第43話 我が喜び我が祝い
「あのガキども、親の余光と先君の見当違いで正卿と次卿だ! 政堂はいつからガキの玩具と成りはてたのだ!」
先都が床に拳を叩きつけて吼えた。それに乗るように蒯得が訴えてくる。
「私の土地を奪い、埋め合わせはすると言ったきり何もない。
「法の手続きとしても、正当ではない。取り上げたあとに朝政で報告したと聞いている。私腹を肥やすためであろう」
苦々しい顔で士縠が言う。言葉の内容より法制の男という説得力に皆、頷いた。
実のところ、先克は本気で軍事拠点にしようと
「今、公室から割く土地はありません。先主はご自分の判断で代わりを差し出すとおっしゃったのであろう」
と、すげなく振り払った。先克は一言でも、趙盾に話を通すべきであった。軍用地の管理も蒯得への対応も
箕鄭はしぶい顔をして先都の話を聞く。先克は確かに小生意気である。が、それ以上に趙盾だろう、と思った。あの、三十路半ばになったていどの、血筋も育ちも良くない男がこの国の正卿である。箕鄭は文公に見いだされてからずっと、政治に携わってきた。趙盾が
「……せめて、幼君以外に誰かがおれば、
呻くように呟く箕鄭に、士縠が悔しそうな目を向ける。箕鄭は士縠が会盟で活躍しだしたときに、意気投合した。まだ
箕鄭は遠い昔を思い出す。
文公が晋に帰ってきたばかりのころに飢饉が起きた。恵公は内需を考えていたようであるが、飢えれば秦に頼り、豊作になれば秦に返さぬ。ゆえに戦いが起き、惨敗し、結果的に晋はさらに荒れた。そのような果ての飢饉である。民は飢え、晋は立ち往生するはめになった。当時、箕鄭は文公の近侍だったと思われる。この青年に文公は飢饉をどうすれば良いかと問うた。
「
箕鄭は即座に答えた。この『信』はただ人間同士の信用を表すものではなく、政治の基礎の話である。君主の心に信があるなら善悪が示され、制度秩序に信があれば身分の上下は侵されず、政令に信があれば農業は治まり、民事に信があれば仕事は滞りない。簡単に言えばそういったことであり、確かに守られるべきことでもある。文公は箕鄭に可能性を見いだしたのか、それとも趙衰に何か言ったのか。当時小者であった箕鄭は大夫に任命され、その後新上軍の佐となった。趙衰の補佐である。大夫になったことに箕鄭は喜んだが、文公から離され、薄い風情のぱっとせぬ趙衰の下となったことはがっかりした。その趙衰が死に、他の卿もいなくなって勇躍するときに、今度は息子が立ちはだかった。
箕鄭を認めたのは文公である。否、文公に認められた己は最後の遺臣とも言えた。
「趙孟が今の地位にいるのは何故か。認められたからだと思うか? 違う。邪魔なものを消したからだ。今思えば
底光りする目で、箕鄭は言った。暗い声であった。士縠が少し息を飲んだ。
「いきなり趙孟を殺すのは無理ではないか」
士縠は嫌だと言い出せず、せめて現実的な話で留まらせようとした。実際、正卿の彼には身を守る勇士がおり、邸も厳重である。
「政堂の中であれば、趙孟も丸裸、みなで襲えばよろしいのでは」
蒯得がとんでもないことを言う。箕鄭や士縠だけでなく、先都さえも、馬鹿なことを言うな、と一喝した。蒯得は卿など遠いほどの身分である。政堂を血で穢す意味がわからないらしい。
「我が君がおられる場所です。そのようなことできようか」
