「強さ」とは一筋縄ではいかぬもの

 驚愕の表情を浮かべる二人の野柴狐の表情は、奇妙なほどよく似ていた。その奇妙さをしみじみと感じ取りながら、源吾郎はカップの中にある薬湯をぐっと呷った。

 実際にはゆっくりと飲んだ方が良いのだろうが、匂いからしてじっくりと味わう性質の物ではないと源吾郎は判断を下したのだ。

 果たしてその判断はある意味正しかった。紅藤が用意した薬湯はお世辞にも美味しいと言いがたい代物だったのだ。何故か程よくトロミのついたその液体は、全体的に苦く、ところどころ山菜に見られるようなえぐみさえあったのだ。これらの味の間に甘味が妙な塩梅に絡みついており、何とも名状しがたい味わいをもたらしていた。


「その薬湯は、昂った神経を鎮める効能があるの。自律神経に作用するように調合しているけれど、危ないお薬とかじゃあないから大丈夫よ。ほら、作用は少し違うかもしれないけれど、人間もしんどい時とかにコーヒーとか紅茶を飲むでしょ? ああいう感じだと思ったら良いわ」

「…………」


 源吾郎は喉仏を上下させてはいたが、神妙な面持ちのまま黙り込んでいた。薬湯の奇妙な味が、源吾郎の心の奥底に眠っていた昔日の一幕を呼び起こしたのだ。子供用に調合された薬とは、何故ああも妙に甘かったのだろう。そんなとりとめもない思索の淵に、源吾郎の意識はなかば沈んでいた。


「どうしたの島崎君。浮かない顔をして」


 小首を傾げた紅藤が源吾郎に呼びかけ、彼の面を覗き込んでいる。半妖である実母よりもうんと年上の、しかし少女らしさが見え隠れする師範の仕草に戸惑いつつも、源吾郎は小さく頷いた。


「いえ。ただ単に子供だった時の事を思い出しただけです。情けない話なのですが、僕は子供の頃は虚弱体質ではないのですが度々熱を出して寝込む事がありまして……その時の事を、不本意ながら……」


 源吾郎は全てを言いきらずに視線を床に落とした。今となっては健康活発な青年に育った源吾郎であるが、七、八歳位までは風邪だの熱だので寝込む事がままあった。ままならぬ身体への苛立ち、味が薄いのに妙に生臭い、肉や卵の入った粥、そして子供用の水薬の、甘さと苦さの入り混じった気持ち悪さ――普段は思い出さないようにしているが、ひとたび思い出すと郷愁と嫌悪の混じった、奇妙な感慨に取り込まれてしまうのだ。


「へぇーっ。島崎さんってちっちゃい時は病弱だったんだ……あ、もしかしてそんなだったからスタミナがないとか?」

「スタミナが無いのは単に人間の血が濃いからじゃないの? さっきの試合を見る限り、妖力の保有量と火力は私らとは段違いだったわよ。『小雀』じゃなくて『荒鷲』に居てもおかしくないレベルだと思うわ」


 珠彦と鈴花は互いの顔と源吾郎を交互に眺めながら意見交換を行っている。そりゃあまぁ二十歳未満で四尾になっている狐が虚弱体質だったなどと誰が信じるだろうか。当事者だって信じられない気分なのに。

 ところが、師範でありこの場ではうんと年長である紅藤は、源吾郎の病弱だった発言に特段驚いた素振りは見せていなかった。


「島崎君は生粋の妖狐や人間ではなく、両方の特徴があるものね。島崎君の、半妖やクォーターの身体は、言ってみれば狐の特徴が濃い部分と人間の部分がパッチワーク状に合わさっているような物なの。身体の部位によって狐の特徴なのか人間の特徴なのか違うから、それが身体の負担になっていた可能性は考えられるわ。特に島崎君は、妖狐としての特徴が兄姉たちよりも強かったから、余計にその影響が出たんじゃあないかしら。

 ただし、島崎君は妖力も他の子に較べて多かったから、成長するにつれて身体的な負荷を妖力でカバーしているとも考えられるわ」


 紅藤の解説を、源吾郎は二人の妖狐と共に静かに聞き入っていた。生粋の妖狐である珠彦らにはそれこそ「他妖事ひとごと」であろうが、源吾郎にしてみれば思い当たる節があったためだ。

 源吾郎自身の大まかな外観は、尻尾を除けば若き日の父・島崎幸四郎に生き写しである。しかし彼は、良くも悪くも妖狐の特徴を多分に受け継いでいた。妖狐の特徴を色濃く受け継ぐ事により、源吾郎は人間よりも優れた身体能力や感覚を具えていた。その一方で、妖狐の特徴が濃いゆえに、人間たちが好む味の濃い食事で体調を崩すという体質の持ち主でもあったのだ。しかも厄介な事に、源吾郎の味覚は人間に近かった。


