四尾の激情、一尾の矜持 ※戦闘描写あり

「うおぉぉぉぉぉおっ!」

「うぐるるるるるるぅ!」


 細かな砂塵が舞い散る中、二体の妖狐は戦闘を繰り広げていた。源吾郎と珠彦は互いを組み伏せ動きを封じようと、その手で相手の身体を掴み、尻尾や足をばたつかせ、闘技場の中を縦横無尽に転げ回っていた。

 今自分が懸命に行っている戦闘が、妖術も武術とも関係のない、ごくごくシンプルな取っ組み合いに過ぎない事は源吾郎にもよく解っていた。だがそんな事は、今の源吾郎には些事である。戦術も戦略も何もないが、今の源吾郎にとってはこれがベストだったのだ。初めは取り押さえてどうにかしようかと考えていた気もするが、こうして暴れているうちに珠彦がばてて戦闘不能になるかもしれないと思い始めていたのだ。必ずしも妖力と体力が直結している訳ではないが、妖力が少ない妖怪の方が疲れやすいというデータもあるらしい。


 端的に言って、源吾郎は珠彦の事を見くびっていた。自分の十数分の一程度の妖力しか持たぬ一尾を相手に、実戦経験が無いとはいえ遅れは取らぬと慢心していたのだ。そう。厳密に言えば源吾郎はおのれの実力を過大評価していたのだ。

 珠彦は未だ妖術らしい妖術を用いていないが、闘い方は妖怪らしかった。躍りかかって源吾郎を殴ったり引っかいたりしようとするだけの実にシンプルな攻撃なのだが、実際にそれを受け止める側の驚きは大きかった。珠彦の動きはすばしこく、また彼のしなやかな肉体は硬かった。珠彦は妖術を用いる代わりに、身体能力を向上させる方向に妖力を充てていたのかもしれない。珠彦の猛攻を回避するのを諦めた源吾郎は、自慢の尻尾を用いて頭や胴体を攻撃から護り、逆に珠彦への迎撃に用いた。今や攻防一体型の武器となった尻尾は、妖力を込めればゴムタイヤでさえ豆腐のように切り裂けるほどの強度を秘めている……珠彦には見切られ時に弾かれるのでその威力は発揮されていないが。


「ぐっ、おらぁっ!」


 何十周目かの回転ののち、源吾郎は珠彦の腰をしっかと掴み、彼を投げ飛ばした。転がり続けていても埒が明かない事はうすうす感づいていた。押さえつけられないのならば投げ飛ばし、珠彦の体勢が崩れたところを狙う方が良いと考えたのだ。小柄ながらも骨太でやや堅肥り気味の源吾郎は、細身でなおかつ本体が狐である珠彦よりもはるかに質量のある存在だ。妖力を用いない純粋な肉弾戦では、体重の重い方が有利になるのは自明の話だ。

 尻尾で地面を支えながら源吾郎は素早く立ち上がった。弾んだ呼吸を整え、投げ飛ばした珠彦の様子を窺う。紅藤は二人が入った円陣の外側に結界を施していた。源吾郎が放った狐火ですら弾かれて威力を失う代物である。さしもの珠彦もびっくりして、少しは動きが鈍くなるだろう。そこを狙えば……

 しかし、源吾郎の希望的観測はことごとく絵に描いた餅と化した。珠彦は器用に空中で身体をひねり、華麗に両足で着地したのだ。しかも青白い結界に触れる事もない。もしもこれを舞台の演目として目の当たりにしたならば、源吾郎は惜しみない拍手を贈っていただろう。

 珠彦を見ながら源吾郎は構えた。向こうはかなり余裕そうだ。呼吸の乱れも無いし、何より懐っこい笑みを向けている。


「島崎さんって、おっかない玉藻御前様の子孫だけど優しいんすね。言葉通り手加減してくださって、雑魚妖怪たるこの僕に花を持たせてくれるなんて!」

「んな訳、あるかよクソ狐が……!」


 源吾郎は中腰という間抜けな体勢のまま、尻尾を介しておのれの妖力を体外に放出させる。部下は雇い主に似ると言うが、まさか組織の末席らしい珠彦までがボスの炎上トークの手腕を身に着けていたとは……ただ単に源吾郎が激しやすいだけなのかもしれないが。

