マムシボールと師範の噂

 目覚めかけた源吾郎がまず気付いたのは、額に張り付くひんやりとした感触だった。うっすらと目を開くと、白い天井と丸い明りが目に飛び込む。自分は今室内にいて、どこかに寝かされている事に源吾郎は気付いた。

 額に張り付いたものをそのままに、源吾郎はその場でもそりと半身を起こした。薬品めいた匂いが鼻先をかすめ、思わず顔をしかめた。マットレスの利いたベッドと柔らかな毛布の間に自分はいたらしい。


「おはよう、島崎君……」


 師範である紅藤は、源吾郎のいるベッドの、対面にあるベッドに腰かけていた。とうに着替えたらしくいつもの白衣姿だ。末弟子に対して屈託のない笑みを浮かべていたが、その顔にはわずかに疲れの色が見えている。彼女の隣には、狐の姿のままの珠彦が腹ばいになり、その隣に人型に化身している妖狐の少女が腰かけている。

 紅藤は金属製の頭皮マッサージ器具を操り、珠彦の丸い頭部を刺激していた。彼は特段嫌がらず、薄目を開けてなすがままだ。源吾郎はかつて犬が頭皮マッサージを受ける動画を見た事があったが、その光景に似ていた。

 紅藤は源吾郎の視線に気づくとマッサージを終えた。珠彦は琥珀色の瞳を見張り、マッサージ器具を名残惜しそうに見つめ、匂いを嗅いでいた。

 それらを眺めながら源吾郎は額に張り付いている物を外した。ゲル状の名状しがたい物質を取り外すと、紅藤がすぐに回収してくれた。市販の熱さましとは違う。もしかするとサカイ先輩あたりが用意してくれたのだろうか。ついでに言えば頬の切れた部分には絆創膏が張られており、珠彦の両前足の先は真っ白な包帯で包まれていた。


「島崎君は137分と56秒眠っていたのよ。先程の戦闘で、妖力と体力を消耗しちゃったのね」


 源吾郎の喉から気の抜けた声が漏れる。末弟子の感嘆にはさほど興味を示さずに、彼女は珠彦に視線を向けていた。


「野柴君は、妖力を取り込んだ事による肉体的負荷と、精神的な動揺が合わさって倒れただけだったわ。島崎君が目を覚ます、42分と36秒前に意識を取り戻したの……さて島崎君。気分はどうかしら」

「まぁ……悪くはないです」


 唐突に投げかけられた問いに答えつつ、源吾郎は紅藤をまじまじと見つめた。寝ている間、悪夢にうなされている記憶が源吾郎にはあった。寝込むたびにうなされるのは幼い頃からの癖だったが、それを師範たる紅藤に見られるのは何となく恥ずかしかったのだ。

 そのような源吾郎の心中を知ってか知らずか、紅藤はふっと笑った。


「だけど二人とも大丈夫よ。少し怪我があったから手当もしておいたし。ただ、少し妖力が不安定だから、一日二日はあまり動き回らずに安静にしておくのよ」


 紅藤はそこまで言うと、源吾郎の許に皿を差し出した。漬物用と思しき手のひらサイズの丸い小皿には、梅干し大の丸く淡い褐色の塊が三つ並んでいる。弁当の定番であるミートボールに見た目こそ似ていたが、匂いや色合いが何となく異なっている。


「これはマムシボールよ。島崎君たちが試合をやる前に捕まえる事の出来た新鮮なマムシをミンチにして、サラダ油でカリッと揚げてみたの」

「…………」


 小皿を半ば押し付けられるような形で受け取った源吾郎は、無言のまま視線をさまよわせた。狐姿のまま伏せる珠彦の鼻先には、源吾郎に渡されたものとよく似た皿が置かれてある。珠彦の小皿は空っぽだった。