仕方無く分かりやすく言う士縠に、蒯得が今ごろ蒼白となった。この時代の君主は統治者の面と共に神の代弁者の面がある。エジプトの王ほどの宗教性や日本の大和王朝ほどの巫覡性も無いのだが、天のみことのりを受けた血筋、という概念は強い。ゆえに、政堂を穢すことは議事堂であり神社本殿である場所で狼藉を行うに近い。むろん、蒯得は己の軽率な言葉を詫びた。
「元々、このようなことになったのは、先主の横やりであろう。趙孟を殺すはことを知らぬものから義に適わぬと責められるやもしれぬが、先主を殺しさらし、罪をおおやけにすれば良い。そうなれば、趙孟が正卿である正当性も崩れる。あのものは先主の詐欺により今の地位がある。ゆえに、先主を贔屓しているのであろう」
梁益耳が先都と箕鄭の双方を見ながら断言した。梁益耳は先克が頭の回転は良いが足元がついてきておらず、隙が多いことも指摘する。
「しかし先氏は二つに割れ、あのものも強く守られている。そう簡単に襲えぬ」
先都がそう返してしまったがために、趙盾暗殺から先克暗殺に話は流れてしまった。正直、箕鄭は血を流すのであれば本命から殺せ、と思ったが、先都にとっては先克のほうが本命なのであろう。この中でもっとも武を持つのは先氏である。先都の面子を立てるしかない。舌打ちを堪え暗い目を床に落とした。寒さをしのぐための毛織物が敷いてあるが、心まで温かくはしない。
士縠も暗い顔をした。どうしても会話が血腥い話となってしまっている。彼は己の感情に囚われ歪みが生じているが、基本的には育ちの良いまっすぐな人間である。また、荒事が苦手であった。ゆえに、
邪魔なので殺す
という発想になじめず、いっそ逃げたくもある。が、既にどのように殺すか、という方向へ場が転がっており、抜けようがなかった。自分は関わらぬと言えば、この場で殺されるであろう。
「
内部にいる先都と違い、少しだけ外にいる梁益耳は客観的に見渡している。先子とは秦に亡命した
先都が密かに
「なかなかに良い景色ではないか」
案内されている途中に雪景色の庭があった。紅い椿が雪をかぶり、情緒的である。彼は見ても良いかと無邪気に問うた。邸の主人が家臣に目配せしたあと、どうぞ、と先導する。家臣は刺客に部屋から庭へ場所が変更になったことを即座に伝えた。
「雪に赤が映える」
刺客が潜んでいる先都にそう笑いかけると、先都も笑みを浮かべて頷いた。そうして青年は椿の元で血を散らしながら死んだ。雪の上に飛び散った飛沫は落ちた椿の花に似て、なかなかに詩的な死に方である。先軫から続く先主の直系として相応しい派手な散り方とも言えた。
先都と梁益耳は夜中のうちに先克の死体を市にさらし、
おそれおおくも先君の人事に口を出し世を乱したため誅殺
と書いた布を掲げ置いた。市は経済的な市場ではなく、宮廷に入れぬ士大夫や民などが発布を見て意見を交わす場である。殺したものをさらすは、おおやけの処刑と宣言したようなものであった。
それを知った趙盾は何を思ったのか。先克の謀殺を議として出された時も彼は薄い顔をしていた。
「先主は残念です。誅殺とありましたが、私はなんら伺っておりませぬ。この卿の中に、独断で誅したものがおられるか」
淡々と言葉を紡ぎながら、趙盾が政堂を見渡す。むろん、誰も『己である』とは答えぬ。
「ご不幸にもお亡くなりになられた先主に子はおらず、弟がお一人おられるとのこと。まだ成人なされておられませぬ。
先都は唖然とした。これから先氏を牛耳ろうというに、他家が口出しをするか、と一喝しようと口を開いた。が、荀林父が真剣なまなざしでこちらを見て来る。どうも、本気で先都をいたわり思いやっているようであった。先都は一喝をやめ、静かに言葉を返す。
