激闘? 妖怪タイマン勝負 ※戦闘描写あり

 弱小妖怪たちのざわめきをバックミュージックにしながら、野柴珠彦と呼ばれた妖怪は堂々と立ち上がり、気軽な足取りで源吾郎の前に進み出た。妖怪たちの驚きと悲嘆と懸念の声を耳にしつつも、源吾郎は目玉が飛び出さんばかりにこの度の対戦相手を見つめていた。

 名前でイメージはついていたが、珠彦は妖狐の男だった。生粋の妖怪であるから源吾郎よりは二、三十は年上であろう。しかしすらりと伸びたしなやかな肢体やうっすらとニキビの浮かんだ褐色の肌は初々しく、どう見ても大人の男には見えない。人間で言えば十五、六くらいの少年と言ったところであろうか。

 橙がかった褐色の、キツネ色とも呼べそうな髪を揺らしながら珠彦があどけなくほほ笑む。体型と言い目鼻のはっきりとした顔つきと言いどことなく鼬を思わせる少年だった。

 しかし源吾郎が気になるのは相手の尻尾である。頭髪と同色のキツネ色の毛に覆われ、先端が白い柔毛に覆われた、典型的な狐の尻尾であった。珠彦は、全長六十五センチ程度の色の短い尻尾を、わずかに一本生やしているのみだったのだ。

 面食らった源吾郎はしばし瞬きを繰り返した。萩尾丸は源吾郎に見合う相手を見繕ってくれると聞いていたし、源吾郎もそれを信じた。確かに源吾郎は妖力こそあれど実践の経験は絶無だ。だがそれでも、珠彦が源吾郎の初陣に見合う相手なのかどうか判断しかねた。


「ざ、雑魚妖怪じゃないか……」


 源吾郎がぼやくと妖怪たちがここぞとばかりにざわめいた。


「おい見ろよ。クソ九尾の末裔様は、言うに事欠いて雑魚妖怪発言なすったぜ」

「何と品のないお方なのでしょう。見ず知らずの相手に妖ハラを行うなんて」

「でっかい尻尾をぶら下げてるから、脳みそがそっちに吸い取られてるのかもな」

「ああ、しかもちゃっかり俺は格好いいんだオーラを出してるからちょいムカつくな。まぁ、僕も同じ立場ならやっちゃうかもだけど」

「あいつ雉仙女殿のトロフィー・フォックスって事らしいけど、本当は張り子の狐なんじゃないの?」

「てか、検便しないと駄目じゃね? あいつエキノコックスのキャリアだったりして」


 弱小妖怪たちの非難の声は、先程の峰白の爆弾発言よりも大きく派手だった。それは生粋の妖怪であろう彼らも峰白を恐れている事、源吾郎を多少見くびっている事の何よりの証明であろう。

 ちなみに妖怪の一人が口にした「妖ハラ」とは、妖力ハラスメントの略称である。妖力の多寡を馬鹿にする行為や、妖力に見合わない作業を強要する事柄が該当する。人間界で言えば、アカハラ(アカデミックハラスメント)やパワハラに近いであろう。なお、先程源吾郎が発した「雑魚妖怪」も、不適切発言と見做される単語である。


「はじめましてっ、島崎源吾郎さん」


 いつの間にか珠彦は源吾郎のすぐ傍まで来ていた。四月の陽光に照らされて、珠彦の琥珀色の虹彩はきらきらと輝いていた。虹彩の中央にある瞳は縦長であり、動物としての狐の特徴をありありと示している。


「あ、うん……初めまして、になるかな。野柴君」


 なるべくニヒルに聞こえるように応じつつ、源吾郎は近くに来た珠彦の姿をそれとなく観察した。長袖長ズボンの、県立高校で見られる体操服に酷似した衣服に身を包んでいた。首元には小さな玉のついたペンダントをつけており、両耳を小さなピアスで飾っている。襟元には首を傾げる雀がデザインされたバッジをつけている。夕暮れ時のフードコートで、男女混合の仲間でポテトをつついたり軽くじゃれ合いながら、英語の問題集を片付けていく。そういう青春を過ごしてきたような、俗っぽい言い方をすれば「陽キャ」に近い少年であると源吾郎は思った。


