若狐 金丹前になに思う ※暴力表現あり

つい今しがた若い客が暴れだし、黒服に半ば強引に連行されていったわけだが、他の客人たちはそれを気にする素振りは無かった。源吾郎は心のざわめきをはっきりと感じていた。急に訳の解らない事を言って暴れだす輩が出るのも怖いが、それ以上に無関心を決め込む客やスタッフたちも不気味だ。


「大丈夫ですよ、島崎さん」


 サヨコが源吾郎の顔を見上げながらささやいた。源吾郎の腕に絡む彼女の腕が動いた気がした。心臓の鼓動が早まり、ついで血圧が上昇した気がした。しかしどうすれば良いのか、源吾郎には皆目解らなかった。末息子・末弟である源吾郎は父母や兄姉たち(特に長兄)から色々な事を教えてもらいながら育った。しかし今直面しているような状況の時どうすれば良いか、そういう事は教えて貰っていない。源吾郎はあれこれ考えたのち、なすがままにする事にした。ガツガツいかずに流れに任せた方が良い時もあると源吾郎に言ったのは、確か叔父の苅藻だったはずだ。


「どうしてもお酒が入っちゃうと、ああいう若い男の人が暴れちゃう事もあるの……だけどうちの黒服さんは強いし訓練されてあるから、ああしてすぐに問題を解決して、私たちを護ってくれるわ」

「そうなんだ。それなら安心だね」


 上目遣い気味にこちらを見つめるサヨコを、源吾郎は思わず凝視していた。サヨコが整った容貌の持ち主である事はとうに解っていた。しかしこうしてうるんだ瞳で見上げられると、何とも言えない気持ちが込みあがってくる。それが彼女に対する愛しさなのだろうと源吾郎は勝手に思っていた。もはや彼女がどう思っているのかなどはお構いなしである。


「さぁさぁ皆様、今回は飛び入りの挑戦者が来ております! しかも、しかもその挑戦者は皆が知っている大妖怪の末裔というビッグ・ネーム! 連勝のチャンピオン・オークプリンスとの闘いは、もう見逃しちゃあ駄目ですよ」

 

 襟元を黒い羽毛で飾り立てるスタッフの声に呼応するように、群衆たちが歓喜の声を上げる。隣のサヨコは声を挙げたりはしなかったが、明らかに頬を火照らせ興奮しているようだった。

――大妖怪の末裔って誰かな。酒呑童子様の子孫だろうか。酒呑童子様って子供とか孫っていっぱいいるらしいもんなぁ。

 源吾郎はのんきにそんな事を考えつつステージを見ていた。しかしステージに誰かが入り込む気配はない。

 次の瞬間、源吾郎は思わず目を閉じた。スポットライトの白い光が、源吾郎の顔に無遠慮に向けられたのだ。光の強烈さは大したもので、まぶた越しにも光の余韻が判るほどである。


「そうです! 本日このぱらいそには九尾の末裔の一匹が来ているのです! さぁ来てください島崎源吾郎さん!」


 源吾郎の顔面に向けられたスポットライトはもうない。両目にぼんやりとした光の余韻を感じつつも、自分があからさまに名指しされているという事に源吾郎は考えが至った。しかしどうすれば良いのか解らない。どうするも何もステージに向かうのが正しい行動だろう。しかし唐突な事だったので身体どころか脳内が一瞬フリーズしてしまったのだ。

 その源吾郎の背を押す者がいた。絡めていた腕を外し、斜め後ろに控えていたサヨコだ。


「指名が入っているわね島崎さん。緊張なさっているでしょうけれど、頑張って活躍なさって」


 可憐なサヨコの面に笑みが拡がる。あどけなさの残る面立ちにそぐわぬ妖艶さを秘めたその表情を、源吾郎は呆然と、いや陶然と見つめていた。その澄んだ瞳に源吾郎の間抜けな表情を映しながら、サヨコは言い添える。


「非力ながらも私は応援しているわ」

「サヨコちゃんありがとう」


 源吾郎は小声で、しかし決然とした口調で礼を述べた。ドラマの主人公ならばここでサヨコを抱きしめるところであろう。だが源吾郎はそんな事はせず自信たっぷりの笑みを浮かべるだけに留めておいた。



 白く眩いスポットライトの下に立った源吾郎は、能面のような表情で周囲を睥睨するのみだった。こうして高い所から皆から見上げられる事を夢見ていた源吾郎だったが、実際にその場が巡ってくると、嬉しいのか楽しいのか、戸惑っているのか困っているのか解らなくなってしまう。

 おのれの感情が何であるかは解らないが、脳裏には過去の情景が浮かんでは消えていた。主に演劇部に所属していた時の頃の思い出ばかりだ。体育館のだだっ広いステージの上での三文芝居、高校の部室の隅で、主演のイケメンが活躍するのを見届けたあの思い出、そして人生最後の、演劇部員としての活動だ。いずれも共通するのは、スポットライトの白々しいほどに眩しい光だった。

