第12話 静かな梅林の詩
宮中にはいくつかの庭があるが、その一つに見事な梅林がある。今まさに満開であった。詩作という言葉は方便ではなかったらしい。まず古詩を投げられる。
「―――既に
「
古き
「――
梅の一輪を愛しい女に例えたものであったが、その女が晋の例えだと欒枝はすぐに気づいた。うらなりのくせに妙に艶っぽいと苦笑する。そういえばこの男の
「
欒枝にとって梅は赤であり、赤は
しばらくこのような、教養人独特の遊びを、庭を散策しながら行っていた欒枝は、ふと周囲に人がいないことに気づいた。控えていた欒枝や趙衰の付き人、宮中の
「しまった。夢中で歩きすぎましたな」
欒枝は己のうかつさを嘆くように言った。実際、ここまで油断した行動は今まで無かった。よほど詩作が楽しかったらしい。自分に稚気めいたものを感じて苦笑した。
「いえ、夢中で歩いて貰いました。意外にお人が良い」
趙衰が、さらりと微笑む。欒枝は思わず誰かを呼ぼうとしたが、それを抑えるように趙衰の手が欒枝の唇を抑えた。
「別に、害することが目的ではありません。あなたは開かれているようで実はとても閉じられているお方。私が誘っても拙宅には来ぬでしょう、あなたの邸は要塞ですからさらに閉じられる。私はあなたとちょっとした、雑多な話をしたかっただけです。まつりごとではありません」
「しかし、詩作散策というわけではない」
波紋ひとつない湖のような趙衰の声に、欒枝が不快を隠さず言った。それはまるで、地の底に流れる猛炎のような声音であった。
「そういった部分を常に隠されるからです」
と趙衰は悪びれもなく言う。欒枝は苛立ちに任せて腕を組んだ。それでも貴族らしい典雅なしぐさが損なわれないのは、さすが
「それで。このような幼稚なはかりごとで二人きりで何をされたい。謀議ではあるまい」
傲慢な口調を隠さない欒枝に、趙衰がうっすらと笑った。それは湖がさざ波を起こしたというより、軽やかに水滴を跳ねさせたような笑みであった。
「
「……
鋭く固い声が欒枝の口から発せられた。あの男以外に漏らさぬよう努めていたはずである。郤缺を戯れに情人としたのは、その体が目的ではなく
「臼季には話していたのですか。ああ、彼はずっと郤主を監視しておりましたからね。しかしそれはもうご安心を。そろそろ、
柔らかな仕草で趙衰が空へ手を伸ばした。何事かと見ていれば、指先に小さな鳥が降りた。黄土のような羽に白い腹のそれは、春先になると見かけるものである。
チョッチョッチョッチャッチャッチャ
喉震わせる鳴き声は、お世辞にも風流とは言えなかったが、趙衰は楽しんでいるようであった。そっと近づけようとしたのか腕を降ろすと、小鳥は飛び去っていった。
「
欒枝は多少の
「あれは燕ではありませんし、何より私は誰かを嫁に出して悲しんだことがありません」
燕によせて、嫁入りで去って行く妹を悲しんだ詩である。確かに鳥を逃した趙衰は女を盗られた男と言うより、娘を奪われた父のようであった。
「野鳥がお好きで。そして散策に詩作。この香りは
「よくおわかりで。ええ、この香は蝋梅です。蝋梅もそうですが、自然天然のものを私は好みます。あとは書を読むことです。あなたが昔、逃げている君公に請われてお送りされた書は、実は私が読みたいものでした。請うたわけではなかったのですが、君公は察してお伝えいただいたようで」
言われて、晋にある全ての知識を知りたいのか、という勢いで書物を求められたことを思い出す。全てを送れば馬車何台かとなるので、小出しでそっと送り続けた。
「私の財が汝のお役に立てたのであれば何より。――で。私と郤主のことだ。何故知っておられる」
「……知っている理由が必要で?」
当然だ! と叫びたくなるのを堪えて、欒枝は頷いた。本題では無いのですけどねえ、と言いながら趙衰が苦笑する。
「あなたですよ、
凍り付いた水面のような目を趙衰が向けてくる。欒枝は飼い殺しという言葉に憤慨し、らしくなく怒鳴りそうになった。が。なんとか自制し、呻くように言葉を紡ぐ。
「……私は、私の持つ術を、この国を託せるものとして郤主に伝えているだけだ」