「島崎さんの事はボスや先輩たちから聞いてたっす。本物の、玉藻様の子孫なんですよね」

「いかにも。俺こそが玉藻御前の曾孫、それも兄弟の中で最も妖力が多く、妖怪としての生き方を選んだ唯一無二の男さ!」


 源吾郎は言葉の一つ一つ、挙動の一つ一つに威厳をまとわせながら応じた。今更深々と言及するまでもなく、彼の言葉はすべて真実である。

 威厳たっぷりに振舞う源吾郎に対し、珠彦は懐っこい笑みを深めただけだった。


「あ、だけどイメージしてたのとだいぶ違うっすね。何というか、親しみが持てる顔立ちだと思うっす」

「……見た目はまぁ、アレだ。人間の父親に似てしまったんだ」


 源吾郎はわずかに声のトーンを落として応じる。このツッコミは行われるであろう事は解っていた。それでも面と向かって言われると少し凹む。


「だけどな、見た目の事にツッコミを入れるのは反則だろう。俺ら狐は少し妖力があれば本来の姿から変化できるんだからさ。現に、現に俺とて可愛い美少女とか、色っぽいおねーさんとかに変化出来るんだからな」


 源吾郎は中学生位の頃から美少女などに化身する変化術を体得した。初めは厭世的な末の兄が、出先ですり寄ってくる面々を避けるために「彼女役」になるようにと要請したためだったのだが、実は源吾郎もノリノリでやっていた。少女に化身すると、ごく自然に女子たちと会話できる事が判ったためだ。手っ取り早く女子の心理と生態を知り、モテ道におのれを導くためのうってつけの方法こそが少女への変化だったのだ。

……ちなみに源吾郎はイケメンだとか美少年に変化し、もっと直截的に女子たちを誘惑するような事は考えていない。高難易度の異性への変化を易々とこなし、なおかつ美貌に恵まれた叔父や兄たちの面立ちを知っている源吾郎ならば、可能である。そりゃあそんな事をすればすぐにでも源吾郎はモテモテになり、それこそ彼が永らく夢見ていたハーレムの三つや四つは構築できるだろう。無論その事は源吾郎もよく解っていた。

 しかしそうやって女子たちの心を射止める事を、源吾郎自身が善しとしなかった。偽りの見掛けのみで女子達とのラブゲームを愉しむなどと言う行為は、おのれの信条や理念に、おのれの魂に反する行為だと思っていた。異性に化身するのは純然たる虚構なのでいくらでも行えるが、相手とおのれを欺いてまで女子の心を奪うほど、源吾郎の心は腐ってはいない。

 ともかく源吾郎は、珠彦が「だったらなんでイケメンに変化しないんっすか?」と尋ねないかとやきもきしていたのだ。説明はできるが、納得してもらえるかは解らないからだ。


「えーっ。島崎さん、女の子にも変化できるすか! 凄いっすね! 僕は人型と……柴犬とかキタキツネくらいが関の山なんで」


 幸いな事に珠彦はツッコミを入れはしなかった。むしろ彼はまるい瞳を見開いて、さも感心した様子で源吾郎を眺めている。珠彦はさほど変化が得意でないために、源吾郎が変化上手である事に素直に関心を示したらしい。変化術というのは、性別・種族・年齢が実体に近いほど難易度が低い。


「……良いのかい、野柴君」

「なにが?」


 不思議そうに首を傾げる珠彦から源吾郎は一瞬視線を外した。彼は研究センターの面々や胡琉安や峰白、そして珠彦の同僚であろう妖怪たちをざっと眺めていた。彼らの思惑はまちまちであろうが、そろそろ次の動きを期待しているようだった。