「
荀林父と先都の言葉に趙盾が少し考えるそぶりを見せた。
「……我が趙氏の話であるが、個人的に
郤缺は、はるか以前に趙衰が
さて、郤缺の一人遊びはともかく、隣の席にいる先都はざっと血の気が引いた。趙盾は先都の死をいきなり示唆したのである。いや、あれは正当の話であり、そして己らの痕跡などわからぬはずである。ふと、
「まことまこと。我が身に不幸あれば、荀伯にお願いしたいものよ。あなたは義理堅く誠実なかただ」
荀林父がいえいえ、そんな、と言い、
「重ね重ね、先主は残念です。いまだお若い。惜しいかたです」
と泣きそうな声で言った。
そうして、先克が死んだ半月ほどあと、先都と梁益耳が殺され、市に晒された。むろん、趙盾の差配であり、
私事を公事に入れ、上卿を
と発布した。
「先氏のこと、荀伯にお任せします。くれぐれも財を流さぬよう、文公に付き従った貴いお血筋です」
趙盾はさらしたその日の朝政で言った。荀林父は、そんな、叔父が甥を殺すとは、とさめざめと泣いていた。郤缺はすでに氏族を押さえ、誰が何を言ってこようと動くな、といつもの指示をした上で
「もしこの件で誰かがあなた方にご相談されるようであれば、私を訪ねるようお伝えください」
と差配していた。もし動揺された方がおられれば慰めたいのだ、と言えば、みな、それは良い、と安堵した顔を見せる。実際、惑うものがおれば、郤缺は親身になり乱から引き離す所存である。そして誘うものあらばそれこそ諭さねばならぬ。
趙盾がちらりと郤缺を見て、次に箕鄭を見る。箕鄭は唇を噛みしめながらも平静を努めようとしていた。先都と梁益耳は元々近い。箕鄭と先都を近く見せるのは、この政堂と死んだ梁益耳だけである。彼が何も言わず死したならば、謀議は漏れぬ。
「さて。先叔が先主を害し騒乱を起こしたこと、私の不徳です。正卿として力が足りぬと痛感しました。ところで、亡き先氏が軍用地として徴発した土地の件です。
趙盾が卿を見回しながら淡々と言った。二人がおらず、四人である。つまり、趙盾が見ているのは三人の顔であった。荀林父も郤缺も知らぬ、と返す。箕鄭は頬の肉を思いきり噛み、恐怖に耐えた後、
「私も存じ上げぬ」
と、堂々と嘘をついた。蒯得は箕鄭の邸にいる。先克が死に己の土地がいつ戻ってくるのかと飛び出していくところを必死にとどめ置いたのだ。この、自分の財を取り戻すに手一杯の男は、政治がわからぬ。先都に身を寄せたが、先氏同士のいざこざに巻き込まれかねぬと箕鄭が預かった。その結果、先都に泣きついたものが箕鄭の手に転がり込んでいる。この男がいることで、箕鄭と先都の繋がりが形になっている、とようやく気づいたのだ。
朝政が終わると、箕鄭は士縠の元へ急いだ。士縠も先都の死に蒼白となっている。
「あ、あれはその場にいたのは先叔だけだ。もう殺す話はやめよう。先主のことも、やめるべきであった」
士縠が邸の奥の部屋でこそこそと言う。何を今さら、と箕鄭は腹が立ち、
「最初からなぜ言わぬ」
と理不尽な罵倒をした。士縠は、言えば殺したであろう、と小声で呟いた。
士縠は俯く。そのまま床を見ていると倒れたくなる心地であった。弟がいれば、となる。士縠は士会の天才性にいち早く気づいており、嫉妬し恐怖し、しかし笑顔で懐いてくる弟を頼りにし愛しくも思っていた。何故おらぬ、と腹の奥で怒りがともった。
箕鄭は士縠の内心などもちろん知らぬ。殺したであろうと呟いて床を見つめる秀才を殴りたくなった。それは苛立ちでもあったが、図星でもある。趙盾や先克を殺すと決めた時点で士縠が抜けようとするなら、怒りと口封じのために殺していたに違いない。