 それらの後に、源吾郎は何故か庄三郎に連れられてギャラリーに赴いた時の事をも思い返していた。自分の作品がギャラリーに展示される事になると、庄三郎は源吾郎をなだめすかしたり丸め込んだりしてギャラリーの会場に連れて行った。末の兄は概ね、ギャラリーの隅に隠れたがっていた。作品を保護するために、ギャラリー内ではそう強い光が使われる事は無い。しかし橙色の柔らかな光の下でも、庄三郎はけだるそうに目を細め、隠れる場所を探そうと必死だったのだ。

 源吾郎は一瞬だけ顔をしかめ、それから周囲を確認した。末の兄の表情を思い出した事。皮肉にもそれこそが、今の彼の中で一番鮮明な感情だった。

 さて源吾郎はぎこちない様子で首を巡らせ、オーク男と向き合う形を取った。オーク男は源吾郎の視線を受けると唇を左右に広げた。唇の隙間から尖った歯が露になった気がして源吾郎はどきりとした。向こうが笑みを浮かべているのだと気付くまでに、およそ数秒の時間を要した。


「は、はぅでぃ……」

「は、は、は……」


 右手を挙げた源吾郎のか細いあいさつに、オーク男は口を開けあからさまに笑った。焔や血のような紅い口の中が露になっている。源吾郎はしかし少し冷静さを取り戻していた。恐ろしげに見えるものの、オーク男が単に笑っているだけである事にようやく気付いたためだ。


「英語に詳しいみてぇだな、狐のぼうず。だが大丈夫だ。おらぁ日本語もちゃんと話せるし、言ってる事も解る」


 落ち着いた様子で語るオーク男の言葉が終わるや否や、ほうぼうで笑い声がどっと沸いた。源吾郎が早合点して慣れない英語を使った事を笑っているのか、プリンスと称されるオーク男の少し野暮な日本語を笑っているのか源吾郎には解らなかった。解るのは自分は笑ってはいない事だけだ。サヨコちゃんが笑っていなければいいと思っただけだ。


「おめぇさんは、ナイン……いや九尾の子孫なんだな」

「はい。かつて妲己や玉藻御前と呼ばれ恐れられたお方の……直系の曾孫です」

 

 応じる源吾郎のその顔には、彼が持ちうる精悍な態度が戻っていた。何のかんの言って、彼の心中には「玉藻御前の曾孫である」というものがど真ん中にあるわけなのだ。


「さて皆様、これから我らがオークプリンスと、玉藻御前の末裔という誉れ高い血統の持ち主である島崎源吾郎君の一騎打ちを行って頂こうと思っております!」


 襟元を羽毛で飾った黒服が言い切ると、今一度ステージの周囲で声が上がる。先程マッチョ狐とオーク男が対戦した時よりも歓声は大きかった。そりゃあそうだろう。あのマッチョ狐はただの狐に過ぎなかったが、源吾郎は本物の玉藻御前の末裔なのだから。

 もっとも、源吾郎も歓声を受けてただただ喜んでいるだけでもなかった。これから始まる一騎打ちという言葉に戸惑いを抱かなかったかと言えば噓になる。何しろ自分は妖力は潤沢にあれど戦闘慣れしていない。それに向こうは百戦錬磨っっぽい感じの戦士のようだ。あのマッチョ狐のように、ボッコボコにされて終わるのではないか? そのような不安も心の隅で顔を覗かせていた。

 群衆の完成は少し落ち着き始めている。どちらに賭けるか、みたいな言葉が飛び交っている。源吾郎は斜め後ろに気配を感じ、首を傾げつつ振り返る。黒服の一人がいつの間にか源吾郎の傍に控えていた。目が合うと恭しく目礼し、右手に捧げ持つ物を源吾郎に手渡してきた。それは飴玉程度の大きさのものを、薄い包装紙でくるんだものだった。包装紙が半透明なので、くるまれた物体の鈍く輝く金褐色の表面が透けて見えている。


