わが縁 もつれ絡まり何処へ行く
ビジネスホテルの一室。消灯し薄暗い部屋の中で源吾郎はベッドの上で横たわっていた。早朝とは呼ぶにはやや早すぎる時間帯であるが、源吾郎の両目は開いていた。
つい先程まで浅い眠りの中にいた源吾郎は、何がしかの夢を見ていた。夢を見ていた事だけは覚えているのだが、肝心の夢の内容はよく覚えていない。何か、とても幸せな夢だった事だけは覚えている。
「夢、か……」
源吾郎は息を吐き、どんな夢だったのかに思いを馳せていた。日頃は夢の事なんか気にしないにも関わらず、である。そうしてしばらくベッドの上で寝そべっているうちに目が冴えてしまった。眠りが浅かったのも、こうして夢に縋っているのももしかしたらビジネスホテルのベッドの上という、いつもと違う環境だからなのかもしれない。
ああだこうだ考えている源吾郎は、短い低周波を耳にした。音源はベッドの傍らにあるサイドチェストである。唐突な低周波に源吾郎は一瞬眉をひそめたが、のろのろと身を起こした。およそ着の身着のままでベッドに寝ころんでいた源吾郎だったが、スマホだとかちょっとした荷物の類は流石に身に着けてはいない。
手を伸ばし、震えていたスマホを掴み取る。コンタクトを入れていないので視界はぼやけるが、目をすがめて画面を注視した。通知が来ている。
通知は無料通話アプリからだった。連絡の主は末の兄・庄三郎からだった。源吾郎はお土産を渡すために、連休中に庄三郎のアトリエに向かおうと思っていた。そのためにいつなら都合が良いのかと打診をしていたのだが……それは数日前の話である。
何日も前に出した連絡の返信が遅い事には特に何も思わない。末の兄が連絡面(ほかの事も)で不精なのは昔から知っている。それに源吾郎もここ二、三日はそれどころでもなかったし。
『須磨んがまだ今は忙しい。だけど冥土は立っている。明日、明後日なら来てもいい』
半ば能面のような表情で、兄からのメッセージを源吾郎は見ていた。相変わらずの簡潔な文章だ。後どうでもいいが微妙な誤変換も彼らしい。身体のあちこちに散ったアクリル絵の具のしぶきを気にせずにスマホを打つ庄三郎の姿は源吾郎の脳裏にもはっきりと浮かんだ。
源吾郎は明日にでも向かう予定だと返信し、それから深くため息をついた。庄三郎に護符と彼好みの絵の具を渡すという大義はあれど、積極的に会いたいと思っている相手ではない。
別に源吾郎は、末の兄を疎み、憎んでいるわけではない。しかし兄たちの中で一番複雑な感情を抱いている存在である事は事実である。
庄三郎は源吾郎とは全く真逆の存在だった。すなわち、母方の祖先より受け継いだ美貌を持ち、なおかつ相手を魅了する能力を先天的に保有していたのだ。のみならず、彼は相手の心に干渉し、庄三郎の都合の良いように振舞ってくれるよう調整する能力すら、小学生の頃に獲得したのだ。変化や攻撃術といった源吾郎の得意とする能力は持たないものの、庄三郎も妖狐としての能力に恵まれていると言わざるを得ない。それに――庄三郎は生まれながらにして、源吾郎が欲しても得られなかったものを持ち合わせていた。
庄三郎のその特質、ある意味で先祖たる玉藻御前のそれに近い特質が、多くの人間の心を揺らぎ、惑わし、時には狂わせた事を実弟である源吾郎は知っている。
そもそも源吾郎は、庄三郎の存在と彼の保有する能力への影響をこの世で二番目に大きく受けた存在である。むろん人生が狂うなどという深刻な事は無い。しかし源吾郎が幼少より抱く野望は、庄三郎の能力抜きでは語れない所があるからだ。
源吾郎は意外にも面倒ごとはさっさと片づけたいと思っている性質である。色々と予定が変わったが、本来ならば珠彦と街で遊びある程度ナンパを行った翌日にでも兄の許に向かうつもりだった。
要するに、兄に手渡す予定の護符と、途中で購入したアクリル絵の具を源吾郎は今も持ち歩いているという事だ。
午前十時。きらめくような五月の陽光を浴びながら源吾郎は参ノ宮の大通りを闊歩していた。今回はナンパが目的ではない。ぱらいそが開店するまでの時間稼ぎだし、もはやナンパなど行おうという考えはなりを潜めていた。
――思えば、この連休中に色々とあったものだ
齢十八の若者ながら、源吾郎は妙に達観した考えを脳裏に浮かべた。
