鶏口の誘惑、牛後の未来

 赤黒い尻尾を生やした妖狐の黒服スタッフに従い、源吾郎は進まざるを得なかった。オーク男は既にステージから出ており、彼のファンらしい妖怪たちに握手をしたり投げかけられた質問に応じたりとファンサービスに精を出している。

 揺らめくシャンデリアの下を、源吾郎は歩き続けるほかなかった。黒服がさり気なく源吾郎の右袖を掴んでいたからだ。振り払うのは容易い事だったのかもしれないが、振り払わせないような何かを彼が持っていたのも事実である。

 強い白色光のない分、店内はステージの上ほど眩しくはない。しかし色とりどりのシャンデリアの光とそれを反射して輝くグラスや銀器のきらめきは、ある種の宮廷絵画のような絢爛さをもって源吾郎の目に映っていた。


「さて、こちらがチーフの控室です」


 黒服の事務的な声が、一幅の絵画でも眺めていたような心地になっていた源吾郎の意識を呼び戻した。二人はいつの間にか室内の突き当りに見える部分にまで来ていた。黒褐色の分厚そうな扉が、扉よりやや上部に設置された橙色のライトに照らされて奇妙な光沢を放っている。単なる黒光りする扉ではなく、動物を象った文様が彫り込まれているようだった。


「失礼します、チーフ。九尾の若狐をお連れしました」


 きちんとしたノックののちに、黒服が扉に向かって告げる。源吾郎は半ばほくほく顔で黒服の様子を見守っていた。自分は未だ四尾で九尾などではないのだが、九尾の若狐と言われるとやはり心が躍る。


「――よかろう、入れ」


 短い、しかし決然とした声が扉の向こうにいるチーフの返答だった。分厚い扉を隔てた向こうに声の主がいるというのに、源吾郎の耳には明瞭にその声は聞こえてきた。何か特殊な術でも使っているのかもしれないと、源吾郎はぼんやりと思った。

 扉を開けた黒服に従い、源吾郎も室内に入る。控室に一歩足を踏み入れた直後、源吾郎はとっさに目を細め顔をしかめていた。空調でかき回された空気が源吾郎の顔に当たったその時、強い香気がまとわりついたためだ。源吾郎は別段花粉症持ちではないのだが、この部屋の空気は涙が滲むほどだった。

 だが鼻と目の違和感もすぐに収まった。数度の瞬きで涙をやり過ごした源吾郎は、背の低い棚に置かれた香炉の存在に気付いた。大人が両手で抱える事の出来る大きさのその香炉は、木の葉状にくりぬかれた蓋の部分から淡々と薄紫の煙を吐き出していた。


「――落ち着きのなさそうな仔狐だな」


 低くゆったりとした声が源吾郎の耳朶を打つ。弾かれたように源吾郎は首を巡らせ、声の主を見やった。

 声の主は、黒々とした革張りの椅子に腰かけた大狸だった。クールビズに対応しているのか、上は半袖のワイシャツで襟のボタンを開けて緩めているのだが、ワイシャツの下からはしっかりとした毛皮が露になっている。源吾郎や黒服の青年と異なり、直立する獣という獣の特徴をほとんど丸出しにした姿である。


「初めまして島崎君。私の事は引布ひきぬのとでも呼んでくれると良いよ」


 引布と名乗った大狸は、源吾郎から視線をそらしぐっと鼻面を斜め上に向けた。スーツ姿の秘書と思しき妖怪女が、淡々とした表情で手にしていたファイルを引布に差し出すのを源吾郎は見た。妙にバタ臭い面立ちだと思っていたら、なんと秘書は縞模様のある尻尾を持つアライグマの妖怪であるらしい。

 最初のアライグマが日本に来日してからとうに幾星霜も経っている。アライグマが野生化している事も、それらの一部が妖怪化している事も源吾郎はもちろん知っている。

 但し、化け狸とアライグマ妖怪との間にはいかんともしがたい軋轢があったはずだ。それで互いに相争い、時に殺し合いに発展する事もあると、前に叔父の苅藻から教えて貰った気がする。


「……アライグマの秘書が珍しいのかい、島崎君」

「あ、いえ……」


 唐突な引布の言葉に源吾郎はへどもどし、言葉を濁らせるだけに過ぎなかった。弁明の言葉すら思いつかず、横柄そうな引布の毛深い鼻面に視線を向けるのがやっとである。

 黒服はいつの間にか源吾郎の斜め後ろに佇むのみ。喋りだす気配がないどころか、気配そのものさえ薄れだしているように感じられた。


「ああそうか。君は妖狐だから我ら化け狸の動向はそう詳しくはないのだな……まぁ良い。アライグマ族との軋轢や血生臭い衝突もむろん我らの間にはあるにはあった。今でもそれが色濃く出ている団体もあるだろうが、このぱらいその界隈ではそういう争いとは無縁だな。もとよりここで居を構える者も、海を越えて訪れた者も、目的が同じであれば協力するのが我らの決まりだ」


