虚を知らぬ。そして、きっと己の空虚に気づかぬであろう。気づかねば、生傷はそのまま膿む。郤缺は帰っていく趙盾を見ながら、ため息をつく。父のおらぬ空虚と生傷を抱える辛さを、郤缺はよく知っていた。
趙衰の死を待つしかない日々で、先に胥臣が死んだ。いきなり倒れけいれんし、そのまま死んだらしい。遺体を見ると腹水が溜まっており、そこは趙衰と似ていた。
「なんということだ」
驩が知らせを聞いて叫んだ。
むろん、朝政も席次も静かに荒れた。驩はとりあえずはと、箕鄭の席次を繰りあげ、形だけは整えた。夏になり
「趙子余や
先且居が驩に訴えた。東国の小国は晋を頼らず、他国を頼みとしはじめている。今まで積み上げてきたものが、崩れかねない。しかし、驩は首を振った。老臣を一人失い、また一人は失いつつある。晋の体制を整えないことには、外征などできない。趙盾が口を開いた。
「正卿の言葉を遮ることをお許しください。数年の外征で民は疲弊し、
郤缺は顔を覆いたくなった。見やれば、欒枝もしぶい顔をしている。趙盾は全く正論であり、驩の情に都合の良い理を言ってはいる。が、同時に先且居の顔を潰していた。先且居は君主の前で恥をかかされたと思ったであろう。が、彼は真面目であり、父ほど激烈ではない。
「……次卿の言うこと、最も」
とだけ言うと、黙り込んだ。趙盾は申し訳なさひとつもない、薄い表情で座している。場の空気は悪い。が、趙衰が倒れてからずっと悪いようなものであった。
秋に入り、趙衰の容態は悪化していたが、しぶとく生きていた。驩が医者などを派遣し全力で介抱しているということもあったが、元々生き汚い体質なのであろう。毎日、趙盾が朝政の内容を告げると、熱に浮かされても聞き、
「いまだに君公は少し決断が早すぎる。お前のこともそうだ。が、降りた君命は仕方がない。お前はもっと広く見て、考えなさい」
などと助言した。この男は、どのような状況になっても晋のことを考え続けているらしかった。
趙衰の容態が一進一退しながら秋が深まっていく。こうなれば、趙衰は生きのび、帰ってくるのではないのか、と驩が呟くまでになった。が、趙盾は首を振り、否定する。その横で先且居がげっそりとする毎日である。当初、郤缺は先且居が心労で痩せたのだと見ていた。が、頻繁に腹をさすっていることに気づき、欒枝を捕まえて囁いた。
「
霍伯とは先且居の
「疫病ということか?」
「はっきりとはわかりませぬ。しかし、霍伯の痩せ方はおかしい。他におらぬか確かめた方が良い。もし疫病であれば、霍伯は出仕させてはなりませぬ。我らに今のところ不調はございませんが、これからどうなるか」
胥臣が死に、趙衰が瀕死である。先且居が同じ病であれば、外征時に
「私に徳がないのか。天に罰せられているのか、私の、我が晋の何が悪いというのだ」
驩の悲痛な呟きに、答えるものなどいない。卜占も凶事の理由を視ることあたわず、ただ死の影が晋を覆っていた。
先且居を追うように趙衰がとうとう死んだ。初春に倒れ、初冬までもったのであるから、他の二人に比べれば、やはり生き汚い。最期を嗣子として趙盾は看取った。事切れる直前まで、趙衰の意識は混濁しなかった。
「盾……、お前は私より、才がある……。その才に頼るな。才は、景色を狭くする。見える、ものが、見えなく、なる。……こころを、みがきなさい」
死の直前の訓戒を、趙盾は平坦な表情で聞き、
「私に才などございません。ただ務めるのみです。しかしご教示ありがとうございます」
と答えた。それが親子の最後の会話であり、趙衰は苦笑しながら文公の元へ旅立った。息が途絶えたことに気づいた趙盾は薄い表情のままぼんやりとしたあと、死骸にすがりつき儀礼を忘れ泣いた。
三人の卿が一年の間に消え、驩はもちろんのこと、晋国中が沈んだ。文公の寵臣の死に、巨人の時代は終わったのだという思いもあった。欒枝もその一人であり、郤缺もである。あれほど、国内の勢力を文公の寵臣に渡せぬと話し合った日々は、意外なところに着地してしまった。
「先氏の嗣子はようやく成人したところだ。あの家は傍系も力を持っている。荒れるやもしれん。他の二家は落ち着いているようだが」
あいもかわらず、欒枝の本邸である。郤缺は目を伏せた。外征したものどもを調べたところ、同じ病状で死んだものが多く確認できた。しかし、国内にいたものは罹患していないようで、疫病であるのかどうかはわからなかった。冬も深まったこの日は、前日の雪がふりつもっている。寒さが室の中まで這い寄ってくるようであった。
