第47話 今こそ自ら戒められよ

 郤缺げきけつが向かうは大国せいの圧迫を受け続けている。前も記したが、祖は周公旦しゅうこうたんと言われ、周王朝を開いた武王の弟であり終生周を支え続けたという。孔子こうしが理想の治世者の一人とあげている。儒学じゅがくは細かいことを外してしまえば、理想の臣になることを目指す学問であるため、周の文王や武王ではなく補佐である周公旦を尊ぶのは当然であろう。

 その魯は、春秋初期は威勢があったが、斉に押され凋落し、しんからの圧迫も受ける小国のひとつとなった。が、さすが周公旦の末裔らしく、礼儀にはうるさい。春秋左氏伝は魯の国史を元にしているために、そのうるささが浮き彫りになり、また、当時の権力者が何を大切にしていたかわかる。

 郤缺という、敬に篤く儀礼の良さで登用された男が魯に向かうのはうってつけと言えた。儀礼に関して趙盾ちょうとんは完璧であるが圧が強すぎ、荀林父じゅんりんぽは威が足りぬ。やはり、趙盾は道具の目利きに関して一流であった。

 さて、多くの国がそうであるように、魯の政治も公族から分かれた一族が取り仕切っている。晋が異端なのだ。郤缺とやりとりをしている公子すいは、現魯公であるきょうの叔父である。また、この時期の魯はこの公子遂と四代前に桓公から分かれた叔孫しゅくそん氏が多く頻出し、少なくともこの二家がまわしていたと思われる。ちなみに魯の代表的な大臣の家系は桓公から分かれた孟孫もうそん氏、叔孫しゅくそん氏、季孫きそん氏である。郤缺を承筺しょうきょうで迎えたのは叔孫氏の一人、叔仲彭生しゅくちゅうほうせいであった。公子遂はそうを担当している。

 ――といえば、公子遂が郤缺と叔仲彭生の会談を用立て、本人は宋に行ってしまっている、と見えるであろう。が、承筺は宋の地なのである。つまり公子遂は同席していた可能性が極めて高く、そして宋人も秘密裏に同席していたと考えても良い。宋は楚に屈服はしたが侵攻は止めた。外面は楚に寄せているようで、やはり晋に心を残している。そもそも宋は東国では珍しく簡単に鞍替えしないお国柄で、良く言えば律儀、悪く言えば頑固である。これ以上は余談になるので簡単に説明するが、宋は周が滅ぼしたしょうの遺臣であった。商の都がいんであるため、そちらの名称が有名であろう。敗残の民族が恭順さを示すため、一途になるのはよくあることである。とにかく、表向きは魯の叔孫氏と、蓋をあければ魯と宋とで、郤缺は対楚戦略を話すということであった。

 晋の文化より洗練された邸にて、静かに会談は始まった。

襄仲じょうちゅうには席を設けていただき感謝に堪えません。晋といたしましてはていちんを楚のくびきからお助けしたい所存。陳のかたと少々書を交わすことができましたが、楚子そしが御遠慮されているとのこと。そちらには如何」

 襄仲とは公子遂のあざなである。郤缺は丁寧な儀礼のあと、柔和な笑顔で宋人に問うた。史書には郤缺が宋にて叔仲彭生と会談した、としか無いため、この宋人が誰なのかはわからない。が、有力な臣の一人であろう。

「我が国に攻め立ててきた楚に勢いはございました。宋といたしましては戦いになれば負け損害が大きいと不戦にて屈した次第、面目なくあなたさまには弁解しようもございません。その後、楚からさらなる要求があるかと思いましたが、ございません。しかし我らもそれならと知らぬと申せぬ立場、楚子にお伺いをたてるべく、まず臣の方にお話通しましたところ、楚子は少々お元気がない、と。――太子への差配をお考えで」

 宋人が、最後に声を潜めた。楚王商臣しょうしんは、不予、つまりはなんらかの疾病で動けぬ、ということであり、さらには死したあとを太子に任せる動きをしているということでもある。父を弑し、気力あふれ野心そのままに北上していた王は、在位十年ほどでその歩みを止めようとしていた。

