第二幕:修行のはじまり

ようやく始まる妖術鍛錬

「島崎君。昼イチから妖術の鍛錬を行いましょ」


 白衣姿の紅藤は、機嫌よくそれこそ昼下がりのおやつの内容を語るような口調で源吾郎に言い放った。源吾郎は丁度その時消耗品のチップを小箱の隙間に一つずつ詰めていくという至極簡単な雑務をこなしている最中だった。源吾郎は小首を傾げてわずかに考えを巡らせた後、手を止めて紅藤の顔を見つめた。子供でも出来る作業の続行よりも、研究センター長の発言を優先したのだ。


「細々とした作業には慣れてきたみたいだから、今日からぼつぼつと新しい事をやってみようと思ったの。妖怪として暮らしていくには、妖術の使い方を習得するのは必須だもの」

「ええ、是非ともご教授ください」


 源吾郎は目を輝かせついで声も張り上げた。源吾郎自身も、妖術を学び妖怪としての技と術を習得する事を望んでいたのだ。

 齢十八にして既に中級妖怪に匹敵する妖力を持つ源吾郎の才覚は並大抵のものではない。しかしその一方で、同年代の凡狐よりもうんと多い妖力を、妖怪として扱う術をほとんど知らないのもまた事実だった。

 源吾郎は母や叔父や叔母から妖怪の生態やこまごまとした暮らしについては教えてもらっていたが、妖怪としての力を振るう事や他の妖怪と争い打ち負かす術については教えられなかった。親族の中で最も妖怪らしい振る舞いを行っていた苅藻だけは源吾郎に術を教えてくれたが、それも戦闘とは縁遠い類のものだった。

 余人よりも多くの妖力を持っているのにそれを行使できない。そんな日々からオサラバ出来るのだと思うと、源吾郎は心が弾むのを抑えきれなかった。ついでに言えば、紅藤やその弟子たちが、源吾郎の才覚に驚き称賛してくれるかもしれないという考えまであった。


「青松丸にお願いして、訓練用の衣装を用意しておいたわ。悪いけれどお昼休みの間に着替えておいてね。白衣はあくまでも研究室の為の衣装であり、闘うための衣装じゃあないもの」


 源吾郎は素直に頷き、おのれの衣装を見やった。研究室で作業中のため、源吾郎もまたカッターシャツとスラックスの上に裾の長い白衣を着こんでいる。白衣は薬品や溶剤やその他もろもろの脅威から身体と洋服を護る事に特化した衣装に過ぎない。裾も長くゆったりとした白衣は、言うまでもなく室内向けの衣装だ。

 伝えるべき事を伝えると、紅藤はそのまま源吾郎の許を離れ、研究事務所の中で渦巻く混沌へと戻っていった。まことに気ままそうに見えるその動きを、源吾郎はしばらく眺めていた。それから唐突に一人で噴き出し、たまたま傍にいたサカイ先輩を不思議がらせたりした。紅藤が雉妖怪である事を忘れて鳥のように奔放だと思い、その事に一人で勝手にウケていただけに過ぎない。


 妖怪の強さはその身に宿る妖力でおおよそ決まる。生体エネルギーに相当する妖力が多いほど、生命力が高くまた複雑な妖術を行使する事が可能であるからだ。妖怪の中には、身体能力の補強に妖力を充てたり、知能を向上させたりする者もいるのだという。

 人間界で用いる金銭と同じく、あればあるほどその妖怪が出来る事は増えていく。妖怪たちはだから、他の妖怪を捕食したり人間妖怪を問わず他者たちの感情を大きく揺さぶる振る舞いを行ったりパワースポットで修業をしたりと様々な方法でもって妖力を増やそうと画策するものである。

 しかしながら、妖力をふんだんに蓄えただけでは妖怪としての力を十全に発揮できるわけではない。どれだけ妖力を持っていても、それを効率的に用いる術、妖術やその上位互換である仙術などを知らなければどうにもならないのだ。

 そして、当の源吾郎は妖力をほどよく保有しているが妖術をほとんど教えられていない状態にあるという事だ。もし源吾郎が人間として生きる道を選んだ場合、下手に妖術を知っている事が平穏な暮らしへの妨げになるだろうと、母や叔父たちはそう考えていたのかもしれない。

 実際に、源吾郎よりもうんと人間に近い兄姉たちは、妖術を行使する能力を持たないが、特段問題なく人間として日々の生活を送っているらしい。彼らが生き方をしていると源吾郎は糾弾するつもりはない。ただ単に源吾郎は人間として安穏と暮らすのがと思っただけに過ぎない話だ。


「ああ……、めっちゃ広いですね」


 さて源吾郎は紅藤と青松丸に導かれて訓練場へと到着していた。三人とも白衣姿ではなくいわゆる訓練着に着替えていた。布地は安物のトレーナーに似ているが、着心地はむしろ体操着に似ていなくもない。

床も壁も打ちっぱなしのコンクリートのような灰白色で、数か所には申し訳程度に一畳分の大きさの姿見がはめ込まれている。

 殺風景な空間なので厳密な広さを確かめるのは難しい。しかし少なくとも上階の研究事務所よりは確実に広い。何となれば、先週胡琉安や幹部らと顔合わせをした会議室の二、三倍は広いかもしれない。