多数の氏族を、とはさすがに言わなかった。が、趙衰は気づいているらしく、そのようですね、と小さく呟くと
「あなたがいなくなったあと、郤主が浮く、とは思いませぬか。みなあなたの威光があってこそついでに郤主に
しずしずと趙衰が言葉を終える。欒枝は図星を指されて押し黙った。氏族たちはすでに郤缺への好意はある。しかし欒枝に対するような、すがるような、頼りにするような、そのようなものは未だ無い。欒枝が死ぬ前に郤缺への信頼と畏敬を完全にせねばならぬ。
「郤主が次代こそ権勢に近いのだと示さねばなりませぬが、未だ我が君を囲む
晋独特の強い風が吹き、梅林の枝が鳴った。そうであるのに、妙な
「私の息子と会わせてやって下さい。我が息子はいずれ私の余光で
欒枝は呆れた。
「汝は権勢に興味ないかと思っていたが、己の
馬鹿馬鹿しい。結局、趙衰が己の余光を残すために欒枝と郤缺を利用すると言うことではないか。趙衰の子など、重耳への忠に溢れているに違いない。そうして立ち去ろうとすると、痩せた手が欒枝の腕を取った。弱い力であり、簡単に振り払えたが、欒枝は一応振り向いた。どんな顔で縋っているのか見てみたかった。
しかし、そこには冷たさだけが見える瞳が透徹さをはらんで光っているだけであった。
「ご心配なさらず。私の息子は私を嫌っており――君公を嫌っている。表に出さぬがまだ若い、隠せておらぬ青臭さだ。私が郤主に引き合わせるは手駒を作ると疑われるだろう。あなたが会わせれば、郤主はまだ警戒すまい。うまくいけば郤主の手駒が増える。私の息子も、あなたの沈毅さ貞節さを尊敬している。よろしければ、ご教示願いたい」
失礼、と言って趙衰が手を離した。
「
趙衰が、すっと小さく笑う。
「適材適所というものです。我が息子は確かに出来は良い。法と礼を重んじ親が言うのも陳腐ですが頭も良い。しかし、郤主のような自我に
くつくつと笑いながら趙衰は空を見上げ、視線を梅林に移すと、梅花の詩を紡ぎ始める。厳しい寒さにも負けず咲いている梅花、その香りがほのかに漂い、いじらしい貞女のようだと静かに詠う。そうなると、この底の見えぬ男は一人の優雅な詩人に見えた。
「郤主が汝の嗣子を押しのけて権勢を握ると?」
良いのか? というよりはありえるのか? という気持ちで欒枝は口を開いた。欒枝は郤缺が権力を握れるとは思っていない。思っていないからこそ欒枝に縋ってきている氏族という荷物を渡しているのである。あれを悪用できるような地位にならない、と。
「いえ、無理でしょう」
趙衰は理由を一切述べなかったが欒枝もあえて求めなかった。郤缺の立場、そして性格を考え、権勢を手にするために脂っこく動くようなことはないだろう。もっと言えば、そうであるからこそ趙衰は郤缺を評価しているのだ。自ずから権勢を手に入れることも国の中心に立つことも枯れた、野心の無さが空漠と透徹には必要であった。さらりとした動きで趙衰が歩き出していく。欒枝は共に歩かず、立ち止まり見送る。もはや一緒に歩く気分にもなれなかった。謀議ではないといいながら、ほとんど謀議に近かったではないか、という不快さが強い。
ふと、趙衰が立ち止まり、振り向かずに口を開いた。
「あとひとつ。郤主にあなたの術を、そう、あなたに縋る氏族を渡すのは私も良いと思います。我らはともかく我らより後の者には手に負えぬ。しかし、あなたの晋公たちへの怨毒を受け渡さぬよう。それはあなたの一族のものですから」
そんなもの無いとは、欒枝は言わなかった。しかし触れて良いとも言っていない。それは若い頃から隠し通してきたものであった。郤缺にはもちろん、他者に触れられぬよう隠しに隠していたものである。趙衰が欒枝の奥底にある怨讐を誰にも漏らさぬことなどわかっている。しかし、何故知っていたのか、いや何故それを感じ取れたのか。そして何故無粋にもわざわざ口に出すのか。趙衰が梅林の向こうへ姿を消したとき、欒枝は思わず地を蹴った。ぶわりと砂が舞い、強風に煽られて空へ舞い散った。
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