 ともかく源吾郎の感情的爆発により放出された妖力たちは、ことごとく中空を漂う狐火と相成った。十個弱の火球の出現に観衆たちは驚きの声を上げているらしいが、彼らの声ははっきりと聞き取れなかった。

 源吾郎の心は、珠彦に頬の薄皮を裂かれてから戦闘モードに切り替わっていた。弱そうだから殺してしまわないかだとか手加減しつつも格好良くキメようなどと言う雑多な考えは、とうに押し流されて消え失せていた。死力を尽くして闘わねば喰われる。非力な雑魚妖怪だと思っていた珠彦の事を、四尾を持つ源吾郎は明確に脅威だと見做していた。


「これでも、喰らっとけぇ!」


 指揮者よろしく右手を振るい、おのれの周囲に顕現している狐火を飛ばした。珠彦の顔にようやく焦りの色が浮かぶ。人間とは違う、妖獣らしい見事な動きで回避しようとしているが無駄だ。すべて標的を追尾する機能を備えた狐火なのだから。

 見ている間に狐火の一発が珠彦に着弾する。それを皮切りに四方八方を飛び交っていた狐火たちが珠彦に相次いでぶつかっていく。ぶつかった狐火は小爆発を繰り返し、珠彦の姿を覆い隠していた。青白い花火が白昼の地上で展開されるような、実に派手な光景である。

 狐火の爆発が収まったところで、源吾郎は細めていた目を開いて様子を窺った。光は収まったが舞い上がった砂塵と煙が立ち込め、相変わらず視界はクリアではない。爆発した狐火は意外にも火薬めいた強烈な匂いを放っており、匂いから珠彦の状態を類推する事も難しい。ただし、周囲は奇妙なほど静まり返り、観衆たちの声だけはクリアに聞こえてくる。


「あちゃー。こりゃあタマっちのやつ死んだんじゃね?」

「やっぱりボスのVTR上映会の方が良かったかも。朝からグロ見せられるなんて罰ゲームじゃんか……」

「タマ……やっぱり無茶しちゃって……伯父さんたちも従弟たちも哀しむのに」

「てかマジゲンゴローのやつひでーな。いくらブチ切れたからって言ってあそこまでやるか普通?」

「そりゃやっぱ人間様の血が混ざってるからじゃね? あいつらって殺し合いとか大好きらしいし」

「うひー。俺立候補してなくて良かったぜ。名声も何も、生きてなけりゃあ意味ないし」


 主に喋っているのは萩尾丸の配下たる、うら若き妖怪たちだった。彼らはおおむね珠彦の身を案じたり無謀だと呆れたりしていた。圧倒的な術で相手を圧倒した源吾郎への称賛の声は無い。むしろ観衆は源吾郎を恐れ、疎み、嫌悪の念さえ露にしている。無理からぬ話だ。妖怪は強い者に従うという習性があると言えども、見ず知らずの妖怪がおのれの同僚を殺しにかかったとあれば、そいつを敵として見做すのは当然の流れであろう。

 源吾郎への悪感情を向ける妖怪たちの声を聞きながら、奇妙な話だが源吾郎は安堵さえしていた。若き妖怪たちの感性が、人間たちのそれと似通っている事を感じ取ったためだった。妖怪に、強い妖怪になるという事は心身ともにに変質する事なのか? 師範や先輩たちには黙っていたが、近ごろ源吾郎はそのような悩みに取り憑かれていたのだ。


 観衆がああだこうだ言ったり源吾郎が奇妙な感慨にふけっている間に、煙が晴れた。腰を落とした体勢で珠彦がそこにいるのがはっきりと見えた。詳しく確認するまでもなく無傷だ。両目が潤んで涙目になっているが、あれだけの煙に包まれていたのだから致し方ない。首元のペンダントが青紫に輝いている事に源吾郎は気付いた。

 珠彦は一つ咳ばらいをすると、ゆっくりと立ち上がった。洋服に砂塵が付着している以外は特段大きな変化は無い。


「……これは一体どういう事だい、野柴君」


 源吾郎は一歩近づくと、怪訝そうに目を細めながら珠彦に尋ねた。珠彦が無事……というか大けがをしていない事に源吾郎も安心してはいた。しかし、それ以上に確認したい事もある。


「どうもこうも、結界が僕を護ってくれた……それだけっすよ」


 珠彦は問いに応じてくれたが、何となく歯切れが悪い。右手で首元のペンダントを撫でながら、珠彦は言葉を続けた。


「ああ……凄かったすよ、島崎さんの狐火もこの結界も。さすがにあれだけの狐火をぶつけられたら結界もズタズタで僕もやられちゃうかなぁって思ったっすけど、全弾余裕で防いでくれたみたいだし」