「……みなさまに伺う。我が晋に入った情報では、令尹れいいん大孫伯だいそうはくに小国を伐たせたと入りました。宋への遠征のあと、楚子みずから征伐に乗り出した戦はございましたでしょうか」

 令尹とは宰相のことである。ともあれ、魯の公子遂が首を横に振る。彼も外から様々な情報を仕入れている。特に小国は情報に敏感である。

「ございませぬ。全て、臣のかたがた。郤主げきしゅのおっしゃる方もそうですし、楚子の信頼篤き潘子はんしも動いておりましたが、楚子は春に動いておりませぬ」

 郤缺は、皆を見回す。部屋の中は魯特有の蒸し暑さであった。魯の夏も雨期である、雨が近いのやもしれぬ。額から流れる汗を、手持ちの布で丁寧に拭い、息をつく。

「……楚はたとえ策を臣が立てたとしても楚子自ら出陣されるお国柄です。楚子は物理的に動けぬかもしれませぬ。が、思い込みは禁物です。私としては、布石を打ちたい。どなたか、楚の周辺にございます小さき国とのつるはござりますか」

 郤缺の言葉に、宋人と叔仲彭生が頷いた。叔仲彭生は陳を通して、宋人は、直接、南方の国と少々の繋がりがあった。楚の傘下ではあるが、それぞれ独立国であり、やはり圧迫に苦しんでいる。

「我が晋は中原の覇者であり、南方とは関わりなく、また支えることもできませぬ。が、彼の国々に、楚子が少々ご気分優れず、北方にもお越しにならぬむね、お伝えいただけませぬか。できうるかぎり、多く」

「私自身には、たいして交友はございませぬが、昵懇にしている陳人であれば、広い交友もございましょう、彼の国は楚に極めて近い。また、陳人も楚子のご様子をお知りになりたいはず。晋や郤主のお名前をお出しすることかないませんが、この恵伯けいはくとして陳人にお願いすることになりますが、よろしいか」

 叔仲彭生、あざなは恵伯が郤缺の言葉を受けて言う。つまり、晋の名は出さず、陳を通すため南方の小国には魯の名も届かず、である。宋人も、楚王を心配しているというむねで、小国に情報をばらまくことを提示する。郤缺は、うやうやしく拝礼し、よろしく願う、と返した。

 つまりは、こうである。春に楚が足元の小国を伐ったのはたまたまの話であろう。それを郤缺の差配で小国を蜂起させ、さらに足元を叩かせる、ということである。ゆえに、どの小国でもよく、話が広がれば当たりが出やすい。南方は周とは違う文化圏であり、楚という強い王権国家が中心となっている。黄河と長江に挟まれ、晋よりはよほど土地がよく生きるに困らぬに違いないが、北上し、中原への侵攻をくり返す。様々な理由があろうが、周王朝で言う文明人が広く育っていなかった可能性もある。実際、名を残したものどもは王族から分かれた一族が多い。土地だけでなく人材や技術を求めるのであれば頷ける。その楚につき合わされる小国に不満が無いわけがない。郤缺は彼らが身の程知らずにも魔が差すよう、誘導するのであるが、その後、その小国がどうなるかなど、この場にいるもの全員にとって知ったことではなかった。

 楚への対策の他には、楚に身を寄せた国の問題である。が、宋に関しては、共に会談しているのである。議にあげる必要もない。陳に関しては、郤缺から一度ゆさぶりをかけ、そして叔仲彭生がさらに押す。彼の国は楚の圧力が弱まれば、晋への色気を出すようになるであろう。問題は、である。