 引布はそこまで言うと、太い喉を波打たせ底意地の悪そうな笑みを源吾郎に向けた。


「国産妖怪のみで回らなければならないのであれば、君や君の縁者とて迫害される存在になりかねんのだぞ? ああ、君らが国産の妖狐である事は私とて知っている。しかし、大本を辿ればこの国とは縁もゆかりもない、大陸の狐に行き着くだろう」

「…………仰る通り、です」


 源吾郎の返答はか細かった。ぐうの音も出ないほどに納得している彼を見届けた引布は、文字通りの古狸めいた表情をやわらげ、いくらか柔和そうな笑みを今度は見せた。


「さっきの戦闘は、安全カメラ越しに見させていただいたよ、島崎君」


 引布は何故か首をすくめたような素振りを見せ、黒目を動かして上目遣いをして見せた。オッサン化け狸に過ぎないのだろうが、何故か愛らしい仔犬のような表情に合致しているように源吾郎は感じた。


「……何分粗削りではあるが、本当に闘いのセンスがあると思ったよ。心の底からね」


 引布の言葉に源吾郎は目を見開いた。どうにもこうにも油断ならぬ雰囲気の古狸だと思っていたが、その彼の口から滑り落ちたのは、まごう事無き源吾郎への称賛だった。


「とはいえ力足らずなのは致し方ないかな。私の見立てでは下級妖怪の上、いや中級妖怪に食い込むかどうかという所だろう。もっとも、オークプリンスが本気でなかったにしろ、地力であそこまで喰らいつくのは凡百の野狐には難しい話だけどね」


 心臓の激しい拍動を源吾郎は感じていた。一方の引布は笑みを浮かべつつ、視線を彼の顔からズボンのポケットに滑らせている。


「そういえば君は、金丹丸を貰ったにもかかわらず飲まなかったみたいだね。それはどうしてなのかな? 良ければ私に教えてくれないかい」


 唐突に意見を求められ、源吾郎は一瞬だけたじろいだ。しかしその数秒後には、彼の瞳には自信に満ち満ちた光が戻り、口元には引布のそれとは別種の笑みが拡がっていた。


「どうしてもこうしても、僕は外からの力に縋るような軟弱者とは違うからですよ。引布様。貴方もご存じの通り、僕は九尾の末裔、かの偉大なる玉藻御前様の曾孫です。親族たちの中にはおのれの血と出自を疎む者も多いですが、僕は、僕だけは違います。玉藻御前様の系譜である事、あのお方の能力を受け継いだ事こそが僕の誇りなのです。

――地力が及ばないからと言って、外部からの得体のしれない力に頼るなどというのは、おのれの血に立てた誓いに、いや玉藻御前様に対する冒瀆に他ならないのです」


 お決まり(?)の長広舌を振るった源吾郎は、斜め後ろの黒服が喉を鳴らした事で我に返った。きっと彼は笑いをこらえているのだろう。引布の背後で静かに控えるアライグマ妖怪も、胡散臭そうな眼差しを源吾郎に向けるのみだ。

 羞恥心と悔しさが源吾郎の心中を満たしていく。彼らは俺を馬鹿にしているのか。萩尾丸先輩が言うように、天狗になってあれこれ語る事は悪い事なのか。それとも、俺を白眼視する彼らの方が間違っているのか――先程まで晴れやかな表情で語っていたのとは打って変わり、暗雲のごとき考えが源吾郎の脳裏でたゆたいはじめていた。


「くくっ、あーっはっはっは……」


 引布が笑い出したのは、源吾郎の心中が昏い感情で満たされかける一歩手前の事だった。彼は肉球の目立つ両前足を、何か合唱するかのようにこすり合わせている。


「いや失礼。私は君を嗤った訳ではない。ただ、君の一本気のある言葉が、余りにもまっすぐなのでね……島崎君。君が君自身の血統を大切に思い、誇りに感じている事は私も重々把握しているつもりだったんだ。だけど、君は私が思っていた以上に誇り高い性質のようだね。さもなくば、初対面であるこの私に、あそこまで自分の思いを熱弁などできやしないだろう。

 ああ、今日は実に良い日になったものだよ。君のような、島崎君のような五百年に一度現れるかどうか判らぬ逸材に出会えたんだから」

「そういう事だったんですね、引布さん」


 引布に応じる源吾郎の顔には、既に憂いの色はない。引布の言葉を外連味のない言葉と受け取った源吾郎の心中には、もはや羞恥心も悔しさもはるか遠くへ吹き飛ばされてしまったようだ。