「……
士縠が箕鄭の目を見ながら、必死に言いつのった。箕鄭にとって郤缺は取るに足らぬとみていた存在である。他の意見をおうむ返しのように繰り返している印象が強かった。が、確かに最近、切れ者の発言をする。教養の良さが見えたのも事実である。
「もうすぐ日が暮れるが、一度尋ねてみよう。汝は用心せよ」
何をどう用心するかともかく、箕鄭は最後に士縠へ優しく言った。彼は結局、芯に純朴さがあり、謀議謀略に向いていない。元々、信の元に国を治めるべし、という進言をした男なのだ。
いきなり尋ねては相手にしてもらえぬ、ていどの知恵はまわったらしい。箕鄭は先触れを送った後、返事を待たずに郤缺の邸を訪れた。郤缺は門に迎えたが、中には通さぬ。
「この夜半にお訪ねとは重要ごとでしょうが、申しわけござらぬ。本日は具合が悪い。しかし、来て頂いたのです。我が馬車でお送りいたしましょう、あなたの御者はお疲れのようだ」
実際、飯も食わせずに宮城や士家へ連れ回しており、馬も御者も疲れた顔をしていた。ここで、いや我が御者は大丈夫だ、と言わぬのが箕鄭である。己の従僕にあわれみを感じ、また、郤缺への警戒も無いため頷いた。郤缺は内心、なんと愚かな男だろう、と呆れた。この、いつ殺されてもおかしくない時に、手勢から離れるのは自殺行為であった。
「さて、私に何の相談か。先叔が乱を起こした、ご不安であろう」
夜の都は静かで、馬の足音と車輪の土踏む音が響いた。馬車をゆっくりと走らせながら、郤缺は柔和な笑みを浮かべ、隣の箕鄭に語りかける。それは見るもの全てが安堵するような優しい笑みであった。
どうとでもとれる言葉を箕鄭は丸呑みしながら、口を開く。
「さようです。趙孟はどうも我らの誰かを疑っているのではないか、と。あのものは片っ端から殺す恐ろしい正卿です。あのようなものが正卿であることは、我が国にとって災いではなかろうか。いま、政堂は四人。趙孟以外三人が立ち上がれば、正卿を辞めさせることもできる。その協力をお願いしたいのです」
箕鄭は、横に座った郤缺の笑みを信じ、縋るように言った。実際、趙盾は躊躇せずに殺す。もしくは、殺させる。それを災いと称すはわからぬでもない。が、箕鄭にそれを言う資格があるかどうか。郤缺は応じることも暗殺の共謀も指摘せず、別の話を始めた。
「実のところ、箕子に申し上げたいことがございました。かつて文公に飢饉の議を問われ、必要なものは信とお答えになったとか。確かに信は国の礎のひとつ、あなたは誠実なことをおっしゃると思いました」
箕鄭にとって極めて大切な過去を出され、彼は頬を染めた。若いころはその話でもてはやされていたが、今は遠い昔、口に出すものはほぼいない。郤缺は己に心を許し、そのような話をしたいのだと、気が楽になる。
「ええ、そうです。まさに信は政治の根本のひとつ。民は信無くば我らを頼りに生きていくこともできぬ。あらゆるまつりごとの基礎です。が、趙孟にはそれがわかっておられ――」
「しかし、飢饉の議には全くお役に立っておられなかった。私はずっと、あなたは問われたことが分からず、己の都合のよい解をぺらぺらとお話になられる方だと申し上げたかった」