「鄭にはいかがなされるのか」

 公子遂が郤缺に問うた。郤缺は少し考え込む。個人的意見としては、鄭と渡りをつけておきたい。が、鄭は趙盾の恫喝や衛への土地返上で晋に対してかたくなになっている可能性が高い。楚へさっさとくだったのも、武力侵攻に負けたためであるが、晋への冷えもあるであろう。趙盾は手の内に入ってくるものには優しいが、去っていくものには冷たさを通り越して冷酷である。その趙盾と歩調を合わせねば、鄭問題どころか、郤缺と趙盾の間に亀裂が入る。

「……鄭に関して、晋としては捨て置く。陳は楚に最も近く極めて小国であり、我が晋との交誼が途切れがちになるのも致し方ない。しかし鄭は周都とも接し、みなさまがたとも仲良きすべき地勢。で、あるのに彼の国は、我が晋と楚を常に天秤にかけておられる。私どもは笑みを向けてくださるかたとお話するは至上の喜びとすれど、背を向けられるかたを引き留めるほど、無粋ではございませぬ。今、ここにおられるみなさまがたとは共に笑顔でお話を続けたいものです」

 郤缺はまず問うてきた公子遂に敬愛溢れる笑顔を向け、他のものにも優しく微笑んだ。みな、ひきつった笑みで返す。鄭が晋にすがりついて泣くまで許さぬという答えと共に、背を向ければ何をされても文句は言うな、という恫喝である。以前、魯に乗り込んできた趙盾は圧が強く、恫喝を隠そうとしない正卿であった。晋という国そのものだ、と公子遂は辟易したものである。変わって、会談にやってきたのは郤缺である。書を交わした時も、晋人としての態度はあるものの、柔らかくほぐしてくるような文面であった。儀礼も美しく、そして魯や宋をいたわり、挨拶でも各人の長所を見て言祝ぐ。徳という意味であれば趙盾よりよほど多い、と安心したものであった。が、やはり晋という非情で非道の大国の臣であった。物腰が柔らかい分、恐ろしさが増す。

 郤缺は、うっかり強い恫喝をしてしまったことに気づいた。晋の国内だけで動いていると、加減がわからなくなるというものだ、と苦笑する。改めて、うやうやしい態度で口を開く。

「私どもは、覇者としての責を果たすべく、常にあなたがたに心を配る所存でございます。ゆえ、我らが覇者として恥ずかしいことをしておりましたら、遠慮無くおっしゃってください。上に立つものこそ戒めが必要、みなさまの諫めは国の宝である玉璧に同じ。もし、正卿に直接おっしゃるのがご面倒であれば、私に直接申しつけてくださればよろしい。ご便宜おはかりします」

「そ、それは……わたくしどもとしても郤主に御礼せねばなりませぬな」

 叔仲彭生が少々枯れた声で言った。郤缺はすぐに気づき、いえ、と手で制す。

「何も、私にはいりませぬ。お礼などけっこう。あなた方の諫めそのものが私の喜びとするところです。くれぐれも、お気を使わないでください。いえ……ご無礼つかまつる。はっきり申し上げるが私は賄賂はいらぬ。そして、趙孟にもそのような色気を出してはいけませぬ。我が晋の正卿である趙氏の長は極めて潔癖です。他の六卿でそのようなことを申したものがおりましたら、直ちに私へご報告願います。かたづけますゆえ」

 郤缺ははっきりと線を引いた。東国は楚の圧迫と共に賄賂になれている。否、この時代、便宜を通すのに賄賂は珍しくもない。実際、晋は拡張時に賄賂を使い懐柔し、滅ぼすという極悪非道までしている。しかし、今、幼君を奉る晋で賄賂外交などをすれば、一気に覇者から転落する。そして、趙盾はよほど必要でないかぎり、賄賂という理屈にあわぬものを受け入れる気はない。彼は潔癖だから賄賂を憎んでいるわけではなく、この感情に満ちた仕組みが理解できず、疎んでいる。ゆえに、先手をとって、郤缺は晋にはいらぬ、と宣言した。