全てはぱらいそという店の優待券を手に入れた事から始まった。サヨコという可憐な少女と知り合い、チーフや他の従業員たちに源吾郎の比類なき才覚を見せつける事が出来た。昨日まで源吾郎はぱらいその系列店の見学と研修を行っていた。見学先は若い娘が接客を務める「パリスの林檎」と、飲食店ではないがビリヤードや札遊びなどの若者向けゲーム施設の「マルパスの止まり木」だった。
研修というには破格の待遇を、この二日間で源吾郎は受けていた。食事も宿泊もぱらいそ系列店で色々と手配してくれたのだ。研修なんだからこれくらい当たり前だよ、というスタッフの言葉に甘え、源吾郎は出されたものを口にし、見学や研修が終わると用意された個室で眠った。今朝の源吾郎がビジネスホテルに宿泊していたのは、見学が一度終わったためである。
研修期間中に少し気がかりというか不愉快だったのは、食事の後に、妙な感覚に襲われる事だけだった。食事そのものは妖怪向けながらも味付けもしっかりしていて美味だった。しかし、食後二十分ばかり、頭が少し痛んだり気分がぼんやりしたりしたのだ。原因は良く解らないが、研修という事で緊張していただけなのかもしれない。昨晩から今朝にかけて源吾郎はビジネスホテルに一泊し、食事は近所のコンビニで簡単なものを調達したのだが、その時はくだんの妙な感覚は襲ってこなかったのだ。
引布は「パリスの林檎」の店長に源吾郎を据えようとしていたが、源吾郎は丁寧に話し合いをした結果、まずは「マルパスの止まり木」で雇われ店長となる事で落ち着いた。源吾郎自身は年頃の若者であるから、むろん若く瑞々しい美姫たちには興味はあった。しかし源吾郎は、既にサヨコと知り合いになっている。知り合いといっても少し言葉を交わした程度であるが、源吾郎としてはサヨコを正式な妻として迎え入れたいと強く願っていた。それ故か、「パリスの林檎」にて薄い衣装を身にまといばっちりと化粧を決め込んだ妖怪娘を見ると、何かおのれが悪事を働いているような、そこはかとない気まずさを感じるのだった。源吾郎の目から見ても従業員たちは魅力的だった。ついつい見とれてしまう事もあるにはある。しかし直後に、サヨコに対して不貞を働いたような、そこはかとない罪悪感に襲われてしまうのだった。
ぱらいそのチーフ、大狸の引布は本当に親切だった。源吾郎のわがままも多少は聞いてくれたし、サヨコとの関係についても「彼女が頷いたら俺は何も言わん」と認めてくれた。それに何より、源吾郎が雉鶏精一派を離脱し、なおかつ向こうにそれと気づかれないようにするための段取りも組んでくれたのだ。影武者に相当するものを用意し、研究センターに送り込むという算段である。丸く固められた人工式神の素とやらに源吾郎の血と妖気の一部を与えて培養する事により、見た目や行動だけではなく、妖気等々もオリジナルとほぼ変わらぬ存在を用意できるという話らしい。
なお、この影武者は数年の短い寿命になるように調整されているとの事。影武者を使う事で紅藤や祖母である白銀御前に源吾郎の裏切りを気付かれにくくし、なおかつ途中で死ぬ事により、彼らの追跡の目をごまかす事も出来るという事である。
引布が行ってくれたこれらの説明について、源吾郎はただただ素直に喜ぶのみだった。おのれの背信がバレないかとビクビクしているだけだったが、引布はこれらを解決できる術を知っているのだと思ったからである事は言うまでもない。だがその一方で、簡便に精密な妖怪の分身が作れる謎の物体についても、研究者的な好奇心をそそられたのもまた事実である。おのれの妖気と血により作るのであればそれは俺の「弟」なのだろうか、とさえ思ったのだ。その考えは、さほど深く考えずとも源吾郎の師範に似通ったものだった。
ともあれ源吾郎は、紅藤の許で修行する事を放棄するという判断に至ってしまった。引布や彼を取り巻く部下たちの甘言が見事であったのは事実だ。しかし、しかし源吾郎は半ば能動的に彼らの意見を受け入れたという事実もそこにはあった。
――君は現段階でもかなり強いんだ
引布の説明を聞いている時、源吾郎の脳裏には妖怪会合でのやり取りが浮かんでいた。あの時出会ったオウム妖怪のアレイは、源吾郎の事をはっきりと強いと評した。引布の言葉を聞きながら、源吾郎はその言葉を反芻し、紅藤に仕え続ける日々と、引布の許で働く事とを天秤にかけた。