「……繰り返すけれど、島崎君も野柴君も今日と明日はあんまり動き回らず無理をしちゃあ駄目よ。島崎君の方は鍛錬は明後日から再開しましょうか。野柴君に関しては、私から萩尾丸に言っておくわ」

「その件に関しては大丈夫だと思います雉仙女様。萩尾丸様は今VTR上映会を行ってますし、明日はそれに関する感想文と筆記試験らしいので……私たちは欠席ですが、その分VTRを購入して、家で見るように言われております」


 礼儀正しく告げる鈴花の顔を、源吾郎は渋い顔で見つめていた。戦闘訓練の前に、萩尾丸がVTR上映会がどうとか言っていたのを思い出したのだ。内容は知らないが主催者が萩尾丸というだけでどんな内容であるかおおよそ想像がつく。IT社長よろしくポーズを取りながら、おのれの功績を語る萩尾丸の姿が三時間半にもわたり延々と垂れ流されるような代物なのだろう。


「雉仙女様っ。思ったんですが僕らに療養をお願いしてますが、回復術なり体調を整える薬湯なりで僕らを元気な状態に戻す事って出来ないんでしょうか?」


 スフィンクス座りの珠彦の問いに、紅藤はにべもなく首を振るだけだった。


「野柴君。回復術というのは実はとても難しい術なのよ。自分の妖力で自分の肉体を再生させるのはさほど難しくはないけれど、妖力の量も質も違う相手に妖気を注ぎ込むのは、本当はとても危険な事で、それこそ生命に係わる事だってあるくらいよ。

 それに、疲れ切ってクッタクタなのに、飲めばすぐに元気になれるって言うのもそれはそれで危険よ。野柴さんたちも島崎君も、大人たちから薬物濫用は危険だって、耳にタコができるほど耳にしたんじゃあなくて?」


 紅藤のこの言葉に、源吾郎と鈴花は素直に頷いた。研究者たる紅藤が、生物学だけではなく薬学に精通している事、組織培養の傍ら何がしかの薬品を作ってあれこれ調査している事を直弟子たる源吾郎は知っていたのだ。

 ところが珠彦は不思議そうに目を輝かせ、白い牙を覗かせながら口を開いた。


「まさか雉仙女様の口からそんな話が出て来るとは思わなかったっす。噂によれば、ドーピングによって雉仙女様は大妖怪になったんすよねぇ?」


 珠彦の口調は軽妙だったが、周囲の空気が一変するのを源吾郎は肌で感じ取った。まず劇的に変化したのは紅藤の雰囲気だった。一泊遅れて事態を感じ取った鈴花と源吾郎も身を引き締めて次の瞬間に何が起きるかとおののいていた。温和でフワフワした雰囲気であるから忘れがちであるが、紅藤は下手を打てばその辺に転がっている大妖怪よりも恐ろしい存在なのだ。機嫌を損ねて珠彦を誅殺する可能性も、あるにはある。


「ええ、


 紅藤はその場で源吾郎たちを見下ろしながら静かに頷いた。彼女が何かをしでかす気配はなかったが、源吾郎はその声を聞きその面を見ているうちに、心中で密かに戦慄を深めていた。彼女の声には感情の昂りは見られずあくまでも冷ややかだった。若き妖狐たちを見下ろす瞳にしても同じだ。暗い紫の瞳を一瞥した源吾郎は、外宇宙の闇を垣間見たような気分になった。彼女は、かつて源吾郎に青松丸を造り出した時の話をしたとき以上に、昏い目をしていた。


「私が持つこの莫大な妖力は、ひとえにかつて私が仕えていたお方が調合された、仙薬を目指しつつも仙薬ではなかった何かによってもたらされたに過ぎません。本来ならば数千年もの歳月を費やさなければ得られない力を手に入れたその時、私は未だ百歳にも満たない、矮小な雑魚妖怪に過ぎませんでした」


 表情がほとんど抜け落ちたような、紅藤の青白い顔を、独立した生物のようにうごめく桜色の唇を源吾郎は茫洋と眺めていた。郷愁と悔悟、悲憤と憧憬。様々な感情が無表情の仮面の裏で渦巻き爆発しつつあるのを源吾郎は感じ取っていたのだ。

 妖狐らの視線は全て紅藤の顔に向けられていた。全員真顔である。源吾郎や鈴花は言うまでもなく、発端となった珠彦さえも、事態の重大さを把握したらしい。

 若く幼い、ともすればおのれの子ではなく孫と呼んでも良いほど年の離れた妖狐たちの視線を受けた紅藤は、頬を動かして笑みを作った。源吾郎にはもはや馴染み深いものとなった無垢な笑みではなく、隠しようのない虚無感と寂寥感が滲み出た笑顔だった。