 小国代表たちは、一瞬あっけにとられたあと、すっと力を抜き安堵の顔をした。恫喝を見せた郤缺は、しかし清廉な男であると思ったのであろう。その後、郤缺は敬に満ちた笑みと言葉で、三人の代表たちとなごやかに、東国の話をした。重要なことは終えており、後は各国の、わかりきった確認である。

「さて……これは楚との話から外れますゆえ、会談の議とはずれますが」

 ある程度、空気がくだけたあたりで、郤缺はすっと声を落としながら言葉を紡ぐ。柔らかい笑みはそのままであり、少々深くなった声音に気付いたものがいたかどうか。

「我が国はてきの情報が少々多く入ります。それによると、春から狄の動きが活発とのこと。白狄はくてきであれば、基本的に晋としんの話になりますが、今回は赤狄せきてきです」

 叔仲彭生と公子遂が息を飲んだ。白狄は晋と秦に面する一族であるが、赤狄は晋から東側、衛や斉を接して遊牧し荒らし回っている。赤狄が活発になれば、斉に接した別の狄が暴れだし、そうなると斉を乗り越え魯に攻めてくることも多い。

「こちらでは狄のお噂はござりませんでした。ご忠告感謝を」

 叔仲彭生が丁寧に拝礼する。郤缺は合わせて丁寧に返礼した。

「いえ、杞憂であればよろしいが、しかし備えるにこしたことはないでしょう。ただ赤狄に押し出され動くようであれば、それは小国に等しい格の狄が南下いたします。ご注意を」

 荀林父の情報は有益であった。郤缺の言葉に、魯はいっきに晋へ傾いたようである。狄は中原国家全域の問題である。特に赤狄は強い上に活動範囲が中心に近い。結局、赤狄ではないが、大型部族の狄が斉を侵し、秋の終わりに魯へ攻め込んできた。魯は備えもあり気も座っていたためか、冬の十月にかけて戦い、部族の長を討ち取っている。その後の、勝利の儀式はおもしろいことに宋の前例に則って行われている。

 宋はいまだ、表向きには楚の傘下ではある。が、狄が攻め込んでくる前の、秋に公子遂が取り持ち、魯に亡命していた宋の臣を祖国に帰している。この臣が魯に亡命した理由は宋のお家騒動に関わり、話が煩雑になるため省くが、彼自身に罪はなく、いわばけじめのために亡命していた。この時、公子遂は宋に対して、楚軍の侵攻を無事にきりぬけたことを言祝ことほぎしている。

 史書では、夏に郤缺が宋の地で叔仲彭生と会談したことと、秋に公子遂が亡命者を返し宋に言祝ぎしたことくらいしか記載は無い。が、この宋という国の符号がおもしろく、筆者は三国会談だったのではないかと、記述した。

 この年、楚はこれ以上動くことなく終わった。むろん、秦も動いていない。翌年、楚の足元で小国のじょが叛いた。舒は属国含め叛いたため、かなり本格的な反乱であったらしい。楚は夏に抑えた上で、最後にそうを包囲している。巣は舒の属国であるが、わざわざ記載するということは、やはり時間と手間がかかったのであろう。

「率爾ながらご報告いたします。楚子は今年も臣をつかわしお足元を気にされたよし、お時間をかけて舒とその群を伐ったとのことです。楚子のお加減すぐれないのではないかと、東国のみなさまにお伺いしておりまして、東国のかたがたも南のかたに伺うとのことですのでお時間はかかっております。ただ、今年いっぱい、楚子は動かず、そうなれば東国にお邪魔することもございますまい」

 秋の初め、朝政にて郤缺はいけしゃあしゃあと言った。この場にいるけい欒盾らんとんにいたるまで、郤缺が種をばらまいたことを知っている。ただ、郤缺としても趙盾としても、もう少し踊るものがいるかと思っていたため、少々落胆はしていた。当たったが、大当たりというわけでもなかった、という無い物ねだりではある。