「ねぇ島崎さん。マムシボール要らないんだったら僕が代わりに食べるよ」


 珠彦の言葉に、隣に腰かける少女が眉根を寄せ、尻尾でベッドを叩いた。


「ちょっとタマ。島崎さんの分にって雉仙女様が用意した分を貰おうなんて、それはちょっとアレじゃない?」

「それを自分で言うっすか、リン? 僕の分のマムシボールは、ほとんどリンが横取りしたじゃあないか」

「あれは横取りじゃなくて毒見よ。別に、ドクターの雉仙女様の事を疑ってる訳じゃないけど、見ず知らずの物を食べてタマがお腹を壊しても嫌だなって思ったから……」

「毒見とか言ってる時点でめっちゃ疑ってると思うけど! てか百歩譲って毒見だったとしても、リンはめっちゃ嬉しそうにマムシボール食べてたやん」


 リンと呼ばれた狐の少女は、どうやら珠彦の身内・義理の従妹らしい。いとこ同士の遠慮ないやり取りを眺めていた源吾郎は、マムシボールと珠彦とを見比べながら口を開いた。


「そんなにマムシボールが欲しいなら、僕の分を食べるかい?」


 源吾郎の淡々とした提案に珠彦はさも嬉しそうに耳を上げ、口も開いて小さな牙を覗かせていた。源吾郎は末っ子だったし妹分に相当する存在はいないが、妹を持つ兄の労苦は知っていた。力関係がはっきりと決まり揺るぐ事がほとんどない姉弟の関係の方がよほど単純である。

 そのままマムシボールを差し出そうとした源吾郎だったが、そのままの状態で固まっていた。紅藤が意味ありげな表情でこちらを見つめている事に気付いたためだ。


「マムシボールは嫌かしら?」

「実家暮らしをしていたときは、母が時々マウスの天ぷらを作ってくれましたけれど、マムシが食膳に上がる事は無かったですね」

「それでも問題ないわ。島崎君、この前食べたお茶請けの揚げカスタードは覚えているわよね? あれの隠し味はマムシパウダーよ」

「…………」


 源吾郎の視線は、紅藤の顔から珠彦に移り、最後に手許の小皿にシフトした。つい先ほどまで、マムシボールを珠彦に全て譲ろうと思っていた源吾郎だったが、その考えが揺らぎだしていた。蛇が苦手な源吾郎であるから、それを進んで食べようという気概は無い。しかし、以前喜んで食べたお茶請けにマムシ成分が使われていると知れば話は別である。

 結局源吾郎は、三個あるうちのマムシボールのうち、二個を珠彦に渡した。ありがとう島崎さん! 珠彦は元気よく礼儀正しく応じると、狐の姿のままマムシボールを味わい始めた。珠彦がさも幸せそうに食べているのを見ていると、源吾郎も皿の上のマムシボールが大変なごちそうであるような気がしてきたのだ。

 実際に口にしたマムシボールは、癖も無く意外とあっさりとしたものだった。肉質や味は白身魚と鶏肉の中間のようだった。ファストフード店で入手できるチキンナゲットよりも、あっさりとした風味である。


「島崎君には薬湯も用意するわ。少し待っててくれるかしら」


 紅藤はそう言うとそっとベッドから腰を浮かせ、そのまま去っていく。白衣の裾が翻るのを源吾郎をはじめとした妖狐たちは眺めていたが、視界から紅藤の姿が消えると、三者は互いの顔を見つめ合う形となった。


「あなたは……」


 そこでまず口を開いたのは源吾郎である。彼の視線は珠彦ではなく、隣の少女に向けられていた。さほど背の高くない、すらりとした身体つきの娘である。義理の従妹であると珠彦は言っていたが、面立ちや雰囲気は何となく珠彦に相通じるところがあった。強いて言うならば、少女の方が幾分凛とした雰囲気が強い。

 少女は野柴鈴花と名乗り、義理の従兄である珠彦とほぼ同時期に萩尾丸の組織に就職した事を告げた。彼女は多くを語らなかったが、珠彦と鈴花すずかは実の兄妹のようにつかず離れず支え合っている間柄なのだろうと源吾郎は類推していた。


