闘いも講義も終わりて友を得る

 紅藤のいつになく不気味な笑みを眺めていた源吾郎と野柴狐たちだったが、いつの間にか彼らの視線は紅藤ではなく互いの顔に向けられていた。緊張したように琥珀色や茶褐色の瞳が向けられ、背中に貼り付いた引っ付き虫を払い落とすように小刻みに震えながら笑った。


「べ、別に僕は強くなる薬なんぞに興味はありませんよ、紅藤様」


 そうして声を上げたのが源吾郎であった。紅藤の脅しめいた言葉におののいてもいたが、しかし源吾郎の偽らざる本心である事もまた真実だった。


「ご存知の通り、僕は玉藻御前の曾孫です。僕は確かに強くなる事を求めておりますが、あくまでも僕自身の力を磨き上げて強さを得、その先にある栄光を掴み取りたいのです。紅藤様、紅藤様ならお解り、です……よね……?」


 おのれの血統と矜持について熱く語っていた源吾郎だったが、紅藤の表情が変化したのを見てその言葉はしりすぼみ気味になってしまった。紅藤は先程までのおどろおどろしい表情を引っ込め、年長者らしい和やかな笑みを向けていた。源吾郎はその事に気付き、気恥ずかしくなってしまったのだ。

 源吾郎は軽くうつむき瞬きを繰り返す。傍にいる妖狐たち、野柴珠彦と野柴鈴花の視線が絡みついているのをたっぷりと感じながら、今一度顔を上げた。心臓の鼓動が早まり、口の中が乾いて喉がひりつき始めた。それでも紅藤には問わずにはいられない。


「紅藤様。僕の、僕の戦闘訓練をご覧になってどう思われましたか?」

「よく頑張った、と私は思っているわ。もちろん、野柴君も」


 当惑の色を隠し切れぬまま源吾郎は紅藤を仰ぎ見ていた。頑張ったというのが本心なのか世辞なのか、今の紅藤の表情からは読み取るのが難しかったのだ。いや、実のところ源吾郎の中では結論は出ていた。


「ああ、実にお優しゅうございますね紅藤様。末弟子の僕に気を遣ってくださるなんて。ですが、ですが正直に仰って下さい。玉藻御前の曾孫とは思えぬほど情けない戦いぶりだったと、英雄などではなく単なる道化に過ぎなかったのだと」


 珠彦と鈴花がどんな表情でこちらを見ているのか。源吾郎には解らなかったしどうでも良かった。ともかく今回は、師範である紅藤が何と返すか。ただそれだけだった。

 源吾郎が仰ぎ見た先、紅藤の白い面は源吾郎以上に当惑と呆れの色に染まっていた。彼女はあからさまにため息をつくと、源吾郎を見下ろし唇を開いた。


「私は別に、先の試合での島崎君の闘いぶりが情けないとか滑稽だなんて思っていないわ。むしろ――今そうやって過去を曲解し、謙遜と卑屈をはき違えてしまった今の振る舞いこそが、滑稽な道化のように、私の眼には映っているわ」


 心臓が何かに強くたたかれたような気分になり、源吾郎は目を見張った。峰白の苛烈な文言や萩尾丸の炎上必至の煽りトークには慣れていると思っていた。しかし師範である紅藤の言葉は、時に途方もない鋭さを持って源吾郎に突き刺さってくるのだ。日頃より温和に振舞っている事もあるのだろう。だが穏やかな笑みの裏に隠された、鋭い洞察力のなせる業なのだと源吾郎は思っていた。


「どんな妖怪と闘うにしろ、島崎君は初陣で必ずや苦戦するという事は既に私は見抜いていたのよ。それは峰白のお姉様や萩尾丸も同じだったわ。いえ、少し違ったわね。峰白のお姉様は血筋と能力が良くても流血と危機が迫らねば妖怪としての成長はありえないというお考えの持ち主ですし、萩尾丸に至っては、ワンサイドゲームでフルボッコになる結末を予想していたようです……フルボッコになるのは、島崎君の方ですがね」


 源吾郎はどう反応すればいいのか解らず、間の抜けたような息を吐くのがやっとであった。先程の紅藤の言葉が世辞ではない事は明かになった。それにしても、峰白も萩尾丸もほとんど期待していなかったという事が明らかになった。萩尾丸は言うに及ばず、峰白も源吾郎が相手を害するどころかむしろ窮地に追い込まれる事を見抜いていたという事か。彼らはそれをも見越したうえで、源吾郎に発破をかけていたのか。

