第172話 未知

 知っているはずがなかった。誰も知らないこの痛みは、誰かに与えてはいけない。そう思って僕は走った。あの強大な存在の前に、再び立つために。足が確かに震えているのが分かった。それでも止まれない。僕は走った。


 どうにも、涙が乾かなかった。老紳士は無事なのだろうか?知らない誰かは傷つけられていないだろうか?考えるたびに、また一つ頬を何かが通り過ぎていった。それをがむしゃらに手の甲で拭いつつも、僕は止まらなかった。


「誰も生かす。」僕は『三心波』を僕自身に掛けた。一度、二度、三度……頭の中で描かれたいたはずの川は、いつの間にか流れ続ける星になっていた。絶えることなく、瞬きの間すら硬直しないその流れは、僕が生きていることを証明した。


 世界は、僕であった。けれど、僕は世界ではない。僕の生きている僕の世界は、それ以外の人間の生きている世界とは、まったくの別物だったのだ。息が切れることも、空が青いことも忘れて、僕は進んだ。

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