「君は、これから俺と闘うんだろう? 俺は尻尾の数も妖力の多さも君よりも勝っている。闘ったとしても、いや闘う前から勝ち目は決まっているんじゃあないかね?」


 今皆が集まっているのは、ひとえに源吾郎が行う戦闘訓練のためである。源吾郎のために設営がなされ、萩尾丸が適切な妖怪を選び出し、さらには頭目である胡琉安と幹部の峰白までやって来ている。だらだらと能書きを垂れずに戦闘訓練を始めるのが筋である事は源吾郎にも解っていた。

 しかし源吾郎は、この度の対戦相手と顔を合わせ、言葉を交わしている間に闘おうという気概が薄れていった。初対面である源吾郎に対して懐っこい表情を見せる珠彦を、気の毒に思ってさえもいた。この一尾の妖狐から感じ取る妖気はささやかなものだ。源吾郎が本気を出せば、彼は同僚や先輩や上司たちの前でぶちのめされ思うがままに蹂躙される姿を晒す事になってしまうのだ。


「心配は無用っす島崎さん。僕は萩尾丸のボスから相手はめっちゃ狂暴だから殺すつもりで挑みかかれって言われてるんで」


 笑いながら語る珠彦の瞳がぎゅっとすぼまったのを源吾郎は見た。まごう事なき野獣の眼光だ。


「思った以上に闘る気満々じゃないか……萩尾丸先輩に脅されているのかい? それとも俺と闘う事で特別手当が出るとか?」


 まさか。源吾郎の言葉を珠彦はまたも一笑に付した。


「アハハハハ、島崎さんが日頃ボスをどう思っているか丸わかりっすね。ですが残念っす。ボスはただ単に、今日の訓練がある事を『小雀』のメンバーに伝えて、島崎さんと闘いたい妖怪を募っただけっす。普通に、民主主義的にっすよ。

 打ち合わせの時は、誰もやりたがらなくってある意味もめたけど、僕が立候補したんで万事丸く収まったんすよ」

「それじゃあ、何で君はわざわざ立候補したのさ」

「玉藻御前の子孫で一番強い妖怪と闘ったとあれば箔が付くからっすよ。場合によれば、玉藻御前の曾孫に打ち勝った狐になるかもしれないし」


 源吾郎は笑う珠彦の顔にくぎ付けになっていた。獣の瞳に白い犬歯をうっすらと見せたその笑みは、先程まで惜しげなく見せていたあどけなく無邪気な笑みとは違っていた。

 何のかんの言ってもこいつは妖怪であり、人間とは感性が違うのだ――おのれの境遇生き方を棚上げし、源吾郎はひそかに思った。妖怪、とみに若いオスの妖怪同士が相争う場合、殺し合いではなく名声や妖力を得るという目的を含む場合がある。戦闘の際は感情の昂りが烈しいので普段以上に相手の妖気を吸い取る事が出来る。その上血筋の誇れぬ妖怪であっても、実力者やその眷属に勝負を仕掛ける事によって名声を得る事も出来るのだ。


「ひよこの数を数えるな、と言うことわざを君は知らないようだな」


 源吾郎はにやにや笑いを浮かべながら珠彦に詰め寄る。


「おのれに箔が付く事を考えるよりも、おのれ自身の事を心配した方が身のためだと思うぜ? 俺はむやみに君を傷つけたくはない。しかし妖怪と闘うのは今回が初めてだから、加減を間違えて殺してしまう可能性とてあるんだ」


 利己的な気持ちを表出せぬよう気を遣いつつ源吾郎は言葉を紡いだ。事ここに来て、戦闘訓練がどのようなものか悟り、臆病風に吹かれ始めていたのだ。おのれが負ける事に対してではない。おのれの妖力の奔流に耐え切れず、珠彦を殺してしまう可能性に源吾郎は臆していた。強さを求める妖怪としてはヘタレの誹りを受けても仕方がない。しかし一方で源吾郎が争いに消極的になるのも致し方ないのかもしれない。彼は妖怪と争った事も無ければ、人間のチンピラ小僧に絡まれた事も、兄姉たちと武力の伴う喧嘩を行った事すらないのだから。