 視界の端でキツネ色の物体が動く。伏せていた珠彦が、上半身を起こして座りなおしたようだった。前足の肉球をクロスさせた、小粋な姿勢である。


「ボスはこうも言っていたっす。島崎さんは玉藻御前の末裔で雉仙女様の訓練を受けているけれど、実は兄弟喧嘩を知らないお坊ちゃまだって。まぁ、島崎さんと闘いたいって言う妖怪が中々出てこなかったから言い足したんすけどね」

「先輩、そんな事まで皆に吹聴していたのか……」


 おのれ、今度萩尾丸先輩に出会ったら天狗じゃなくて妖怪ろくろ男と呼んでやろう……妙な復讐心を胸にくすぶらせる源吾郎の耳に、珠彦の更なる問いかけが入り込んだ。


「で、島崎さんが兄弟喧嘩を知らないお坊ちゃまって本当っすか?」


 珠彦はベッドの端を尻尾で叩きながら質問を投げかけた。小動物よろしく小首をかしげる様はなるほど可愛らしかったが、源吾郎は鼻を鳴らしつつそれを見下ろすだけだった。


「全く、上司たる萩尾丸先輩に面白おかしく教えられたとはいえあんまりじゃあないか。俺がお坊ちゃまだと見做されているのは仕方ない事として、俺とて兄弟喧嘩が何であるかという事くらいは知っているよ。あれだろう? 世間の、一般家庭ではプリンだとか何かのおやつを取った取らないとかで勃発するようなものだろ」


 源吾郎の返答に珠彦は目を丸くし、それからついと首を横に向けて鈴花と顔を見合わせる。今再び源吾郎に視線を戻した珠彦は、狐姿ながらもあからさまに笑っていた。


「あはは、やっぱり島崎さんは兄弟喧嘩をご存じない……いや兄弟喧嘩を行った事がないみたいっすね。さっきの言葉で丸わかりっす」


 そういうものなのだろうか。源吾郎は珠彦の瞳を見つめながらぼんやりと思った。とはいえ源吾郎が兄弟喧嘩を行った事が無いのもまごう事なき事実だった。喧嘩というのはそもそも立場や精神的なものが近しい者同士でなければ成立しない行為である。

 最も歳の近い末の兄である庄三郎でさえ源吾郎よりも七歳上なのだ。源吾郎が自我を育み反抗期を迎えた頃には、向こうはとうに少年時代を終え、いやいやながらも大人になり始めているという塩梅である。

 もちろん源吾郎も生意気で耳年増でこまっしゃくれた子供であったから、兄姉らに反抗し、彼らから反論を受けた事もままあった。しかしそれらのやり取りさえも兄弟喧嘩たり得ず、「庇護者の生意気とそれを諭す保護者の図」でしかなかったのである。

 源吾郎はだから、クラスメイトや部活の仲間が語る兄弟とのやり取りを聞くたびに別世界の出来事のように思う事が常だった。彼らが兄弟姉妹にためらいなく食って掛かり相争う事が不思議でならなかった。というよりも、そもそも兄弟の年齢差が小さい事自体が奇妙な事だと思う性質だったのだ。年かさの兄姉らは押しなべて独り身であり、母方のいとこもいない源吾郎にしてみれば、年下の親族というのは未知の存在だった。厳密には父方の従姉のが該当するのだろうが、遠縁すぎて接点など皆無だ。


「ともあれ、戦闘で雌雄を決するのは、何も妖力の多さではないという事よ。最終的には、心と頭の問題になるわね。相手の攻撃をやり過ごしやり返すための機転と、どのような状況になっても揺るがずたじろがない心がないと勝負を制するのは難しいでしょうね。その辺りは、私が偉そうに言える事ではありませんが」


 結局心の問題に帰結するのか……源吾郎は何も口にしなかったが、頭の中でそんな事を思っていた。しかしそうなるとやはり初めから勝負が決まっていたような物なのだ。珠彦がどういう気持ちであの試合に臨んだのかは、源吾郎には正確には解らない。しかし少なくとも源吾郎よりも冷静な心持であった事だけは確かだ。というより、戦闘訓練を間じゅう、源吾郎が冷静だった瞬間が無かったと言った方が正しいであろう。


「……勇気を奮って戦闘訓練に参加して良かったじゃないか、野柴君。俺はさておき、君は勇敢な妖怪として、同僚たちに一目置かれるようになった。そうだろう? しかもちゃっかり尻尾も増えているし」


 源吾郎の視線は珠彦に向けられていた。紅藤に毛皮の手入れもしてもらったのか、怯えて倒れた時と異なりキツネ色の毛並は輝かんばかりの艶を見せている。そして気まぐれにうごめく尻尾は、今は一本ではなく二本に増えていた。


