第2話 父の仇
しかし、今の郤缺は農夫であった。暑い日差しの元、
眩しい陽光の中、しずしずと歩いてくる妻の姿が目端に映った。郤缺と同じく粗末で汚れた葛衣を着ているが、所作は美しい。彼女も貴族の出である。煮炊きさえしたことのない妻であったが、この
妻が、瓜を乾かした器ををうやうやしく地に置き、貴族の儀に則った礼をした。郤缺も姿勢を正し、腰に差していた水入れの竹を地に置くと、礼を返して儀を行う。このような身にやつしても、儀礼だけは忘れては成らぬと二人で決めていた。互いに
「そこにいるは、どこの賢人か」
と、声をかけられた。
「郤氏の
男――
「その姿でも、お互いを賓客のように接し、礼をもって対する。それは徳人の行い。ここであなたにお会いしたのは天の采配でしょう。どうか、我らと共に戻り、
郤缺は茫然も驚愕もせず、どちらかといえば呆れた。
「私は先君に仕え、現君に逆らった郤氏です。無理でしょう」
そう、郤缺が野に溶けこのような生活をしているのは何も道楽ではない。
「私が保証しよう。あなたを君公に推挙し、郤氏を赦されるよういたします。ゆえ、共に来られよ。第一、私が見つけてしまった。もうあなたはそれしかない。私は今、
司空は罪と罰、法を司る地位である。その彼が郤缺を見つけてしまった以上、逃げても追いかけるという意味であった。
郤缺は改めて胥臣へと向かうと、承ったと清々しい態度で返し、妻に優しい声で出立を告げた。妻はさっと立ち上がると竪穴式の掘っ立て小屋に駆け出し、幼子を抱き、もはや下女のような姿になっている
胥臣に促されるまま、彼の馬車に乗り、少々不安そうな妻の肩を抱いた。侍女が郤缺の子を引き取って愛しげに抱いている。妾にとって夫より主である妻のほうが大事なのであろう。
簡単に言ってくれる、と郤缺はため息をついた。胥臣の目に嘘は無く、その人格の良さが滲み出ていた。もし先の大乱が無ければ郤缺も交友を結びたいと思ったやもしれぬ。しかし、陰惨すぎる内乱の果て、重耳は弟の子を殺し、父の
その息子である己を、赦すわけがないではないか。胥臣は善臣であろうが、君公の心をほぐせるか。郤缺は倦んだ目で、己が隠れていた野が遠ざかっていくのを見ていた。
さて、郤缺の予想は半分は当たった。
重耳は度量の広い君主ではある。彼は安定を求めて国を出て彷徨ったと言って良い。時には立ち止まるような鈍重さを見せるも、叱咤した臣に従い見捨てるようなことはせず、望み通りに晋を継ぐと踏み切れば、陰惨な内乱に身を投じることも持さなかった。彼は国内にいた、優柔不断な一族たちを優しく赦した。そして、寵臣と同じように扱っている。
しかし、いくら重耳の度量が広いと言っても、己を殺そうとした男の息子の復職を快く受け入れはすまい。
事実、
「
と、一度拒んでいる。
だが、胥臣はいっそ執着めいた説得をしつこく続けた。彼も重耳にしたがった寵臣あるが、それに甘えているわけではない。重耳への忠心がために、郤缺を登用しろと具申しているのだ。胥臣は野にあった郤缺の様子を伝え、
「敬は徳のあつまりです。よく敬するときは必ず徳があり、徳は民を治めるものです。君よ、どうか彼を用いて下さい。わたしの聞くところでは『門を出れば
そして過去の偉人が仇でも賢人を用いた例を幾つも出し、とうとう重耳は降参した。
「
重耳の弟である
重耳個人の恐怖だけではなかった。晋人は郤氏への怨みと恐怖をいまだ抱いているのだ。しかし、親が罪あれど子に及ばさぬと古人も謳っていると言われれば、重耳も赦さないわけにはいかぬ。ゆえに、大夫として最下層の、所領も無い職であれば目をつむると応じたのだ。
重耳の処置に、胥臣は充分だと跪き頭を下げた。胥臣はこの時、司空であり、下軍の佐でもあった。それを考えれば、見いだした郤缺を平気で推挙してもおかしくはない。司空として罪人の息子を彼が監察すれば良く、下軍の佐であるのだから、郤缺の上役でもある。二重の監視とも言えた。
郤缺の、君公は赦さぬという予想は半分当たっていたが、赦さぬが登用するというところまでは考えが至らなかった。やはりそのあたり、重耳の度量は広く深いといえた。
ところで、郤缺の復職前に、郤芮と対立し重耳側についた
だからといって、全て水を流すという話ではない。重耳は外から見ると分かりづらいが、少々粘性がある君主である。心は広く我が儘を言わず家臣の言葉を素直に聞く性質であったが、放浪時に冷遇してきた国へ、ねっとりとした怨みを向けた。そしてその粘性が郤缺へもわずかに向かう。
「家の祀りは赦す、
当時、下級の大夫にいたるまで一族のことは族内の話であり、君主が口出すようなことではなく、重耳の言葉は非礼であり無礼でもある。が、それほどまでに重耳にとって、郤氏という弟の協力者が恐ろしかったのであろう。滅ぼしたと思っていた郤氏、死した郤芮は消え去りはしなかった。徳深いという触れ込みの嗣子が、彼の血を受け継ぎ生きていた。
「朽ちかけた我が廟へのお心遣いと共に、祀りを絶やさず護るようとの言祝ぎ、缺は我が君の徳を喜び謳いましょう」
郤缺はうやうやしく頭を垂れ、重耳に平伏した。父を永遠に見捨てる代わりに、彼は一族の安寧をもぎ取ったのである。さて、どちらが孝なのか、彼にも分からなかったであろう。
重耳から所領も赦されなかった郤缺であったが、胥臣がさすがにみかねたらしい。下軍の佐として、小領を世話し、君公からの兵をわずかに貸し与えられた。
「これは君公の意に反することではないか、
臼季とは胥臣の
「君公を説き伏せた。貴方は
と静かに返す。その声音に恩着せがましさは無い。このような臣が重耳を支えてきたのである。郤缺はかつての恵公とその周辺を思い出しながら苦い笑いを浮かべ、謝辞を述べた。重耳の寵臣たちは最初から優れた人間だったかはわからぬ。が、晋から離れ、主を守り、あげくに先の見えぬ放浪の中で磨かれていったのであろう。重耳が十二年間避難していた邑から逃げ、放浪し、戻ってくるまでに約九年の月日が流れている。
郤缺は、己の過去の二十年を感傷を以て思い出しながら、小領の主となった。大夫としての体裁だけは保たれることとなる。家を取り仕切る
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