 趙盾が頷き、荀林父に秦は、と聞く。夏に来られませんでしたね、とだけ荀林父は返した。狄の動きもなく、秦は今年も足踏みであろう。

「恐れ入ります、正卿せいけい。その秦の件です」

 郤缺が、議を出した。郤缺も今年は秦が動かぬと思っている。が、魯の公子遂から情報が届いたのである。趙盾が、お言葉お願いします、と促す。

「魯の襄仲からご連絡ございました。秦公が宿将である西乞子せいこつしをつかわし、魯に玉璧をお贈りすると来られたよし。公子遂は断り言い含め、逆にお土産をお渡ししてお帰り願ったとのことです。が、そのご用が、我が晋を伐つための挨拶、であると」

 公子遂は晋に恩を売るために書を送ってきたわけであるが、秦のあまりの田舎くささに失笑しその部分までを微に入り細に入りしたためてきた。その田舎くささを笑いたいのはわかったが、結局いつごろ伐つ気なのか、などはさっぱりわからなかった。

「末席からおそれいります。秦は今まで、我が国への侵攻に挨拶まわりなどされぬ鄙びたお国柄です。それをわざわざ、しかも格式高い魯に伝え贈り物をするとは、儀礼に則って我が国と戦うということをお示しになられたのでしょうか」

 下軍の佐、胥甲しょこうが発言した。父の胥臣しょしんが儀に篤い人間だったせいか、その部分が強く出ているようであった。ここで、魯に通じようとしているか、とならないところに甘さが見える。郤缺が口を開こうとすると

胥子しょしの発言わからぬでもないが、周都にはご挨拶されていない様子。おおよそご挨拶であれば、周王さまにも贈り物を納めるべきである。ゆえ、この場合は儀礼に則ったふりをして魯に賄賂を送り、秦へ身をよせるよう小細工したのではないかと、私は思う」

 趙盾が一刀両断に胥甲の意見をぶった切った。正卿がそれをしてしまうと、他のものは何も言えず、発言者も傷つく。しばらく郤缺や荀林父がなるべく口を開き、趙盾の発言を柔らかくしようと努めていたが、本人が気づいておらねばどうしようもない。また、趙盾自身が意見を折られても、相手が正しければ気にしない人間なので、胥甲の矜持を傷つけたことに気づいていないであろう。郤缺は久しぶりに頭を抱えたくなった。

「儀礼であるか、賄賂なのかはわかりませぬ。ただ、どちらにせよ、今年の夏は来なかったのです。来年に備え、我らも情報を集めましょう」

 荀林父が胥甲を労るような声音で、発言した。胥甲は気が落ち着いたようで、少し丸まった背中が再び伸びる。我の強さは姿勢にも表れる。彼はやはり儀に拘り、そして少々振り回されているようであった。

「おそれいります。私のほうで、みなさまがわかっていることがわからず、伺いたい」

 欒盾が、丁寧な拝礼をしながら、言った。この男は政治がわからぬことを己でよく知っている。ゆえに、朝政で置いて行かれることも極めて多い。今回もそうであった。が、ことは秦との戦争に繋がる。卿の一人として、知らねばならぬ。趙盾はもちろん、促した。

「私はまつりごとに疎く、外交も軍事もいまいちわかりませぬ。ゆえ、みなさまはわかってらっしゃるかと思うのですが、この非才にお教えください。なぜ、秦は夏にだけ戦に来られるのでしょう」

 それは、と郤缺は口を開こうとして、止まった。腹の底が冷たくなる心地であった。荀林父が己の口を手で押さえ、蒼白になっている。趙盾も、息が詰まったような顔をしていた。

「……確かに」

 胥甲が感心した口調で呟く。欒盾はどうしてですか、と無邪気に胥甲へ問うていた。が、上席三人はそれどころではない。

 郤缺や荀林父はもちろん、趙盾でさえ、秦は夏に来る、という固定概念の中に浸かっていたことに気づいたのである。この議に臾駢ゆべんがいれば、指摘したかもしれぬが、戦争に関わらない限り、臾駢はもはや参内していない。彼はあくまでも、ちょう氏傘下の野戦指揮官兼参謀長である。

