第12話 静かな梅林の詩

 宮中にはいくつかの庭があるが、その一つに見事な梅林がある。今まさに満開であった。詩作という言葉は方便ではなかったらしい。まず古詩を投げられる。

「―――既に君子くんしを見ば、云何いかんぞ楽しかざらん」

 曲沃きょくよくを開いた桓叔かんしゅく、つまり現晋公の直系先祖を讃える詩である。実のところ、欒枝らんしはあまり好きではない詩であったが、続きを返していく。

あがれるの水、白石はくせき皓皓こうこうたり、素衣そい朱繍しゅしゅう――」

 古きよくの晋公を捨て曲沃の主に仕えようという瑞々しさに溢れた詩の連作である。趙衰ちょうしはこの詩を続けず、己の詩作を見せた。

「――えんにあり梅のかお――」

 梅の一輪を愛しい女に例えたものであったが、その女が晋の例えだと欒枝はすぐに気づいた。うらなりのくせに妙に艶っぽいと苦笑する。そういえばこの男の妾妻しょうさい君公くんこうの娘はかなり若いと聞いていた。それはそうと返歌である。晋を言祝ことほぐならいくらでもしよう。

粛々しゅくしゅくたる其の華――」

 欒枝にとって梅は赤であり、赤は姓、つまりは晋の色である。かそけき枝に鳥がとまり、花びらをついばんでもその美しい赤が変わることはない。そのような詩を紡ぐと、趙衰がうれしそうに笑む。詩の内容よりやりとりが嬉しいらしい。

 しばらくこのような、教養人独特の遊びを、庭を散策しながら行っていた欒枝は、ふと周囲に人がいないことに気づいた。控えていた欒枝や趙衰の付き人、宮中の寺人じじんも、視界に無い。庭のそんな奥まで来たのかと見回せば、確かに梅林を通り過ぎて、いまだ寒さに震えているような寂しい垣根に来ていた。

「しまった。夢中で歩きすぎましたな」

 欒枝は己のうかつさを嘆くように言った。実際、ここまで油断した行動は今まで無かった。よほど詩作が楽しかったらしい。自分に稚気めいたものを感じて苦笑した。

「いえ、夢中で歩いて貰いました。意外にお人が良い」

 趙衰が、さらりと微笑む。欒枝は思わず誰かを呼ぼうとしたが、それを抑えるように趙衰の手が欒枝の唇を抑えた。

「別に、害することが目的ではありません。あなたは開かれているようで実はとても閉じられているお方。私が誘っても拙宅には来ぬでしょう、あなたの邸は要塞ですからさらに閉じられる。私はあなたとちょっとした、雑多な話をしたかっただけです。まつりごとではありません」

「しかし、詩作散策というわけではない」

 波紋ひとつない湖のような趙衰の声に、欒枝が不快を隠さず言った。それはまるで、地の底に流れる猛炎のような声音であった。

「そういった部分を常に隠されるからです」

 と趙衰は悪びれもなく言う。欒枝は苛立ちに任せて腕を組んだ。それでも貴族らしい典雅なしぐさが損なわれないのは、さすがらん家の長と言えよう。

「それで。このような幼稚なはかりごとで二人きりで何をされたい。謀議ではあるまい」

 傲慢な口調を隠さない欒枝に、趙衰がうっすらと笑った。それは湖がさざ波を起こしたというより、軽やかに水滴を跳ねさせたような笑みであった。

郤主げきしゅのことです。情人にするのは良い、しかし飼い殺しは困る」

「……臼季きゅうきか?」

 鋭く固い声が欒枝の口から発せられた。あの男以外に漏らさぬよう努めていたはずである。郤缺を戯れに情人としたのは、その体が目的ではなく胥臣しょしんや趙衰などに国人の勢力を渡さぬためである。胥臣をごまかすためのそれが、他に漏れているのであれば、胥臣は口の軽い者として見直さねばならず、何よりこの男にどこからどう伝わりどう広がったかによって欒枝と郤缺の立場が変わるであろう。