「アハハハハ、お気遣いはありがたいっす島崎さん。見ず知らずの僕の事を気遣ってくれるなんて……だけど大丈夫っすよ。元より島崎さんが強い事は承知の上だし、僕だってリスクマネジメントはやってるっすよ。バイクに乗ってて事故っても、命に係わる事はあると思ってるんすよ」


 自分とバイクは同列なのか……源吾郎は珠彦に色々と突っ込みたかったがやめておいた。代わりにひっそりとため息をついてから口を開いた。無理しないで、タマ……切実そうな少女の声が、観衆の中から沸き立ったのを耳ざとく察知していたのだ。


「――どうしても闘うというのなら仕方ない。手加減してやろう。俺は別に君には恨みなどないし、そもそも実力を図るための訓練なんだからさ。それに――君を心配している彼女がいるみたいだし」


 源吾郎の気取ったセリフに対し、珠彦は苦笑しながら首を振った。


「さっきの声は彼女じゃなくて義理の従妹っす。互いに家が近くて小さい時から一緒に遊んだりしていたから、兄妹みたいな感じっすね。んで、今はフリーなんで気遣いは不要っす。元カノとは、向こうが稲荷神の許で修行する事が決まってから別れたんで」

「…………」


 彼女がいたという発言に対しては源吾郎は何も言わず、目を細めて珠彦を見つめ返すのみだった。彼がまぶしく感じられるのは何も陽光のせいだけでもなかった。


「二人とも、そろそろ準備はいいかしら?」


 一人の妖怪がすっと立ち上がり、優雅な足取りで源吾郎たちに近付いてくる。源吾郎の師範である紅藤だ。トレードマークである白衣姿ではなくワンピースに薄紅色のカーディガンを羽織ったラフな衣装のため、普段よりも若々しく見えた。学部生として大学に紛れ込んでいてもおかしくないほどだ。

 紅藤様……か細い声で呟き、源吾郎はすがるような眼差しを向けた。事実源吾郎はすがっていた。察しの良い紅藤が源吾郎の心の揺らぎを汲み取り、戦闘訓練を無しにしてくれるのではないか、と。紅藤の発言は義姉である峰白や頭目たる胡琉安にさえ影響を及ぼす事は源吾郎も知っていた。彼女の口から戦闘訓練の取りやめを言ってくれたならば、誰もそれに反駁はできないはずだ。峰白は小言を言うかもしれないが。

 紅藤は源吾郎の視線に気づくと、愁いを秘めた笑みを浮かべながら首を振った。


「大丈夫よ島崎君。今少し計算してみたけれど、あなたと野柴君のどちらかが死亡する確率はそれぞれ十二万分の一だったわ。別段これは殺し合いじゃあないから、そこまで気負わないで」

 

 港島に乱立するスパコンと脳みそが連結していても何一つおかしくないような文言を吐き、紅藤はあいまいにほほ笑んでいる。何だかんだ言っても闘う他ないのだと、彼女は暗に言っていたのだ。

 スーツ姿の萩尾丸は、さもさもおかしいと言った様子で高らかに笑い出した。


「はっはっは。別に僕は君がこの訓練を棄権しようが棄権しまいがどうでも良いがね。もし棄権した場合は、特製VTRの上映会に代わるだけだからさ……

 だが島崎君。怖いだとか嫌だとかって言うしょうもない感情で、自分が行おうとしている事を放棄するのはいかがかな。君自身の心が、君の裡に流れる九尾の血がその行いを認めるのかい? そもそも君は、どちらかというと人間の血を多く引き、周囲からは人間として生きるように望まれているのを承知の上で、最強の妖怪を目指す事をおのれの意志で決めたんだろう? ちょっとした事で嫌だとかやりたくないとか駄々をこねるんだったら、紅藤様に辞表を渡してしまえ。そうして姫路の実家に戻って、ママに慰めてもらうんだな」


 源吾郎は、射殺さんばかりの眼差しで萩尾丸を睨んでいた。不安でしぼんで垂れ下がっていた尻尾も、力強く伸びあがり毛も逆立っている。「趣味:SNS炎上 特技:炎上商法」だという萩尾丸の炎上誘導トークの手腕は伊達ではない。「火に油を注ぐ」という言葉があるが、今回はまさしくそれだった。源吾郎の燻り始めた心に、萩尾丸は油、それもガソリン級の何かをばらまいたようなものだった。