「確かにそれは、島崎さんの指摘通りね」


 源吾郎の言葉に応じたのは、珠彦ではなく鈴花だった。彼女は複雑な表情で源吾郎と珠彦とを交互に眺め、言葉を続ける。


「確かに二人が倒れた時、私も含めて驚いてうろたえたわ。だけどドクターたちから生命に別状なく大事にも至ってないと解ると、仲間内から珠彦兄さんの勇敢さやポテンシャルの高さを称賛する声がちらほらと上がり出したの。私たちの眼には、珠彦兄さんが四尾の狐、それもクォーターと言えども玉藻御前の末裔とほぼ互角の戦闘をこなしたわけだから」

「……確かに野柴君は強かったよ。僕が戦闘慣れしていない事を差し引いても」


 源吾郎は深々と息を吐き、思案の淵におのれの意識をシフトさせた。妖怪は強い者が尊ばれ、祭り上げられる。しかしそれは弱い妖怪がないがしろにされる事と同義ではない。強い者が弱い者をかばい立てする事とて珍しくないし、弱者は弱者ゆえに互いに協力し合い、どうにか生き延びようとするのが世の常だ。

 ともかくこの度の戦闘訓練で、野柴珠彦が高く評価されるのは何もおかしな話ではないのだ。一尾の少年が、ふんぞり返らんばかりに尊大な四尾の若者に立ち向かい、闘いを挑む――一尾の勝敗がさておき、誰だって一尾を応援し、彼の勇敢さを称賛したくなるだろう。それが鼻持ちならぬ四尾と互角に渡り合えたのならばなおさらだ。


「ふふふ、真の英雄は野柴君だろうよ。勇敢だし、強いし、それに何より賢いじゃないか」

「ア、ハハハ……ありがとうっす。島崎さん」


 源吾郎の心からの言葉に、珠彦は笑いながら礼を述べた。無邪気な笑みでもなく、獣じみた笑いでもなく、気恥ずかしさが見え隠れする笑い方だった。


「ああ、だけど島崎さんもすごかったすよ。別に、玉藻御前様の子孫だからって気を遣って言ってる訳じゃあないっす。僕はそこまで頭が回らないし、考えが足りないって弟たちや従弟たちからも言われてるし。

 島崎さんの技で一番すごかったのは、やっぱり変化術っすね。あの恐ろしさ、獰猛さを見事に再現した柴犬軍団には、さすがに僕も肝を潰したっす」


 口早に珠彦は言うと少し首を傾げ、不思議そうに両の瞳を輝かせながら言い足した。


「もしかしたら、島崎さんがもっと早い段階であの柴犬の術を使っていたら、もっと早く勝負が決まっていたかも知れないっすよ。最初なら妖力も大分残っていたでしょうから、柴犬だけじゃあなくて、ジャーマンシェパードとかピットブルとか物騒な犬も……出せた……かも」


 珠彦はそこまで言うと急に口をつぐみ、ぶるっと身を震わせた。犬がすぐ傍にいるところでもイメージし、急に怖気が来たのだろう。

 源吾郎は源吾郎で、一人で勝手に怯える珠彦に複雑な眼差しを向けていた。確かに、犬を変化術で顕現させた際の珠彦の怯えようは尋常ではなかった。確かに彼の言う通り、すぐに勝負を決めようとするのならば、初めから変化術を行使し、種々雑多な犬の幻影で珠彦の戦意を削ぐのが正解だったのだろう。

 とはいえ、そんな事を今になってからあれこれと考えても詮無い話であろう。狐火と尻尾の攻撃でもって珠彦を圧倒しようという考えであの時は頭がいっぱいだったのだ。それに変化術はあくまでも手慰みの術であり、戦闘に用いるような術ではないという思い込みが源吾郎の頭の中にはあったのだ。


「それもそうかもしれないがなぁ……まさか変化術で勝敗が決まるなんて、思ってもいなかったからさ」

「妖怪同士の闘いも気合とかが重要っす。そりゃあ、びっくりしたり驚いたりするって言うのを狙うんであれば有効っすよ。変化術が苦手な妖怪は、変化術が出ただけでも驚いちゃうもんなんすよ。僕みたいに」

「そう言うものなのか」

「そう言うものっすよ」

「そう言うものかもね、確かに」


 珠彦と鈴花が顔を見合わせつつ頷くのを、源吾郎は不思議な気分で見つめていた。そりゃあ人であれ妖怪であれそれぞれ得意分野が違う事は源吾郎だって知っている。それでも、自分が気軽に行った術の方が、渾身の力で振るった技よりも勝敗を決する鍵になっていたという事実を中々把握できなかったのだ。