「臼季には話していたのですか。ああ、彼はずっと郤主を監視しておりましたからね。しかしそれはもうご安心を。そろそろ、司空しくう士伯しはくに移る。郤主は自由です」

 柔らかな仕草で趙衰が空へ手を伸ばした。何事かと見ていれば、指先に小さな鳥が降りた。黄土のような羽に白い腹のそれは、春先になると見かけるものである。

 チョッチョッチョッチャッチャッチャ

 喉震わせる鳴き声は、お世辞にも風流とは言えなかったが、趙衰は楽しんでいるようであった。そっと近づけようとしたのか腕を降ろすと、小鳥は飛び去っていった。

燕燕えんえんここに飛ぶ、其の羽を差池しちす」

 欒枝は多少の揶揄やゆを込めて言う。趙衰が少し情けない顔を向けた。

「あれは燕ではありませんし、何より私は誰かを嫁に出して悲しんだことがありません」

 燕によせて、嫁入りで去って行く妹を悲しんだ詩である。確かに鳥を逃した趙衰は女を盗られた男と言うより、娘を奪われた父のようであった。

「野鳥がお好きで。そして散策に詩作。この香りは蝋梅ろうばいか。私とそう年も変わらぬのに甘いこうだ」

「よくおわかりで。ええ、この香は蝋梅です。蝋梅もそうですが、自然天然のものを私は好みます。あとは書を読むことです。あなたが昔、逃げている君公に請われてお送りされた書は、実は私が読みたいものでした。請うたわけではなかったのですが、君公は察してお伝えいただいたようで」

 言われて、晋にある全ての知識を知りたいのか、という勢いで書物を求められたことを思い出す。全てを送れば馬車何台かとなるので、小出しでそっと送り続けた。

「私の財が汝のお役に立てたのであれば何より。――で。私と郤主のことだ。何故知っておられる」

「……知っている理由が必要で?」

 当然だ! と叫びたくなるのを堪えて、欒枝は頷いた。本題では無いのですけどねえ、と言いながら趙衰が苦笑する。

「あなたですよ、欒伯らんぱく。郤主は見事隠しておられた。郤の主として、元は敵対していた欒氏と共に手を携える、力無きものゆえ後ろ盾を頼んでらっしゃる、そのように振る舞っておられた。が、欒伯。あなたは、もちろんわずかですし気にするほどでもないのでしょうが、郤主を『己のもの』とふるまっておられる。肌を合わせているのは、まあ色の沈みの無さで気づきますが。そのようなことより、郤主を飼い殺しになされぬことです。私は、私がいかに凡才か知っている。ゆえに優れた才がもったいないことになるのは見逃せぬ」

 凍り付いた水面のような目を趙衰が向けてくる。欒枝は飼い殺しという言葉に憤慨し、らしくなく怒鳴りそうになった。が。なんとか自制し、呻くように言葉を紡ぐ。

「……私は、私の持つ術を、この国を託せるものとして郤主に伝えているだけだ」

 多数の氏族を、とはさすがに言わなかった。が、趙衰は気づいているらしく、そのようですね、と小さく呟くと

「あなたがいなくなったあと、郤主が浮く、とは思いませぬか。みなあなたの威光があってこそついでに郤主になびいている。いなくなれば霧散するでしょう。そうなったときに残るのは、飼い殺しされていた一人の大夫たいふだけです」

 しずしずと趙衰が言葉を終える。欒枝は図星を指されて押し黙った。氏族たちはすでに郤缺への好意はある。しかし欒枝に対するような、すがるような、頼りにするような、そのようなものは未だ無い。欒枝が死ぬ前に郤缺への信頼と畏敬を完全にせねばならぬ。

「郤主が次代こそ権勢に近いのだと示さねばなりませぬが、未だ我が君を囲むいばらは強い。そしてその荊は次代に強固になりかねない。我らの死後、非才の者どもが親の威光で我が物顔をする。あなたが許せぬはそれでしょう。私もそこは承伏できかねる。そこで、郤主を権勢に近い者と会わせてやりたい。今ではなく、次代の者です」

 晋独特の強い風が吹き、梅林の枝が鳴った。そうであるのに、妙な静謐せいひつが場を包んでいる。欒枝は首をかしげて話を促した。趙衰は軽く頷き、

「私の息子と会わせてやって下さい。我が息子はいずれ私の余光でけいになる。うってつけの踏み台かと思われますが」

 欒枝は呆れた。

「汝は権勢に興味ないかと思っていたが、己のばつを作るような御仁であったか。聞かなかったことにする」

 馬鹿馬鹿しい。結局、趙衰が己の余光を残すために欒枝と郤缺を利用すると言うことではないか。趙衰の子など、重耳への忠に溢れているに違いない。そうして立ち去ろうとすると、痩せた手が欒枝の腕を取った。弱い力であり、簡単に振り払えたが、欒枝は一応振り向いた。どんな顔で縋っているのか見てみたかった。

