唐突なる来客
「皆、長い連休が終わったけれど、元気な顔を見せてくれて嬉しいわ」
小学校か中学校の若教師のような言葉を放ちつつ微笑むのは、我らが雉鶏精一派の第二幹部・紅藤である。彼女は相変わらず白衣を着こんだ状態で源吾郎たちに向き合っていたが、前とは別の白衣を身に着けているらしい。光の加減で見え隠れする紋様が、見知った物とは違うからだ。
わずかばかり混沌度合いがマシになった研究事務所の中で行われているのは所謂ミーティングという物だった。源吾郎は就職して一か月強であるが、かなり年長の兄姉がいたためミーティングの存在は知っていた。中学や高校で行われるホームルームみたいなものだと彼は解釈していたのだ。
もっとも、今源吾郎が直面しているミーティングは、ホームルームのそれとは大分異なる様相を見せていた。まず人数が圧倒的に少ない。それに進行役と聴衆との温度差というか、視えない壁のようなものが無いのも特徴的だ。要するに、教師が生徒らを睥睨するような気配は、ともすれば重苦しさと直結するような空気とは無縁だったのだ。
それもこれも、あるじたる紅藤の醸し出す雰囲気と、丸テーブルにさり気なく飾られた一輪挿しのお陰だろう。
琵琶湖でも瀬戸内海でも干上がらせる事が出来るとされる大妖怪の紅藤は、けだるそうな雰囲気をまといながら弟子たちに笑いかけているだけだった。
「まぁ、皆の生存確に……いえ出席も確認できましたし、今日はのんびりとやっちゃいましょう。いっつも働きづめだったら皆だってしんどいでしょうし」
「そうですね。仕事の立て込み具合も丁度良いですし、今日明日くらいはローペースでも大丈夫かと」
「わ、わたしは連休中にがっつり休んだから大丈夫ですよお師匠様! 今日から、もうガンガンに働いちゃいます!」
紅藤の全くもって気ままな発言に対する、それぞれの弟子たちの反応は皆一様に異なっていた。わざわざ返答したのは青松丸とサカイさんである。源吾郎は安堵しつつ紅藤を見つめるだけ。萩尾丸はむっつりと紅藤を見つめていたが、含みのある表情で咳払いした。
「それにしても紅藤様。没頭なさるときは我々が放っておけば寝落ちしてしまうほどだというのに、我々が集まった初日から、随分とのんびりとなさってますね。僕はまぁ、今日から他の弟子たちはさておきあなたはエンジンフル稼働だと思っていたので予想外です」
師範相手と言えどエッジの利いた萩尾丸の物言いに対して、紅藤はそっと微笑むだけだった。
「本来ならそうしようと私も思っていたのよ? だけど一昨日、昨日と私目当ての来客があって、こんな事を言っちゃあなんだけど、ペースが乱されちゃったのよね」
「僕以外の、八頭衆の幹部とかその部下たちと密談でもしていたのですか?」
「いいえ。私の個人的な知り合いよ」
そう、ですか……萩尾丸が引き下がる形で終息した一連のやり取りを、源吾郎は半ば瞠目しながら見つめていた。最後に言い放った紅藤の口調は、けだるげであったが追及を許さないような、有無を言わせぬ圧があった。日頃のんびりとした様子の彼女らしからぬ部分を見た気がして、源吾郎は少し戸惑いもしていた。
彼女らしいと言えば……源吾郎はここで紅藤の事に軽く思いを馳せてみた。そう言えば、俺は紅藤様の事をほとんど知らないかもしれない。当然の事なのか驚くべき事なのか判断しかねるが、ともあれそのような考えが脳裏をよぎる。紅藤は元々は胡喜媚に仕え、今でも胡喜媚の組織である雉鶏精一派に所属する。頭目である胡琉安とはある意味親子のような存在である事も知っている。だが――彼女が雉鶏精一派に入る前はどのような暮らしをしていたのか? 断片的な話を知っている程度で、全体的な事は全くもって知らなかった。
あれこれと考えを巡らせていた源吾郎は、ある事実に気付き脳天から尻尾の先まで電撃が走るような気持ちになった。源吾郎は紅藤の事を多くは知らない。しかし紅藤は、源吾郎の事を知り過ぎるほど知っているのだ。萩尾丸はああは言っていたものの、もしかしたら紅藤は連休中の出来事を掌握しているのではなかろうか。そしてそれをここで問いただしはしないだろうか……源吾郎は背を丸め、拳を膝の上で丸めつつ紅藤の挙動を見守った。
「まぁ、紅藤様にも僕らがあずかり知らぬような交流はあるでしょうね」
言ってから、萩尾丸は一輪挿しに視線を向けていた。
「それにしても、その小瓶、何処から見つけ出したんです? 僕の記憶が正しければ、あの時捕まったヘタレ野郎の胡張安が、身柄の代わりにと差し出した代物だったと思うんですが」
「ちょっと掃除していたら見つけたの」
何とも微妙なやり取りを前に、源吾郎はどう反応すれば良いのか解らなくなった。こっそりと先輩たちの様子を窺うが、朗らかに笑っていたり興味津々といった様子でやり取りを聞いたりしているだけで、特段参考になりそうにはない。
紅藤の視線も一輪挿しの小瓶に向けられている。何かを思案するような、そんな表情だった。
「そういえばそんな事もあったかもしれないわね。結構前の事だったから忘れちゃっていたわ。ああ、だけど胡張安様が大事にとっていた物だと思えば、それはそれで味があるわね」
「あいつが持っていたからと言って、値打も味もありゃあしないでしょうに」
萩尾丸は不機嫌そうに告げ、珍しく渋面を浮かべていた。紅藤が懐かしみ、萩尾丸が忌み嫌う胡張安というのが、胡喜媚の一人息子であるという事を源吾郎はぼんやりと思い出していた。雉鶏精一派の正式なる頭目だったにもかかわらず、彼はその地位を放棄して隠遁生活に徹しているという。安否はかれこれ二百年ばかり解らないが、今も生き続けているのならば、隠遁のスキルは相当高い事となるだろう。
「ともあれ、紅藤様はこんな感じだけど、僕らはちょっとずつ通常業務をこなそうじゃないか」
萩尾丸は爽やかな笑みを浮かべると青松丸を筆頭とした兄弟弟子に指示を出した。彼は洞察力の高そうな瞳で周囲を睥睨し、歌うように言葉を続ける。
「連休明けで紅藤様はお疲れだろうけれど、別に僕らはそれで心配する事は無いんじゃあないかな。急に変な妖怪が押し掛けるとか、自警団がやって来るとか、テロ組織が特攻を仕掛けるとかそんな事はめったにない事だと思わないかい?」
「は、はい」
萩尾丸の奇妙な問いに源吾郎は何故か声を出して応じていた。ぱらいその一件を言及されぬようにとのある種の自衛だったのかもしれない。
そう思っていると、丸テーブルのすぐ傍にある電話が鳴り始めた。電話番という概念が特にないらしく、センター長である紅藤が御自ら電話を取っている。
初めはにこやかだった紅藤の顔に、珍しく緊張の色が滲む。数十秒のやり取りののちに受話器は戻されたが、その時には紅藤は興奮で頬を火照らせていた。
「皆、王鳳来様がアポなしだけどお見えになったみたいなの」
王鳳来。紅藤が放ったその名を耳にした源吾郎も、ただただ驚いて目を丸くしたのだった。
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