 代わりに彼の心は、称賛された事による強烈な喜びがあるのみ。おのれの頬の筋肉が笑みで緩んでいるのも源吾郎は気付いていた。


「しかしそういえば引布さんは生ではなく安全カメラ越しに僕の戦闘をご覧になったという話ですよね? そこまで関心なさるのであれば、直接見ていただいた方が感動なさったのではないでしょうか」


 浮かれ気分で放った源吾郎の問いかけに対し、引布は笑ったまま応じる。


「何、君の見事な闘いぶりを見れるのは今宵限りだとは思っていなかったから、ね」


 源吾郎は頬や耳朶が急激に熱を帯び始めたのを感じた。引布は喉を鳴らしてこもった笑い声を上げつつ、茶褐色の瞳をこちらに向けた。


「率直に言おうか島崎君。君にはこのぱらいその系列店の店長になって貰いたいんだが、如何かね?」


 源吾郎は軽々しく頷きかけそうになったが、すんでのところで動きを止め、生唾を飲み込んだ。心情的にはここですぐに頷きたかった。ところが自分が紅藤に仕えているという厳然たる事実を思い出したのである。


「……それは、いつからの話でしょうか?」


 源吾郎が言葉を発したのは数秒後の事だった。気のない返事を行ったと思われるのはまずいと判断したからだ。さりとて、連休明けからすぐに店長をやれと言われても困ってしまう。ぱらいそで働くという事は、きっと紅藤の弟子である事を辞める事と同義であると、その辺は源吾郎も把握していた。

 紅藤の弟子を辞める――その事に思い至った源吾郎は、芋づる式に祖母との誓約も思い出してしまった。あの時源吾郎は白銀御前に対して、おのれの妖力を担保に紅藤の許で修行をやり抜くのだと言ってしまった。源吾郎がこっそり転職していると知ったら、祖母はどうするだろうか。

 あれこれと雑多な考えが脳裏をよぎるうちに、源吾郎の心中で踊っていた興奮や喜びもなりを潜め始めた。引布さんは魅力的だが、その彼に付き従うには前途多難ではないか、と。

 引布が口を開いたのはそんな時だった。


「すぐすぐにとは言わんよ。君もほら、フリーターじゃあなくて就職している身分だろう」


 その通りです。源吾郎は引布の言葉に頷く。


「ご存じと思いますが、祖母、曾祖母の縁故によって僕は紅藤様の許に弟子入りし、修行している次第です」

「雉仙女の許に就職したのか!」


 引布は驚嘆した素振りで源吾郎を見上げている。両目が飛び出さんばかりに見開き、きちんとした牙が露になった口元も開いたままだ。


「だったらなおの事、すぐに彼女とは手を切るべきだよ。彼女が、いや彼女がつるんでいる連中や彼女の手下どもがとんでもねぇ連中揃いである事は君も知っているだろう」


 源吾郎はその問いには応じなかった。峰白や萩尾丸など、紅藤の関係者はおよそマトモな妖怪とは言い難い面々が揃っている事は事実である。

 しかし――自分の事を高く評価してくれる引布と言えど、今まで源吾郎に心を配り、あれやこれやと教えてくれた紅藤の事を悪く言うのは気が引けた。


「そもそも君は大妖狐だろう。そして向こうは単なる雉だ。雉鶏精一派だのなんだのと言っているが、所詮は私らのような狸や狐の餌になるような輩に、単に妖力が強いだけだからと言ってへいこらと這いつくばって従うのもどうかと思うがね。君はまだ若いし前途もある。輝かしい未来を、つまらん事で腐らせるのは実にもったいない」

「ですが……」


 源吾郎はたまりかねて声を上げた。紅藤様は単に強いだけではない。物凄く強くて立派なお方なのだ。源吾郎はそう言おうと思った。だが引布の冷徹な眼差しは源吾郎に有無を言わさなかった。


「鶏口牛後のことわざは君も知っているだろう、島崎君。才能や熱意を愚かな上司共に使い潰されて出がらしになっても良いというのならば私は何も言わないが」


 源吾郎は口をパクパクさせることも忘れ、引布を凝視するのがやっとだった。思いがけぬ冷ややかな言葉に源吾郎は動揺していたのだ。


「だが、君の未来を決めるのは他ならぬ君自身だ。すぐに決めるのは難しかろう。だが、私の許についたらどういう仕事を行うか、明日教えてあげるよ」


 引布は今一度愛想の良さそうな笑みを浮かべると、甘く柔らかい声で源吾郎にそう告げたのだった。源吾郎は半ば機械的に頷きながら、おのれの岐路が迫っている事をひしひしと感じていた。

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