「それにしても、野柴さんはどうしてここに? 倒れたのは僕とあなたの従兄なのに……?」

「珠彦兄さんが心配だったから」


 野柴鈴花は短く、しかしきっぱりと源吾郎の問いに答えた。


「ドクターやその部下の青松丸さんが手当てをしてくれるって事は解っていたわ。だけど、万が一の事があってもいけないと思って……どの道、私がいてもどうにもならなかったかもしれないけれど」


 最後の一文を口にするとき、鈴花は声のトーンを落とし、ついで自分たち以外に誰かがいないかを確かめるべく周囲に目を配っていた。ドクター紅藤の耳に入らないかと心配しているようだった。つい先ほどは、マムシボールを訝る旨の話を、紅藤のいる前で行っていたにも関わらず。


「紅藤様の事が怖いんですかね?」

「別に……怖いわけじゃないわ。だけどドクターには色々妙な噂があるからちょっとね」

 

 鈴花は先程までの快活そうな素振りからは想像できないような、歯切れの悪い物言いで源吾郎の問いに応じた。噂は何かと源吾郎が突っ込んで尋ねても、あいまいにほほ笑むだけで何も言おうとしない。

 やっぱり紅藤様って大妖怪の中でも規格外の大妖怪だから、普通の妖怪は畏れるのだろうか……源吾郎がぼんやりと思っていると、鈴花の代わりに珠彦が応じた。


「大ボスの雉仙女様には色々と噂があるんすよ。大昔に忘れ去られた禁術を操る黒魔術師だとか、妖怪の身体を機械とドッキングさせてサイボーグを作るマッドサイエンティストだとか、ドーピングで大妖怪になったとか……枚挙に暇がないっす」

「ええ……そんなに……」


 何故か楽しそうに語る珠彦を前に、源吾郎は驚いてしばし言葉を失った。紅藤があれこれと噂されている事を萩尾丸は知っているのだろうか。一瞬だけ真面目に考えた源吾郎だが、数秒と経たぬうちに真面目に考えるのを辞めた。炎上商法と煽りの大好きな萩尾丸の事だ。部下が上司の様々な噂を口にするのを彼は面白がり、或いはの三つや四つくらいやっているかもしれない。

 そんな事を思っていると、薬湯を作った紅藤が戻ってきた。彼女からカップに入った薬湯を受け取った源吾郎は、対面のベッドに並ぶ妖狐たちを指示しながら糾弾した。


「紅藤様! そこの野柴さんたちは紅藤様の事について色々と妙な噂を信じていたんです。中二病の中学生みたいに。黒魔術師だとかサイボーグばっかり作るマッドサイエンティストだとかって……」

「あらあら、そうだったの」

「そうですよ!」


 妙にのんきな調子で応じる紅藤に対し、源吾郎はせっついた。


「紅藤様。せっかくの機会ですから、そこのお二人には噂が嘘だって事は仰った方が良いと僕は思うんです」

「それもそうね。やっぱり真実が覆い隠されるのは、科学的にも良くないわ」


 優しげな笑みを浮かべた紅藤は、野柴狐たちの方に向き直った。


「野柴珠彦君に野柴鈴花さん。何か萩尾丸とかの影響で私に関する妙な噂が出回っているみたいだけど、ああいうのはあくまでも噂でフィクションだから安心なさいね。

 私はあくまでも仙術や妖術を研究していて扱えるから、黒魔術師とは違うと思うの……そりゃあ、黒魔術の系統も術者の嗜みとして使えるけれど、あんまり使わないの。私の趣味に合わないからね。

 あと、妖怪や動物と機械をドッキングさせるサイボーグ技術とかもやらないから安心して頂戴。生体に機械をドッキングさせるのは色々と負荷がかかるから、そんな事をするよりも生体組織を培養してくっつけた方が良いのよ」


 紅藤にまつわる子供じみた噂を信じる心を、他ならぬ紅藤自身が吹き飛ばす事に成功したのだ、と野柴狐たちの表情を見た源吾郎はぼんやりと思った。もっとも、それが良かったのかどうかは今となっては解らない。噂を否定した紅藤の口から紡がれた真実は、うら若い妖怪たちが取り上げた虚構たちよりもはるかに衝撃的だったのだ。

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