「萩尾丸ったら、また島崎君を焚きつけちゃって……だけど、私も仕上げをやらないと。みんな、今いるところから三歩ばかり下がってくれるかしら?」


 紅藤は右手を思わせぶりに水平に差し出し、首を巡らせながら皆に告げた。パイプ椅子の揺れる物音は、妖怪たちが紅藤の指示に従った事を雄弁に物語っていた。胡琉安も幹部たちも研究センターの先輩たちも、立った状態で紅藤に視線を向けていた。

 それが起きたのは、全ての妖怪たちの動きが止まってから三秒後の事だった。パイプ椅子が並べられていた内側の、円を描く領域に生えていたイネ科植物たちが音もなく青白い焔に包まれた。水色にも見える焔は烈しく揺らめき青草を舐めつくしているが、動きは妙に整っている。複雑な火術を紅藤は行使しているらしい。

 もう大丈夫よ。右手を下した紅藤が皆に告げる。青草が生い茂っていたその場所は、今や茶褐色の柔らかそうな地面があらわになっていたのだ。ついでに言えば茶色い円陣の向こう側では鼠のような小動物たちが必死で逃げ去り、紅藤の足元には蛇や蜥蜴や雑多な虫たちが、いつの間にか出現した籠に収められている。


「さあ二人とも、準備ができたわよ」


 紅藤は嬉しそうに籠を抱き上げてから源吾郎たちに告げた。珠彦は気負う事なく軽やかに、源吾郎は重々しく荘厳な様子で円陣の中に入っていった。


 戦闘訓練のルール説明が一通り終わると、開始の号令が上がった。この度の訓練はタイマン式の試合であり、戦闘スタイルは不問。制限時間は四十五分であるが、どちらかが戦意を喪失したり戦闘不能になったところで終了とのこと。また、戦闘中でも状況に応じてドクターストップが入るという事までご丁寧に説明があった。

 さて、簡便な闘技場に入った源吾郎と珠彦は、互いの顔を見つめながら仁王立ちしていた。妙に力んだ源吾郎の尻尾は毛先までもが針金のように立ち上がっていたが、珠彦の尻尾は左右にゆったりと揺れていた。


「先手は譲るぜ、野柴さんよぉ」


 珠彦の尻尾が四往復したところで源吾郎は告げた。尻尾の動きが止まり、珠彦はちょっとだけ驚いたような表情を浮かべた。


「良いんですか。それじゃあお言葉に甘え……」


 源吾郎は、珠彦が最後まで言い切るのを聞き取れなかった。言い切る前に、珠彦はとうに動き始めていたのだ。地を蹴る動作をしたと思った次の瞬間には、珠彦は源吾郎に触れられる距離にまで近付いていた。向こうは殴るか引っかくかするつもりなのか、右手をふわりと掲げている。突然の事に源吾郎は身をすくめる事しかできなかったが、幸い頬を鋭い風が通り抜けただけでもろに攻撃を喰らう事は無かった。

 攻撃を受けなかった事に安堵していた源吾郎だったが、それ以上に戦慄が心中を支配してもいた。やっぱりこいつは妖怪なのだ。人間とは段違いの跳躍力とスピードを目の当たりにした源吾郎は、そう思わざるを得なかった。

 源吾郎の身に流れる妖狐の血は、並の人間よりも優れた身体能力と動体視力を彼にもたらしてはいた。しかしそれはあくまでも、鈍重な人間よりも優れているというだけだったのだ。

 

 右頬に違和感を覚えた源吾郎は、その部分に指を添えた。頬に触れた指先には、赤黒く粘った鮮血が付着している。彼の斜め前に着地した珠彦の顔を見ているうちに、裂けた頬の痛みと、鉄錆の生臭い臭いが鮮明な情報として源吾郎の脳内に侵食していった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る