第11話 春のおとずれ、雪解けの響き
宿老というべき
民たちは、冬の間ひっそりと家の中で作業をする。女は機織りをし、男は藁を整える。少しずつ無くなる蓄えを気にしながら身も心も死んでしまいそうな寒冷に耐える。その果てにある雪解けは喜びの象徴であり、彼らはこれからの豊穣を祈る祭事を行う。と、同時に他の
郤缺はそのようなことを、野に隠れていた過去と共に思い出していた。邑のものは郤缺たちの立場を知っていたはずである。しかし、邑の民になれば同じと扱い、己らは生き長らえた。
「あの者たちが善良であったかどうか」
強い風が吹き、郤缺の整えていた長い前髪を舞い上げる。額を出して横に垂らし、わざと結いあげないそれは、郤缺なりの
「あの者たちは、善良であったわけではあるまい」
春の訪れに背を向けて歩きながら、郤缺は己の言葉に頷いた。あの、農奴というべき民たちは、権力者が何を考えているかなどわからないのだ。ただ言われるがままに田畑を耕し、先祖代々そうであるからと税を納める彼らは、郤缺の立場を知っていたが、差し出せば権力者が喜ぶなど思いもしなかったに違いない。ただ、何やら諍いが起こり、何故か己らの家族や親戚が死ななければならなかった、よくわからない、というものであったろう。
また、強い風が吹いた。晋の春の訪れは二つである。雪解けと、黄砂と共に吹き荒れる強風である。顔や髪に舞い散る砂が付着したが、郤缺は特に払うこともなく馬車に乗った。御者の姿もすっかり砂にまみれていたが、文句ひとつ言わず馬を促し車を出した。
「旧領はいかがでしたか」
この御者は時折口が軽い。郤缺は眉を
「あれは私の所領ではない。
他者に下げ渡されていないだけマシか、と郤缺は小さく息をついた。郤氏がかつて持っていた所領のひとつ、
郤缺が約五年ほど隠れていた場所でもある。邑の民は郤缺のことなど、すっかり忘れているに違いなかった。
さて、そのように春である。欒枝との出会いから半年が経っていた。たった半年ではなく、もう半年である。氏族の全てではないが、郤氏ではなく郤缺本人に対する信頼も厚い。それが欒枝という後ろ盾のおかげでもあるが、最近は郤缺のみを見る氏族も多く、
「
と嘆かれるのであった。郤缺はこの先、晋を直接動かせるような立場にはならないだろう。ゆえに、微笑して、皆様のご教示に従うのみです、と答えている。実際、例えば
そのようなおり、
「我ら大国同士いがみ合っていても益は無い、和を結びたい」
着慣れぬであろう
使者を丁重に迎えると、重耳は
「我が国は今、周辺の
口火を切ったのは
「私も楚との和平を是とすべきだと思います。先だっての鄭との和解もありました。この和平により鄭と楚、二つの約定を守ることができるの晋のは喜びとなるでしょう」
と、欒枝は意見を述べた。重耳が頷く。この約定というものは極めて重い、特に国の間では。欒枝は先軫の言葉を皮肉った形となったが、気付いた者はいないようであった。
「楚との和がなれば、君公のご心配も大いに無くなるというもの。是非応じるべきでしょう」
「楚の申し出はこちらとしてもありがたいこと、お受けすべきでしょう。楚は内患を抱えておりますから、この和議を同盟国にお知らせすることにより彼の国々も楚の乱に巻き込まれはすまい。我らは楚と和を結んだことを大々的に知らしめ、楚が北上せぬことを確約したと皆に伝えるべきです。東国の動揺は我が晋の憂い、それを封じることができるのであれば僥倖というものです」
重耳が少しあどけない顔をして趙衰を見た。先軫は首をかしげ、胥臣は不思議そうな顔で趙衰を見る。欒枝は趙衰の目を見て、もっと詳しく、と促したが趙衰はしれっとした顔のまま座っていた。
このまま朝議の間から立ち去るわけにも行かず、何より重耳がそうか、や、終わり、とも言わぬ。しかし趙衰は皆分かっているだろうという澄ました顔であった。欒枝は、この男は皆が分かっておらぬのを承知で黙っているのだと察した。情報がいかに尊いかを欒枝はよく知っている。が、欒枝の情報に楚に乱の兆しなど無い。
「
仕方無く、欒枝は問うた。趙衰は欒枝に丁寧に拝礼すると、
「
趙衰の言葉に、欒枝が己の唇に指をあて、無意識に弾いた。
「確かに、太子を新たに立てたという話は聞いたな」
この情報を趙衰はさらに深く探り、精査したというわけである。欒枝は己の衰えを感じた。昔の自分ならこのように深く探っていったのでは無いだろうか。
「さて、我が君。楚子は優れており心のある方。我ら放浪の時、
つまり、楚は弱体化する、それをみな静観すればよいと暗に伝えるということであった。
「わたしは楚王が好きだ」
重耳が言った。周の慣例であれば楚王とは言わず、楚子である。しかし、重耳は流浪の身を快く世話をしてくれた楚王に個人的な好意を抱いている。
「ゆえに、この和議は嬉しいことである。各国、同盟国である東国、周王様、そしてお世話になっている秦にいたるまで、この喜ばしい和議を伝えようと思う。細かい文面などは各々の卿に任せよう」
にこやかに言葉を紡ぐと、他の議題は……と聞き、
全てが終わると、重耳がゆったりとした雰囲気で口を開いた。
「和議の文は秦へは
のんびりとした声の晋公に一人の卿が口を開く。
「
趙衰が至極まじめな顔で奏上する。最後の言葉に場のものは皆くすりと笑ってしまった。趙衰は皮肉を言っているわけではないだろう。陽子――
「では、そのように。今日もご苦労であった」
と言って、重耳は朝議を終わらせた。卿たちは拝首し、衣擦れの音が無くなるまでぬかずき続けていた。
拝首を終え、立ち上がった欒枝は思わずため息をついた。なんといっても重耳に対する畏しさがあった。君公は東国だけではなく秦に対する圧力としてもこの和議を利用すると言っていたのである。そして秦への書を任せたのは先軫ではなく欒枝であった。欒枝が秦に対する和平派であるのを重耳は知っている。先軫のような好戦的な男ではなく、非戦論の欒枝であれば刺激しない修辞を使い恫喝ができると睨んでいるのであろう。
それよりも、重耳からそれを引き出したのは趙衰であった。示し合わせたわけではあるまい。欒枝が細かく問いかけなければ、重耳はそこへたどりつかなかったやもしれぬ。
趙衰を呼びかけようとして――特に理由は無い、とにかく何か話したかったのだ――目で追えば、
「
趙衰から、声をかけられた。欒枝は、それは中々に風雅、喜んで、と内心を覆い隠しながら笑顔で応じた。
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