「……結界で身を護った事は俺も解っているさ」


 源吾郎は静かな調子で言い捨てた。珠彦が結界術に頼っておのれの身を護った事は、源吾郎だけではなく他の妖怪たちも気付いているだろう。源吾郎は、珠彦が狐火の猛攻からおのれを護った結界が、珠彦自身の妖力妖術で生成したものではない事を見抜いていた。役目を果たした結界は既に解除され妖気の残滓が漂っているだけだが、それは珠彦の妖気とは異質なものだった。妖怪たちの妖気に個体差があるのと同様、彼らが行使する妖術にも個体差や癖のような物がある。人間で例えれば、筆跡や歩き方が各個人で異なっているようなものだ。

 

「だがその結界は、君の術で作ったものじゃあないよな」


 珠彦は、源吾郎の問いかけにあっさりと頷いた。観衆たちも声を上げているが、驚いているというよりもむしろ納得のニュアンスの方が強い。深く考えずとも、観衆に回っている妖怪たちの方が源吾郎よりも珠彦の事を知っているのだ。


「これが僕の自衛策っすよ、島崎さん」


 さも得意げに珠彦は笑い、ついでペンダントの鎖を指でつまんだ。


「この訓練に参加する事が決まってから、大ボスに、雉仙女様にお願いして作ってもらったんすよ。そりゃあ、僕だって生命は惜しいし、島崎さんの攻撃がめっちゃ強い事くらいは解ってたんで……」

「な、何だって……」


 源吾郎は愕然としながら観客席を振り仰いだ。彼は迷わず紅藤を見つめた。末弟子の視線に気づくと、紅藤は一度瞬きをしてから小さく頷いた。


「……そうよ島崎君。今野柴君がつけているペンダントは私が用意したものよ。直弟子ではないにしろ、ただの訓練で、若い子が生命の危険にさらされるのは見ていられないもの。萩尾丸の部下として頑張っている子ならなおさらね」


 紅藤はまだ色々と何か言いたげではあったが、ここで言葉を切った。詳しい話は後でするという所であろうか。

 源吾郎は視線をさまよわせ、萩尾丸や峰白の顔を見つめた。玉座の隣に座る峰白は、源吾郎と目が合うと、その面をほころばせて笑った。


「……そこの狐、野柴珠彦がイカサマをしたと私たちに糾弾して欲しいんでしょ、島崎源吾郎」


 愉快そうな峰白の言葉に、源吾郎のみならず珠彦までもが身を震わせ尻尾の毛を逆立てている。峰白はなぶるような視線を源吾郎たちに向けると、あからさまに笑い出した。


「野柴狐が紅藤に護符をもらって攻撃から身を護った事を、イカサマだと糾弾するつもりは私には無いわ。むしろ――間抜けだと責められるべきはあんたの方よ」


 猛禽の瞳と冷ややかな笑みを見せながら、峰白はためらわず源吾郎を指さした。


「今一度聞くわ島崎源吾郎。私たち妖怪の世界を支える実力主義は一体どういうものかしら?」

「……強い者が弱い者を圧倒し、支配する事ですよね? 目的のために、強者は弱者や敵をぶち殺す事も……紳士淑女のたしなみとして許容されているんでしたっけ」


 源吾郎の返答に対して、峰白は笑みを深めた。不気味な、しかし目が離せなくなるような笑い方だった。


「ものの見事なまでに不正解ね島崎君。確かに強者となれば弱者を支配する事は出来るでしょうね。私や義妹の紅藤みたいに。だけど、弱者がただ大人しく強者に従うなんて言うのは大間違いよ。弱者は弱者なりに身を護る術を知っているし、従いたくない強者をやり過ごす方法や、或いは強者と闘うときにどうすべきかを常日頃考えていると思いなさい。さもなくば、力を得たとしても足許をすくわれるだけよ……まぁ、その辺りはあなた自身だけじゃなくて、指導者の教育不足もあるでしょうけれど」


 強者たるもの弱者に油断するな――峰白の言葉に、源吾郎のみならず珠彦や他の妖怪たちも神妙な面持ちで聞いていた。こういう話は確かに、師範である紅藤からは出てこない内容だ。紅藤はどちらかというと知識や技術を習得する事に重きを置いていたし、源吾郎が誰かと闘うという事をさほど考えていないようなそぶりもあった。