その間にも、引布は言葉に言葉を重ね、紅藤の事をあれこれと教えてくれた。彼女は今でこそメンドリ面で雉鶏精一派に君臨しているが、もともとは人間の術者の使い魔に過ぎなかった事を源吾郎は知った。しかも生まれつきの妖怪ではなく、ただのメス雉に過ぎなかったのだそうだ。
「別に後天的に妖怪になった連中を賤しいとか劣っているというつもりはないよ。だけど考えてみたまえ島崎君。君は天下の大妖怪・三國を震撼させた玉藻御前様の直系の子孫なんだ。そんな君が、ただ力があるだけの、血統も何もない蒙昧なメス雉なんぞに唯々諾々と従っていて良いのかい? しかもあいつは人間の女の姿にさせられて、男の術者に仕えていたんだ。君はもうネンネじゃないんだから、それがどういう事か想像は付くよなぁ?」
粘っこい笑みを浮かべつつ、引布はあの時源吾郎に迫っていた。自分の師範、紅藤への評価に対して源吾郎はオロオロしたのも事実である。けれど、結局は彼の意見に賛同する形と相成った。
――君はかなり強い。君は強い。君は強い……俺は、現時点でも強いんだ
アレイの言った事は正しかったんだ。源吾郎は引布の前で薄く笑み、頷いていた。引布の瞳には、風采の上がらぬ青年のいびつな笑みに見えたかもしれない。しかしサヨコの事とかおのれの血統をさり気なく褒められた事にのぼせ上った源吾郎は、おのれの浮かべる笑みのいびつさも、引布の瞳の色にも気付く事は無かった。
参ノ宮で有名な神社に向かい、源吾郎は縁結びのお守りを購入した。お守りを複数持っていると神様同士で喧嘩をするから良くないという話を知っていたが、まぁ大丈夫だろうと源吾郎は判断した。護符の作り主である紅藤の事は源吾郎も良く知っていたし、そもそもこの護符は源吾郎の物ではなくゆくゆくは庄三郎に渡すものであるし。
※
午後六時。源吾郎はぱらいそが開店するとともに店内に入り込んだ。黒服は半ば無作法な源吾郎の動きにも何も言わず、ただただ穏やかな笑みを浮かべて受け入れ、のみならず源吾郎が何か言う前に彼をいつかのVIP席に通してくれた。
VIP席には当然のようにサヨコが座っていた。源吾郎は荷物が増えて野暮ったくなっていないかと懸念したが、次の瞬間にはそれすらもどうでも良くなった。
驚いた事に、引布までテーブルを囲んでいたのである。前見たときは店の奥に引っ込んでいた彼が御自ら出てくるという所は想定外だった。
「こんばんは、サヨコちゃん」
源吾郎は爽やかに見える笑みを作った。彼はサヨコを驚かさぬようにゆっくりとした動きで、お守りを出した。テーブルには数日前源吾郎がサヨコから受け取り、店に預けた状態になっている藤と蔦の花束がきちんと飾られていた。藤花も落ちずに瑞々しい状態にでそこに在る。
「どうか、これを受け取ってください」
「まぁ……」
控えめに驚くサヨコの姿は、今日も今日とて愛らしく可憐だった。心温まる……などと言うには苛烈すぎる感情のうねりをどうにか制御しつつ、源吾郎は言葉を紡いだ。何のかんの言って演劇部に所属し、演劇も行った源吾郎である。内心の感情の動きは烈しくとも、その表出を抑え込み、その場に相応しい言動に留める事も意識すればできる事だった。
「本当は指輪とか気の利いたアクセサリーの方が良かったのでしょうが……これは霊験あらたかな神社の、縁結びのお守りです。僕の気持ちだと思って受け取っていただければ」
「ありがとう島崎さん。嬉しいわ」
源吾郎の言葉にサヨコは微笑んだ。小鳥のヒナを抱くように、彼女は手のひらの上にお守りを載せている。
少ししてから、引布が身を震わせて笑っている事に気付いた。源吾郎と目が合うと体の震えは止まった。しかし目と口に笑いの余韻が残っている。
「いやいや茶化すつもりはないんだ島崎君。だがまぁ、中々に初々しいと思っただけさ」
「あはは、そうですね」
源吾郎は笑ってごまかした。しかし引布の指摘も真実ではある。源吾郎はモテたいだのなんだの言っているが、女子と交際した事はまだない。無いからこそそこに執着しているようなものだ。
「まぁ良い。今日は君の新しい職場と未来の伴侶を得たという事で祝杯を上げようじゃないか」
「ありが……」
礼を述べようとした源吾郎だったが、途中でびくりと身を震わせ硬直した。強引にドアを押し開けるような鈍い音と、野卑で甲高い叫び声が轟くのを耳にしたからだ。
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