「――若い子たちの言葉を借りれば、私が得ている能力は文字通り『チート能力』と呼んでも遜色ないでしょうね。ええ、並び立つ好敵手すらおらず、『無理を通せば道理も引っ込む』を地で行くような能力の事を『チート』と呼びならわしている事は私も知っているわ。

 それに、そもそもこの私の力は、私自身の努力によって得たものではないわ。他の妖怪たち、鍛錬と研鑽に励み艱難辛苦を乗り越えたひとかどの妖怪の皆様に、『お前の能力はだ!』と言われても、私は大人しく頷くほかないの。元来、チートというのはイカサマを示す言葉であるので」

 

 現実世界で自分の能力をチートだと言及する者がいたとは。紅藤の主張を聞き終えた源吾郎は、ぼんやりとそんな事を思った。単行本文庫本のみならずウェブ上の小説もたしなむ源吾郎であるから、ある種の作品の中で頻出するチートがどのような意味を持つかは知っていた。しかしまさか眼前で、ここまで深刻にチートに関する話を聞けるとは夢にも思っていなかった。灯台下暗し、真実は小説より奇なりというものであろうか。


「だからこそ、私は峰白のお姉様を立派な妖怪であると心底から認め、尊敬し、姉として慕っているの」


 峰白。紅藤の義姉の名を聞いた妖狐たちは、ぶるっと身を震わせ互いに顔を見合わせた。峰白もまた紅藤とは異なったベクトルで恐ろしい妖怪である。「敵はぶち殺せ宣言」を繰り返すから、などと言う生易しい理由ではない。目を付けた獲物を鷲掴みにした挙句、高笑いの末に八つ裂きにしてしまうような、猛獣的もとい猛禽的な荒々しさを感じさせる女妖怪なのだ。

 紅藤と峰白は姉妹の間柄にあるという事だが、彼女らの雰囲気や恐ろしさはいっそ真逆と言っても過言ではなかった。優しく穏やかな物腰ながら、余人には理解しかねる豊かな混沌を育みたゆたう守護者。苛烈で冷徹な態度を貫き、おのれの定めた秩序の道を敷く為に血と肉片に塗れる事すら厭わぬ圧政者……姉妹の友誼を結んでいる者同士としては、余りにも違いすぎる。いや、真逆の性質であるからこそ、一つの目的のために団結し、事を成就できたのかもしれない。


「峰白のお姉様は、元々は身寄りのない、しかし突然変異にて妖怪になってしまったお方なの。お姉様の妖力は紛い物でも借り物でもなくて、あのお方自身が培ってきたものよ。

 さきの訓練の時に、弱者はまざまざと強者の喰い物になるわけではないと、峰白のお姉様は仰っていたでしょ? それは峰白のお姉様がかつて弱者であった事もあり、尚且つその状態から力を蓄えて強くなったという事の他ならぬ証拠に過ぎないの。

 島崎君もご存知の通り、私からはそういう忠告は無かったでしょ。それはやらなかったんじゃあなくて私にはからなのよ。若いうちから妖力があって何があっても死なない事が当たり前になってしまっているから」


 紅藤は一度ゆっくりと瞬きをすると、今一度源吾郎の顔を見据え、それから珠彦、鈴花と視線をスライドさせた。


「私の話は若いあなたたちには難しかったと思うけれど、心構えも無いのに唐突に力に恵まれても碌な事にならないと、そう思ってくれるだけでいいの。若いうちは確かに自分の力の足りなさに落胆する事もあるでしょうけれど、真に立派な妖怪になるためには、それこそが必要だと私は思っているわ」


 相も変わらず神妙な面持ちの妖狐たちを一瞥すると、紅藤は珍しく底意地の悪そうな笑みを浮かべ、今一度口を開いた。


「――それでも仙薬とかで手軽に強くなりたいって強く望むのであれば、あなたたちのために調合してあげるわ。但し、妖力を維持するための器が小さいままなのに莫大な妖力を得てしまったら、それこそ細胞の一つ一つが分離するような苦しみを、重篤な副作用をもたらす事になるけれど、ね。それでも構わないというのならば、遠慮なく言って頂戴」


 紅藤のある種の禍々しさをはらんだ言葉を聞き終えた源吾郎は、はっとして彼女の顔を仰ぎ見た。紅藤が大妖怪ながらもやや虚弱で多くの休息と食事を求める理由が何故なのか、この時悟ったのだった。

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