「……いや。しかし、魯に話を通したがため、我らは知ることができた。今年に来るとしても、備えることができるであろう」

 趙盾が薄い表情に戻って言った。あまりにも平凡な言葉である。己の失態に驚いていることもあるだろうが、まず彼は武に疎い。わざわざ、魯を通して宣戦布告をする意味がわかっていないのだ。郤缺は、久しぶりに笑顔を止めて、口を開いた。

「いいえ。彼らは我らを伐つとわざわざ魯に挨拶をした。我らと魯が繋がっていることなど知っていて、そのようなことをしたのは、知らしめるため。秦は晋のどこを取るかなど漏らしておりません。そして、荀伯のおっしゃるとおり、狄の動きは穏やか。つまり、我らはまだ、秦がいつ、どこから来るかわからぬ。常のように河南にくるのか、いや河西からくるか。それとも、河曲か」

 郤缺の言葉に荀林父の動きが止まった。彼は今、狄の情報、邑の情報で漏れが無かったのか思いだしているのであろう。蒼白なのは相変わらずである。上席三人の異様さに、下席二人も飲まれた。

 その後、ただちに臾駢を呼び、荀林父が集めた情報などを手当たり次第広げ、秦の動向が読めないかと頭をつきあわせたが、現時点では何もわからぬ。秋のすぐに来るのか、冬に来るのか、年明け春に来るのか。本来、敵国はいつ来るかもわからず、どこを攻めるかもわからぬ。が、晋は秦を侮り、操っている気になっていたのである。

「出方を見るしかございませんが、秦は持久力がございません。戦場がわかれば、我らはまもりを固め持久戦に持ち込み、疲れたところを伐つ。その策を基本にするがよいかと思います」

 臾駢が重い口調で言った。彼にしても悔しさがある。己が軽輩すぎて、議に絡めぬ。ゆえに、本職の戦争に関する情報を見落としていた可能性が高い。

「……わざわざ、魯で派手な行いをしてまで、我が晋を伐つと言ったのです。用心にこしたことはございません。いつでも軍を出せるよう、大夫たちに発布できるよう備えましょう。もし、いつものような場所を軽く取りに来られたとしても、我々に損はございませんゆえ」

 まだ蒼白な荀林父が必死に笑みを見せた。さらに情報を集めていくのであろう。趙盾は珍しく大きくため息をついている。郤缺は自分が慢心していたと、己で殴りたい思いである。己も、趙盾も、荀林父もどこか慢心していたのであろう。秦が、常のようにのんびり夏に来たとしても、この悔いは残る。

 ――今こそみずから戒められよ。賢人は寵を得たときにこそさらに戒められる。不徳のものは寵を得たときに傲ります。

 いつか郤缺が趙盾に贈った言葉である。上に立てば戒めよ、とどの面下げて言うか、と郤缺は臍を噛んだ。

 さて、そのころの秦である。魯にわざわざ晋攻めを言いふらしに行く、ということに反対のものもいた。が、

「覇者を討ち倒すのです。王道を進まずにしていかがなされます。そして、魯は晋に知らせ、晋は今、いつどこか、と神経をすり減らしております。晋はこれで先手をとれなくなりました」

 と言われれば、黙るしかなかった。常に秦は晋に先手をとられ、してやられている。それを覆す、とはっきり言われたのである。覆すかもしれない、ではなく、覆す、である。

「冬に戦い、我らが勝つ。なのだな、かい

 秦公おうが、無邪気な笑みを向けた。青年君主の胸はすでに喜びに満ちている。今まで、ここまで理路整然な策を考えたものなどいなかったのだ。

「お声かけいただき、恐悦至極でございます。もちろんです、君公くんこう。晋をくだし、我が秦に念願の地を、この会が謹んでさしあげるべく、貴き任を務めましょう」

 士会しかいが闊達に、しかし目の奥に禽獣を宿しながら、ぬかずいた。

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