 不思議な感覚を抱きながら今一度峰白を見つめ、敬礼の意を示すように源吾郎は頭を垂れた。誇らしげに語った峰白の言葉には、奇妙なほどの説得力が宿っていた。雉鶏精一派の第一幹部・胡琉安の摂政として君臨する、名実ともに強者であるにもかかわらず。


「ささご両人。我々の講釈は終わった。今再び戦闘に戻るとよい」


 威厳をもって語り掛けたのは、雉鶏精一派のトップである胡琉安だった。彼は源吾郎を見定めると、柔らかい笑みを浮かべた。期待しているぞ、わが義弟よ……少し前に義兄になった胡琉安が、優しくそう呼びかけているように源吾郎には思えた。


「ねぇ、もうバテちゃったのかな?」

「そんな……はぁ、俺は、まだ、イケるぜ……!」


 余裕綽々と言った様子の珠彦を見据えながら源吾郎は吠えた。ハッタリをかますためにイケると言ってはみたものの、実のところバテ始めている所だった。得意技である狐火が珠彦に対して効果がないので、尻尾を操る攻撃にシフトチェンジしていたのだ。対妖怪ミサイル、或いは柔軟な槍として尻尾を振るうのは、実は狐火の放出よりも妖力は少なくて済む。しかし身体的な疲労は狐火の比ではなかった。

 一方の珠彦はやはり疲れの色は見えない。雑に振り回される尻尾をかわし、時に手や足で弾いているにも関わらず、猫じゃらしに戯れる猫のような気軽さでそこにいた。しかしその彼も完全な無傷でもなく、尻尾の打撃を弾いた手のひらには、うっすらと血が滲んでいる。

 珠彦が躍りかかる。源吾郎は少し遅れて尻尾の一本を繰り出した。珠彦は危なげもなく尻尾の軌道を見切り、何を思ったか両手で掴み、ぐいと引っ張った。思わぬ行動に源吾郎はよろめき、地面に倒れ込んだ。地面が柔らかかったので特段ダメージは無いが、強い驚きに源吾郎の心は揺らいでいた。


「さっさと立ってくださいよ、島崎さん」


 珠彦の長い影が、伏せった源吾郎の目元を覆う。逆光になったために珠彦の顔は見えず表情も窺えない。しかし先程までのひょうひょうとした物言いとは明らかに何かが違う。怒りの念、それも激情を程よく抑えた冷え冷えとした怒りを、源吾郎は珠彦から感じ取った。


「――人間の血が濃いからと言って、玉藻御前様の末裔がこの体たらくとは……」


 珠彦は源吾郎が起き上がっても攻撃を仕掛けてこなかった。獣じみた顔に険しい表情を作り、ただただ源吾郎を睨んでいるだけだった。


「この体たらくとは……はぁ、どういう事だ。或いは俺に……喧嘩を売ってるって事かい、この凡狐が」

「凡狐だからこそ、君に喧嘩を売ったんじゃないか!」


 源吾郎は目を見開き、無意識のうちに後ずさっていた。自分は始終感情を爆発させていたが、珠彦の烈しい感情の発露を見たのはこれが初めてだった。


「僕はね島崎さん。あなたが妖狐たちが羨む大妖狐・玉藻御前様の末裔だからこそ闘って、箔をつけたいと思ったんですよ。僕自身は術も不得手で、正直なところ仲間内からも馬鹿にされている節もあるんすよ。だけど、だからこそ玉藻御前の末裔である島崎さんと闘って、先輩たちを見返したかったのに……! こんなに、こんなに情けないんじゃあ意味がないっすよ」


 感極まった珠彦の瞳から、涙が一滴二滴流れ出るのを源吾郎は見ていた。落涙すらいとわぬ珠彦の主張を間近で見聞きしていた源吾郎も、全身の疲労もけだるさも忘れ、心の中がふつふつと沸き立つのを感じた。珠彦の真意に触れ、ある意味彼に同情……共感し始めていた。仲間を見返したいために奮起する気持ちは、源吾郎も痛いほど理解していたのだ。源吾郎は尻尾を揺らめかせ、おのれの中を巡る妖気を確認した。闘いを続行する事を決めたのだ。それは無論おのれの矜持の為だったが、「めっちゃ強い玉藻御前の末裔」と闘う事を望む珠彦の為でもあった。