「我らが君公を支えねばならぬ。凶事の中の幸いだが、我が君に不調は無さそうだ。私と汝が新たな卿たちを育てねばならんし、忙しくなる」
「卿に選ばれるものたちです。良き才を持っておりますでしょう。我らの支えなどすぐに要らなくなり、逆に我らが助けられる。そういうものです」
そこまで言って、郤缺は失言に気づいた。これでは、欒枝はいらぬと言っているようなものであった。
「しかし、だからこそあなたはいてもらわねばならぬ。君公も私たちも至らぬところがあるのです。育てたあとに、引退など許しませぬ」
思わず口早に言うと、欒枝が呆れた顔を見せる。
「私は
いつのまにか欒枝は六十を迎えていたらしい。言われ、初めて会ったときより老けたと感じた。沈毅さ、重厚さはそのままに、柔らかさが増していた。欒枝は父の、
「下寿の
郤缺の言葉を欒枝が手で制した。
「汝からはいらぬ。それをしてしまうのは、よくない。互いに、よくない」
欒枝の声はいつになく固かった。郤缺は理由を問いたかったが、見えぬ壁を感じ、黙る。いらぬというのならしなくても良いと、どこか冷たい思いであった。それに気づいたのか、欒枝が身を乗りだして郤缺の頬をつまんだ。むろん、郤缺は睨みつける。
「拗ねるな」
「曲解しないでください。拗ねてなどおりませぬ」
郤缺の、心底嫌悪した声に、欒枝があわてて手を離し、すまぬ、と言った。その後、二人で死んだ人々の話をぽつりぽつりとする。郤缺は、文公も含め、彼らを好きにはなれなかった。尊敬はある。畏敬も敬愛もあるが、好きにはなれなかった。欒枝はどうであったのか。郤缺は、まず欒枝の好みさえ知らぬことに気づいた。かつて碁を打ったが、好んでいるのか暇つぶしなのかさえ知らぬ。――郤缺を認めているが、好んでいるかなど考えたこともなかった。
「もう日が傾いておりますゆえ、私はこの辺でおいとまいたします」
しんみりとした空気を拭うように、郤缺は拝礼する。欒枝は、もうそんな時間か、と呟いた後、
「また来ておくれ」
と言った。
郤缺が帰宅し、夕餉を終えた後、欒家から急使が来た。
「我が主が先ほど身罷られました。君公および卿の方々にとりあえずのお知らせに参った次第」
意味が分からず、郤缺は
「
と、愚鈍にも問い返した。いきなり頭が痛いと唸ったあと倒れ、そのまま気を失い、死んだと、使者が詳細に説明した。郤缺は息を吸い、そして吐いた。
「欒伯がお亡くなりになり、嗣子もあなた方も大変な時にお役目忘れずご連絡いただいたこと、そのこころがけこそ欒家の宝でしょう。私含め、卿らは欒伯に羞じぬようこころがけます。……急ぎ帰りなさい」
郤缺の言葉に使者が深々とぬかづいたあと、はやるように去っていった。欒枝は己の氏族を包むように大切にしていた。家臣一人一人も欒枝を慕っていたであろう。彼らは主のために哭きたいに違いない。それよりも、郤缺は宮城にいかねばならぬ。四人の卿をこの一年で失ったのである。その衝撃を一人で受け止めることなど、驩には難しい。驩でなくとも、あの文公であっても難しいであろう。
しかし、郤缺の足は勝手に私室へと向かっていた。家人全てに来るなと命じ、薄暗い私室で天を仰ぐ。そうして、ひそやかに欒枝に対する
「欒伯は、気づいておられてた」
郤缺はとうとう礼を越え泣き崩れ頭を抱えた。下寿の祝いを受け取らぬと言ったのは、そういう意味だったのだ。では欒枝は郤缺をどう思っていたのか。同盟者だったのか、情人だったのか、息子と見ていたのか。それを知る本人は
郤缺は慟哭したが、それでも立ち上がらねばならぬ。驩は不安で押しつぶされそうであろう、他の卿らは若い。ここで己が悲嘆に陶酔していれば、欒枝に顔向けできぬ。そして郤氏の誇りが穢れる。
一息つくと、何事もなかったように立ち上がり、家宰を呼んだ。礼服に着替え、いち早く参内しなければならない。この才も無く力も無い身であっても、晋を背負う覚悟は、とうにできているのである。
この年、死した卿についての記事は史書に一行しかない。
晋趙成子、欒貞子、霍伯、臼季、皆卒。
たったこれだけであり、実は死因などわからぬ。ただ、この作品に深く関係することで、ひとつわかっていることは、ある。
欒枝の
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