「こちらは金丹丸です」


 妖狐らしいその黒服は、すました表情で源吾郎に教えてくれた。金丹丸。脳裏でその単語を反芻していると、黒服は歌うように言葉を重ねる。


「本来ならば有料なのですが、島崎様は九尾の末裔ですしこの度の優待客ですから……こちらの金丹丸の料金はご心配なく。どうぞお納めください」

「あ、ありがとうございます」


 源吾郎は金丹丸を受け取り、数秒考えてからこれをポケットに収めた。すぐに飲むつもりはなかったためである。黒服は驚いたような表情を浮かべ、目を丸くしている。


「おや、お飲みにならないんですね」

「……お返ししたほうが良いですか?」

「いえ、それには及びません。ただ……地力で闘われるおつもりという事ですね」


 その通りですね! その意思を込めて源吾郎は強く頷いていた。


「金丹丸がスゴそうなお薬である事は僕も十二分に先の試合で解りました。ですが、金丹丸で強くなってしまえば、勝負の先が見えてしまいそうなので、ね」


 源吾郎はそれこそ九尾らしい笑みを黒服に向けていた。黒服は源吾郎の笑みに毒気でも感じたのか、戸惑ったような笑みを返すのみだった。

 そんなやり取りが行われている間に、雷鳴が轟くような笑い声がステージを震わせる。声の主はオーク男だった。


「はっはっは……中々に気骨のある漢じゃないか、ぼうず。そういう奴ぁ、おらぁ大好きだぜ」

「喜んでいただき光栄です」


 そそくさと黒服はステージを降りていく。源吾郎は視界の端でそれを見届けつつ、オーク男にも九尾の笑みを見せつける。四尾を展開し、あえてゆっくりとうねらせてみる。オーク男への、ひいてはステージの群衆へのディスプレイである。


「安心しなぼうず。一騎打ちと言えども殺し合いなんかじゃあねぇ。多少は手加減してやるからな。ああ、あの狐小僧の試合だって、こちとら大分加減したほうなんだ。おたくらが得意とする狐火も使って構わないぜぇ」

 

 さながら強者が弱者を見くびるときのセリフではないか。すぐに激昂したり攻撃の準備を行ったわけでもないが、源吾郎の心には闘志の焔が渦巻き始めていた。

 源吾郎は別に愚か者ではない。ある面では知恵が回る部分さえある。ただ煽り耐性が低いだけだ。



 戦闘は数分で終了した。オーク男の言う「手加減」とやらは本当の事だった。事実源吾郎は特段怪我はなく、しいて言えばオーク男の攻撃を防ぎ時に攻撃を仕掛けた尻尾の筋肉が、打撃によりジンジンと痛むくらいであろう。いや、それすらも本来は異様な事なのだ。尻尾を攻撃の武器として用いる場合、

 源吾郎は半ば無意識のうちに尻尾を強化し簡便な結界を巡らせてもいる。尻尾そのものが硬質化され感覚が伝わりにくくなっているからこそ、ゴムタイヤや鉄板という硬い物でも切り裂き打ち砕く武器になりうるはずだったのだ。そしてこれは、通常の妖狐では考えられないような戦略でもある。妖狐は尻尾を妖力の多さのステイタスと見做しているが、尻尾そのものは鋭敏な神経の集中した急所でもあるためだ。オーク男の打撃は、源吾郎が尻尾に付与していた耐久力を上回っていたという事だ。

 一方のオーク男はもちろん余裕そうな表情である。その肌が若干汗ばんでいる事、ジャケットが一部破れている事を除けばほぼほぼ戦闘前と何も変わらない。無傷だ。彼は源吾郎の尻尾の動きを躱し、はじき返し、迫りくる狐火にも臆しなかった。控えめに言って強かった。


「ま、ここいらで勝負を引き上げるのがよかろう。ぼうず、いやシマザキよ。おめぇは十分強かった。その若さでそこまでたぁ、おらぁびっくりしたぜ」


 オーク男は源吾郎を見ながら言った。源吾郎も尻尾の痛みを度外視すれば実は戦闘の続行そのものは可能である。持久走を行った直後のように、息は上がっていたが。

 黒服は源吾郎たちの戦闘が終わるや否や彼らの許に近付いた。


「どうやら、この度の勝負は引き分けのようでした! 皆様オークプリンスの圧倒的パワーと、若きホープ・九尾の末裔たる島崎源吾郎君に盛大な拍手と喝采を!」


 黒服の高らかな宣言にやはり群衆が沸き立つ。賭けがどうとか言っていたような気もするが、そのような事を口にする野暮な輩はいないらしい。誰も彼もが興奮と喜色に顔を火照らせ、拍手を打ち歓声を上げている。

 言うまでもなく、サヨコもその中の一人にいた。

 群衆のどよめきが収まったのを見計らい、彼女の許に戻ろう……源吾郎はそう思っていたのだが、動こうとしたちょうどその時、黒服がさっと近づいて源吾郎の手を取った。


「なかなかの戦いぶりでしたね、島崎さん。僕も同じ妖狐として惚れ惚れしましたよ」

「それはまぁ……嬉しいです」


 とろけるような笑顔を浮かべながら源吾郎が応じると、黒服はそっと彼の手を引いた。


「まだまだお楽しみかもしれませんが、チーフより直々にお話があるそうで。少しお時間を頂けますでしょうか」


 源吾郎は目を見張って小首をかしげた。しかし黒服の眼差しと口調には、有無を言わせぬものがあったのも事実である。

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