「野柴君、果たして俺が情けない狐かどうか、とくと味わうが良い!」


 高らかに言い放った源吾郎は、先程尻尾から引き抜いた毛を珠彦の前に吹き飛ばした。燃え盛り活性化した意欲とは裏腹に、自分の中に残る体力と妖力がそろそろ限界近い事を源吾郎は察していたのだ。尻尾を操る術は体力を使う反面不慣れで精度が低い。そこで異なった方法、すなわち変化術を用いて攻撃を行おうと考えたのだ。

 引き抜いた尻尾の毛は、地面に落ちる瞬間に奇怪な異形に変化した。全長一メートル半ばかりの、触手と吸盤と植物のツルを併せ持つような不気味なモンスターである。こいつで珠彦の動きを封じ、ついで妖力を吸い取ってやろうと源吾郎は思っていたのだ。

 うねうねとうごめく触手モンスターの姿からなかば目を逸らしつつ、源吾郎はそいつに珠彦を襲うよう指示を下す。自分で作り出しておいてなんだが、源吾郎は変化術で作った触手を本気で気色悪いと思っていた。触手のみならず、蛇や蜈蚣や蜥蜴や芋虫などと言ったゲテモノの類を源吾郎は苦手としていた。ついでに言えばホラーものも苦手だったりする。


「げ」


 湿った物体が倒れる音を聞いた源吾郎は、軽く目を見張り困惑の声を上げた。妖力と精神力を削って作り出した触手モンスターの幻影は、珠彦の容赦ない狐パンチで一刀両断されていたのだ。そんな……源吾郎は数瞬の間がっかりしていたが、ふとあること思い出して今一度変化術を行使した。先程よりも大目に尻尾の毛を抜き、四方に散らばるように配慮する。

 次に源吾郎が作ったのは柴犬の軍団だった。何故柴犬か? それは戦闘に入る少し前に、珠彦が「変化できるのは柴犬かキタキツネくらいっす」と言っていたのを唐突に思い出したからだった。それは大分妖力の目減りした、源吾郎なりの洒落だった。あんたは柴犬に変化できると言ってたけれど、俺の変化術で作った柴犬のクォリティーはこんなものだぜ、と。

 さて、変化術で出現した柴犬は、三角形の瞳を吊り上げ、獰猛そうな唸りを上げて珠彦を取り囲んだ。最も狼に近い犬種であり、かつて野山で兎や狐を狩っていた猟犬らしい振る舞いである。


「ヒィッ……そ、そんな……」


 珠彦の様子が一変したのは、柴犬たちが躍りかかろうと身をかがめた丁度その時だった。小麦色の頬は一瞬にして青ざめ、おのれを取り囲む柴犬たちを、さも怯えた様子で見つめていたのだ。

 柴犬に囲まれた輪の中から活路を見出そうとした珠彦だったが、逃れる事は無かった。恐怖に足がすくんだのか、彼はそのままくずおれた。その身体がみるみるうちに縮んでいき、数秒と待たずして本来の姿、キツネ色のホンドギツネの姿に変化した。

 源吾郎は柴犬たちの輪の間に入り込み、輪の中央でへたり込む珠彦を見つめた。憐れにも彼は耳を伏せ尻尾を巻き、その上ぶるぶると震えていた。源吾郎が近付いたのに気づくと、珠彦はゆっくりと顔を上げた。琥珀色の瞳には、恐怖の色がありありと浮かんでいる。もはや勝負どころでは無さそうだ。


「勝負ありって所かい?」

「う、うん。もう、僕の負けでいいから! そ、そこの犬たちを消してくれ! ダメなんだ、僕、犬、犬だけは……」


 源吾郎は黙って術を解除した。殺気を丸出しにしていた柴犬の幻影は消えていく。珠彦はそれを見届けると何も言わず頭を垂れ、そのまま地面に突っ伏した。失神したらしい。柴犬を登場させた後から様子がおかしかったが、まさかここまで犬を恐れるとは……


「ひとまず、この勝負は俺の勝ちって事かな……?」


 源吾郎は誰に言うでもなく呟いた。この問いに誰かが返答したのかもしれないが、源吾郎には解らなかった。次の瞬間には、源吾郎も倒れ伏した珠彦の傍らに膝をつき、そのまま横倒しになってしまったのだから。


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