 しかし、そこには冷たさだけが見える瞳が透徹さをはらんで光っているだけであった。

「ご心配なさらず。私の息子は私を嫌っており――君公を嫌っている。表に出さぬがまだ若い、隠せておらぬ青臭さだ。私が郤主に引き合わせるは手駒を作ると疑われるだろう。あなたが会わせれば、郤主はまだ警戒すまい。うまくいけば郤主の手駒が増える。私の息子も、あなたの沈毅さ貞節さを尊敬している。よろしければ、ご教示願いたい」

 失礼、と言って趙衰が手を離した。

ちょう子余しよ。汝は嗣子ししよりも郤主を重きにおくか。何故だ。私の息子に難局を捌く器量は無い。ゆえに郤主にいらぬ労を負わせている。しかし、汝の嗣子の評判は悪くない、悪くないどころか良い」

 巷間こうかんに流れる趙衰の子は出来が良いと評判である。郤缺を手駒にするではなく逆の言葉を言う趙衰の意図がわからず、欒枝は低く唸った。

 趙衰が、すっと小さく笑う。

「適材適所というものです。我が息子は確かに出来は良い。法と礼を重んじ親が言うのも陳腐ですが頭も良い。しかし、郤主のような自我に虚洞きょどうを作れる性質は無い。郤主は得にもならぬのに貴方の重荷を背負う覚悟をしておられ、利にもならぬのに士氏を陰から支えた。彼の才は文武に優れているのでしょうが、そこは些末です。彼程度の武や文に長けた者、他にもおられるでしょう。礼儀に優れた敬の質も、時折見せる理性も、驚くほどの自制心も、全てこれから話すことの余波にすぎません。己の中に虚洞を作り透徹に徹することこそ、郤主の才です。次代の者を色々と見てみたが、己の中に穴を開けていくことができそうなのは郤主しか見つけられませんでした。まだ不完全、青臭さを持っておられるが、ああいった、己を空漠くうばくとし全てを俯瞰して見ることのできるというのは、性質もさながら苦労なされたからこそのものでしょう。そこに礼や信がくっついてきているようなもの。それは徳に通じるものですが、我が愚息は見せかけの徳を追いかけすぎている。郤主は上手に操作して下さろう。――ふふ、話しすぎましたな」

 くつくつと笑いながら趙衰は空を見上げ、視線を梅林に移すと、梅花の詩を紡ぎ始める。厳しい寒さにも負けず咲いている梅花、その香りがほのかに漂い、いじらしい貞女のようだと静かに詠う。そうなると、この底の見えぬ男は一人の優雅な詩人に見えた。

「郤主が汝の嗣子を押しのけて権勢を握ると?」

 良いのか? というよりはありえるのか? という気持ちで欒枝は口を開いた。欒枝は郤缺が権力を握れるとは思っていない。思っていないからこそ欒枝に縋ってきている氏族という荷物を渡しているのである。あれを悪用できるような地位にならない、と。

「いえ、無理でしょう」

 趙衰は理由を一切述べなかったが欒枝もあえて求めなかった。郤缺の立場、そして性格を考え、権勢を手にするために脂っこく動くようなことはないだろう。もっと言えば、そうであるからこそ趙衰は郤缺を評価しているのだ。自ずから権勢を手に入れることも国の中心に立つことも枯れた、野心の無さが空漠と透徹には必要であった。さらりとした動きで趙衰が歩き出していく。欒枝は共に歩かず、立ち止まり見送る。もはや一緒に歩く気分にもなれなかった。謀議ではないといいながら、ほとんど謀議に近かったではないか、という不快さが強い。

 ふと、趙衰が立ち止まり、振り向かずに口を開いた。

「あとひとつ。郤主にあなたの術を、そう、あなたに縋る氏族を渡すのは私も良いと思います。我らはともかく我らより後の者には手に負えぬ。しかし、あなたの晋公たちへの怨毒を受け渡さぬよう。それはあなたの一族のものですから」

 そんなもの無いとは、欒枝は言わなかった。しかし触れて良いとも言っていない。それは若い頃から隠し通してきたものであった。郤缺にはもちろん、他者に触れられぬよう隠しに隠していたものである。趙衰が欒枝の奥底にある怨讐を誰にも漏らさぬことなどわかっている。しかし、何故知っていたのか、いや何故それを感じ取れたのか。そして何故無粋にもわざわざ口に出すのか。趙衰が梅林の向こうへ姿を消したとき、欒枝は思わず地を蹴った。ぶわりと砂が舞い、強風に煽られて空へ舞い散った。

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