「勝敗はさておき、今回の訓練で島崎君も色々と勉強になったんじゃあないかしら」


 紅藤はすました表情で源吾郎と珠彦の顔を眺めながらそんな事を言った。


「同年代・同種族の妖怪同士であったとしても、得意とする技や苦手なものはそれぞれ異なっているの。基本的には、まんべんなく全ての能力を底上げ出来たらいいのかもしれないけれど、得意な事を青天井に伸ばしていく一点豪華型も捨てがたいわ。この術だけは右に出る者はいないってくらいになるって言うのも、中々気持ち良いものよ」


 自分の説明が気に入ったのか、ゆるくほほ笑む紅藤の頬にはわずかに赤みが戻っていた。紅藤様もある意味一点豪華型かもしれないと源吾郎は思ったが、ツッコミは入れなかった。


「この度野柴君の戦闘で解ったけれど、島崎君は表立って攻撃するよりも、策を弄して相手を攪乱する術の方が相性が良いかもしれないわね」

「えぇ……」


 非難の声にならないように注意したものの、源吾郎の喉からはため息とは言い切れない声が漏れてしまった。紅藤の視線は、その間に未だ狐姿の珠彦に向けられる。


「まぁ、今後何回か様子を見ないとはっきりとした事は解らないかもしれないけどね。野柴君は妖狐の中でも特に身体能力の強化に秀でた子だから、島崎君が好んで使った攻撃術は、確かに相性が悪かったでしょうね」

「そうっす。僕はすばしっこく動いたり、身体を硬くして身を護る術ばっかりで、狐火とか変化とか狐らしい術は実は苦手なんすよ」


 耳を前後に動かし、鼻先を真下に向ける珠彦は、何とも気まずそうな調子で告げた。


「僕はばっちゃんの弟似らしいんす。大叔父さんは若い頃その体質を活かして、見世物小屋で働いて大儲けしたって聞いた事があるっす。槍や刀剣も跳ね返すし、鬼が全力で斧を振るっても、傷一つつかなったそうっすよ」

「なんかすごいなぁ、色々と」


 素直に嘆息する源吾郎に対して、珠彦は笑いながら首を振った。どことなく切なげな表情でもあった。


「まぁ確かに大叔父さんは荒稼ぎもして良い暮らしをしてたみたいなんすけど、ばっちゃんやばっちゃんの兄弟たちからは総スカンを喰らってたらしいっすよ。お金がありすぎて素性の悪い野良の女狐をとっかえひっかえして結婚もしなかったって言ってたし、結局贅沢三昧な日々が祟って、でぽっくり逝っちゃったって」


 源吾郎は瞬きを二、三度行ったが、何をどう言えば良いのか解らなかった。身を硬くする術を極めた妖狐が動脈硬化で生命を落とした。性質の悪いジョークだと笑い飛ばしてしまうのを、源吾郎は押しとどめるのがやっとだったのだ。成程エッジの利いたジョークだとは思うが、知り合いの血縁者の末路を笑う程源吾郎も無神経ではない。

 きっと野柴君の大叔父様は、動脈硬化から心筋梗塞になってしまったんでしょうね。紅藤が大真面目な様子で解説してくれたので、気まずかった空気が少しマシになった気がした。


「そんな訳で、亡くなった大叔父さんに似ている僕は、やがて放蕩狐になるんじゃないかって身内から心配されてたんすよ」


 珠彦はそこまで言うと、もぞもぞとせわしく身を震わせた。彼の姿がぶれ、一瞬ののちにはキツネ色の頭髪の、二本の尻尾を生やした人間の少年の姿になっていた。


「ああ、だけど島崎さん。今日は島崎さんに会えて、でもって手合わせもできて良かったっすよ。みんなも、僕の事をある程度は敬ってくれるだろうし、島崎さんが結構面白くて良いひとだって事も解ったし……良ければ、友達になってくれたら嬉しいっす」


 唐突な申し出に、源吾郎はきょとんと眼を見開いた。つい先程まで訓練と言えど互いに感情をむき出しにして相争った間柄である。向こうは親しみのような物を感じてくれているが、あまりにも唐突ではないだろうか。

 そう思って視線をさまよわせていると、安心した様子を見せる鈴花や、ほほえましいものを眺めたと言わんばかりの紅藤の顔が視界に入り込んできた。彼女らの表情を見ているうちに、珠彦と友達になるのもまんざら悪い事ではないと源吾郎も思い始めていた。源吾郎にしてみても、珠彦から妖怪の世界を教えてもらう機会を得る事になるわけであるし。

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