ひゅ、と箕鄭の喉がなった。これで冷えた顔を向けられれば、敵意が生じたであろう。が、郤缺はふわりと柔らかい笑みで、優しい声音で言うのである。そこから、ほじくり返すように、あれもこれもと言う。欒枝の前でいかに箕鄭が役に立たなかったかと、念入りに軽い口調で言い続ける。箕鄭は飛び降りてしまいたい、とも思ったが、己の馬車は先に返してしまっていた。必死に唇を噛みしめ、ぷつりと血が出る。
「箕子。唇を噛み傷つけてはならぬよ。まだ寒い時期です、荒れて腫れては大事になりかねぬ」
気遣わしげに郤缺が覗きこんできた。
「私に声をかけたは、乱の共謀をするためであろう。しかし、私はもうそのようなことはせぬ。あなたは若かったから覚えておらぬかもしれぬが、郤氏こそが晋に厄災をもたらしたひとつだ。私はその中にいて、文公を
郤缺は全て言い終わると、安んじるような笑みに戻り、元の位置に座った。そのまま御者に行き先を差配する。箕鄭は腰が抜けたように座り込んだ。今さらながら、この男が郤氏の嗣子として恵公の粛正政治を支え、戦であれば
箕鄭が己の邸でない場所、と気づいたのは馬車が止まってからである。通用門があけられ、都から放り出される。
「お逃げになるなら、そのまま。戻られるならお覚悟を」
亡命か起死回生かを並べ、郤缺はそのまま去った。箕鄭は虚空に向かって叫んだ後、門をくぐって己の邸へと駈けた。この屈辱を抱えて亡命などできぬ。こうなれば、大夫たちを煽り、みなで押しかけ趙盾を
もし、箕鄭が亡命するなら、彼は安泰であろう。しかし戻れば
「趙孟。あなたが追い詰めると、ああいった小知恵の回るものは何を巻き込むかわからぬ。ゆえ、私が手を回したのだ。情は疎いくせに理は
自嘲を込めてひとり呟くと、郤缺はさらにため息をついた。人を故意に傷つけるという行為は、己も傷つけることとなる。この年でしょうもないことをしている、と馬鹿馬鹿しくなり眉の間を指でぐりぐりと揉んだ。
箕鄭はもはや怨念じみた妄執を抱え、大夫や士大夫を訪ねた。恵公、文公と続く晋の中で、寄る辺なかった氏族たちである。が、彼らは箕鄭の誘いを断った。全員が全員、話は聞くが、断り、
「もしご相談されるなら、郤主にされればよい。彼のものは敬に篤く、寄り添って労ってくれる。まつりごとでお悩みならなおさら。あなたと同じ卿ではないか」
と、諭してきた。箕鄭は、腹の奥がずり落ち、冷たくなる心地であった。以前より氏族の反応は低かった。それは、長い乱のために腰が引けているのだと思い込んでいた。しかし、そうではなかった。とっくに他者が掌握していたのである。そして、箕鄭はその、氏族をやんわりと握っている郤缺に謀議を持ち込み、思いきり拒絶されたのだ。
「そ、そうだ。あの男は趙孟を批判したが、無事ではないか。あの男の議はよく考えれば通っている、否、趙孟の議をあの男が通している……」
郤缺と趙盾はグルだったのだ、と気づいたがもう遅い。箕鄭は邸に半ば軟禁していた蒯得を連れ、己の領地に駆け込んだ。ここで兵を募り、武を見せ、脅すしかない。箕鄭はもはや、冷静な判断を失っていた。郤缺がそうしたのであるから、彼を愚人と笑うのは少々酷であろう。士縠は箕鄭を
さて、史書には、先克は正月
箕鄭は事態がわかっていない蒯得と共に、自領にて兵を募ろうとしたのは前述した。が、軍備を整える前に邑は囲まれた。趙盾の差配で、上軍の佐である荀林父と、下軍の将である郤缺がいち早く鎮圧に来たのである。趙盾は後ろで騒がれると困るという理由で、投降を呼びかけるよう指示してきた。荀林父が必死に書を何度も送ったが、箕鄭はかたくなに拒絶した。
一ヶ月が過ぎると、邑は飢え始めた。集めた兵は怨嗟の声を上げ、蒯得は箕鄭にどうするのだと毎日叫ぶ。それを、