 そして驚嘆すべきは、この訓練場自体が地下にある事だろう。外部から見る限りでは研究センターは小ぢんまりとした二階建てに過ぎない。源吾郎自身は地階がある事を前もって聞かされてはいたが、ここまで大規模であるとは思わなかった。この部屋に至るまでの道中に見かけたネームプレートは地階が訓練室のみではない事を物語っていた。下手をすれば、上階よりも広いのかもしれない。


「元々はね、主だった研究はこの地下で行っていたの」


 源吾郎の言葉を聞いた紅藤が静かに応じた。過去を懐かしむようなニュアンスがその声に滲んでいる。


「私たちを、雉鶏精一派や胡喜媚様をよく思わない面々からの襲撃を少しでも防ぐために、この地階を用意したのよ。結界と対象を方向音痴にさせる術を仕掛けてセキュリティ面も完備した状態でね。歳月が流れてメンバーが増えるにつれて研究機材を地上階に持ち出したんだけど、ここのスペースは色々と便利だから残してあるの」

「ええ、そうでしたね紅藤様。僕が幼かったころは、紅藤様がここで研究に励み、峰白様が時々様子を見に来られていたのを今でも覚えていますよ。弟弟子の萩尾丸さんは、地階の部屋を嫌がっていましたけれど」


 源吾郎の茫洋とした視線に気づいたらしく、青松丸がちらと源吾郎を一瞥した。紅藤も遅れて愛弟子愛息子のそぶりに気付き、それらしく咳払いをした。


「それじゃあそろそろ鍛錬に入りましょうか」


 言うや否や、紅藤はパーカーのポケットに手を突っ込み、数枚の紙片を取り出した。漢字とひらがなと梵字を組み合わせたような紋様が記された、ある種の符であるらしかった。紅藤はそれを無造作な様子で投げ上げた。五、六枚ある符たちは重力を無視して舞い上がると、淡く輝きながら形を変えた。変化し壁に張り付いたそれは、直径六十センチ、厚みにして五センチ弱の円形の的であった。田舎の鳥除けのように黄色と黒の同心円状の模様まで再現されている。


「今日は妖術の行使の基礎として、自分の体内にある妖力の放出と、対象となる的への射撃を行いましょうか。妖力を弾状に放出するというのが、妖術の中では最も初歩的な技なのよね。妖力を外に出す感覚さえ覚えれば、もっと複雑な術を覚える事も夢じゃあないわ」


 的当ては簡単な術なのよ。紅藤は弾んだ声で言い添える。


「体内で廻っている妖力を手の上とかに集めて放出して、弾状に放出したのをボールを投げる要領で的にぶつけるって言う塩梅なのね」


 紅藤は少しの間源吾郎の様子を窺ってから、もう一度口を開いた。


「口で説明するだけじゃあ解り辛いと思うから、実際にやっている所を見てみましょうか……青松丸、お願いね」


 短い依頼を受け、傍らに立つ青松丸がゆらりと動いた。ゆったりとした足取りで動き、紅藤や源吾郎からわずかに距離を取っている。歩みを止めた青松丸は、手のひらを上にして右手を上げ、手のひらの先を注視し始めた。

 それを見つめながら、源吾郎は尻尾の毛先が逆立つような感覚を抱いていた。真剣な表情の青松丸の、彼の体内を巡る妖力を早くも察知していたのだ。祖母の白銀御前や萩尾丸などには及ばないが、下級妖怪や弱小妖怪の妖気でもない。温厚で内気そうな姿とは裏腹に、保有する妖力は多そうだと源吾郎は感じていた。

 そう思っている間に、青松丸の手のひらの上には妖気の塊が出現した。テニスボール大の、水色に輝く丸い塊である。表面はかすかに揺らめいて色調を変え、小さな焔である事を示していた。

 青松丸はこの青い焔を手のひらの上で二、三回バウンドさせるとやにわにこれを放り投げた。直線軌道を描きつつそれは的にぶつかり、乾いた音を響かせながら霧散した。青い焔の襲撃を受けた的は、中央の「黒目」の部分にはっきりと円い穴が開いていた。

 的への着弾を見届けていた紅藤が両手を胸の前で組み合わせ、短い言葉を放った。すると今度は壁に固定されていたらしい的たちがゆっくりと不規則に動き出した。青松丸は先程と同じように手のひらの上に焔の弾を作り出し、放り出した。源吾郎の眼には無造作に投げ出したようにしか見えなかった。しかし的以上に奇妙な動きを見せていたはずの焔の弾は、的の一つ――それも先程と同じ中央部分だ――をあやまたず貫いたのだった。


「……と、まぁこんな感じかな」

「それじゃ、今度は島崎君の番ね」


 紅藤の合図を聞いた源吾郎は、頬を叩いて表情を引き締め、険しい目つきでもって的を眺めた。相手が的で鍛錬であると言えども、意識して何かに攻撃を当てるために妖術を用いるのは、源吾郎にとって初めての経験だった。師範や兄弟子の前で上手く出来るだろうか。そのような不安もあるにはあった。しかし青松丸がさも簡単そうに妖術を行使しているのを目の当たりにしたばかりだったから、自分も見事にやってのけれるだろうという気持ちの方が強かった。

 源吾郎はひとまず背後の四尾を放射線状に広げた。少し意識を集中させると、妖力が血潮のごとく尻尾の中を駆け巡っているのを感じる事が出来た。


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