「お前がややこしくさせたのだ!」
と箕鄭が八つ当たりに怒鳴ることも多かった。むろん、もう少しでなんとかなる、と言うことも多かった。箕鄭は士縠に使者を送り、助けを請うていたのだ。
士縠は無理だ、と何度も返した。士氏の邸は囲まれておらず、弟に倣って亡命するはたやすい。が、士縠はそれを選べなかった。幼少のころから、晋の士氏を継げと育てられたのである。士蔿の法を守れ、祖父の栄光を再び掴め。その呪いの中で育っていた士縠は、晋を捨てることなどできなかった。それは己を捨てることと等しかった。
優先事項が変わったのであろう。趙盾から
「箕鄭と蒯得を都にお連れするように」
という使者が届いた。郤缺は兵を進め、進撃の太鼓を叩いたあと、大音声で挨拶を述べた。
「長き対陣であったが、ご挨拶しておらぬ無礼、今ここに謝罪いたしまする。私め
言い終わると、兵に命じて雄叫びを上げさせる。荀林父の上軍が後ろに陣取り静かに見守っていた。
門が開き、何度も殴られ打ち据えられたらしい箕鄭と蒯得が引きずるように連れて来られた。郤缺は単身戦車を進め、受け取る。
「我らは子を取りかえて食いたくはない。そのかたは確かに我が主であったが、民の味方ではない、信なき主は我らを見ぬ」
痛烈すぎる皮肉を浴び、箕鄭は唇を噛みしめた。もう寒くはないため、酷い腫れはせぬが、しかし痛かろうし血は流れるであろう。郤缺は少々悲しい目を向けた。欒枝と共に見た、気が上がった箕鄭は、しかしやる気に満ちあふれては、いた。彼はいつ、己の信を見失ったのであろうか。そして、郤缺がこうならない、という保障は無かった。
軍が絳に戻り、箕鄭と蒯得が引き渡されたと同時に、士縠は捕縛された。彼はおとなしく掴まり、ただ家の祀りだけは残して欲しいと訴えた。みなが見守る朝廷で、士氏の長は丁寧に儀礼美しく、ぬかずき、懇願する。
「では、私が責任をもって、士氏を保障しましょう。あなたの財は絶対に流れませぬ。公室にも戻しませぬ。あなたの子が成人したあかつきには、そっくりお渡ししましょう。これは晋の名誉と正卿としての義務、そして趙氏の長の矜持を以て、宮城の樹に誓います」
趙盾がまっすぐと士縠を見て、宣言した。彼が言えば、絶対である。宮城の樹とは、晋を祀る中央の大木である。それに誓ったと衆人の前で言ったのだ。違えれば、名誉は失墜し、趙氏の終わり悪く、祀りも途絶えるほどの発言であった。士縠は、ふっと安心した顔をした。
そうして三人は殺され、市にさらされた。結託し、乱を起こした罪であった。
全てを終え、政堂に向かう趙盾の背中は、嬉しそうであった。足取りは常のようにしずしずとしており、表情は相変わらず平坦で薄い。しかし、心底嬉しいのであろう。
趙盾は、数年をかけたが、役立たずを合法的に一掃できたのである。そして、士縠の死により、法制を握った。君公は幼く、君命と称するのは趙盾の差配である。そして、本日堂々と処刑をした。彼の手には、現代で言うところの、人事、立法、行政、司法、軍権が握られることになった。いまだ四十にならぬこの男は、大国の独裁者となったのだ。
彼に私欲は無い。ただ晋のために務めるのみである。が、私欲以上にやっかいな欲を持っていた。国を動かすため
まさに、ようやく、始まりの日となった。ゆえに、趙盾は喜んでいる。
郤缺は、少しは隠しなさいな、と苦笑した。
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