楽園も一皮むけば地獄絵図
さて観念したようにサヨコが自警団の一人に引き立てられるのを見届けた源吾郎は、足の筋肉がコンニャクに変化したような感覚に襲われその場にへたり込んでしまった。極度の恐怖、緊張及び驚愕に晒されていたのだ。脅威が去り愛した娘の姿が全くの幻だと知った以上、彼のこの反応は致し方ないのかもしれない。
「源吾郎、源吾郎――ッ!」
「む、ぐっ……」
半ば無防備な状態になっていた源吾郎の許にタックルがかかった。相手は叔母のいちかだった。いやタックルではない。彼女は末の甥に近付き、感極まって抱擁しているのだ。少女めいた姿の娘が青年に躍りかかって抱きすくめるという絵面はまぁ周囲に見せるようなものではないが、そんな事は源吾郎もいちかも気になどしていない。叔父の苅藻を兄のように慕っていた源吾郎にしてみれば、叔母のいちかはもう一人の姉のような存在だった。
周囲の妖怪たちも特に何も言わない。いちかの鬼気迫る態度に気圧されたのかも知れないし、そもそも彼らはいちかと源吾郎の関係を知っていたからかもしれない。
「大丈夫、源吾郎。怪我はないの? 怖い事は無かった?」
いちかは小さな手を源吾郎の顔に沿え、正面から凝視していた。
「ぼ……俺は大丈夫だよ、叔母上……」
その短い一言を口にするのがやっとだった。厳密には首の皮を少し切られたが、もう血は止まっているし傷も塞がりかけているから問題はない。
それよりもいちかの方が大事である。殴られたのか、彼女の左目の周囲は青黒いあざで縁取られ、唇も切れている。源吾郎は戸惑い、叔母を見つめ返すしかなかった。自分よりも多く怪我を負った彼女は、しかしそれを一切気にせず、純粋に源吾郎の身を案じているだけだった。
「良かった、本当に良かったわ……」
いちかは今一度源吾郎をひしと抱きしめた。遠い昔、源吾郎がまだうんと幼かった頃も、彼女はこうして源吾郎を抱きしめていた。そんな事を思い出した。思い出しているうちに、いちかは静かに源吾郎から離れていたが。
「甥御殿が無事で良かったじゃあないか、桐谷所長」
「ええ……本当に」
自警団か術者の一人の言葉に、いちかが感慨の籠った声で応じている。何だかんだ言いつつも、いちかは源吾郎の叔母であり、保護者に近しい存在なのだと思い知らされた。
力尽きたヒトデのように尻尾を垂らす源吾郎は、周囲の視線がおのれに注がれているのを感じた。コンニャクめいた足に力を籠めると、ふらつくがどうにか立ち上がる事は出来た。
「それにしても、玉藻御前の末裔である、桐谷所長の甥御殿がどうしてここに……?」
「先の萩尾丸殿が仰ったとおり、あいつは雉仙女殿の配下だったはずだが」
「まぁ今休暇中らしいし、上司も部下の活動全てを把握している訳では無かろうに」
「いやこれは待ちに待ったスクープの予感かもな。ひとまず島崎君は無事そうだから、訳を聞いてみようじゃないか」
「そいつぁ面白そうな話だ。何となれば、雉鶏精一派の
源吾郎はぼんやりと、周囲が口々にあれこれと考察するのを聞いていた。叔母は目を伏せて耳たぶまで赤くして妖怪や術者たちの話を聞いているだけだ。
「島崎君がここにいる理由を知りたいんだな、自警団及びパパラッチの諸君」
声を上げたのは萩尾丸だった。予想通りというか、やはり彼はうろたえた様子はなくむしろニヤニヤしているくらいだ。源吾郎を取り囲むように集まっていた妖怪たちの視線と注意は、すぐに萩尾丸に向けられた。
「簡単な話さ。何を隠そう島崎源吾郎君は――叔父である桐谷苅藻氏がぱらいその調査のために放ったスパイだったのさ」
妖怪たちの間でちょっとしたざわめきが広がった。驚いたとか納得したとかいう意見を彼らははじめ思い思いに告げていたが、萩尾丸の言が本当であると信じる方向に収束したらしい。
それもこれも、苅藻の妖怪術者としての実績を皆が知っているからだろう。苅藻は妖怪術者の中でも、ガサ入れだとか摘発だとか丁々発止のバトルだとか、そういうワイルドな荒事を担当している部類に属する。ちなみに実妹のいちかはマイルド路線である。
萩尾丸はそのまま源吾郎の許ににじり寄り、その肩に手を置いた。
「そうだろう島崎君。ぱらいそがどうにもこうにもきな臭い動きをしていると、君が実の兄以上に尊敬し慕う苅藻君から聞かされて、独りでここまで頑張って来てくれたんだろう?」
源吾郎はゆっくりと顔を上げ、萩尾丸の顔を覗き込んだ。事実など二の次だ。僕が言った事に素直に頷きたまえ。言外にそういわれているのをひしひしと感じていた。
源吾郎が頷いたのを確認せずに萩尾丸は続ける。
「本来ならば苅藻君が適任だっただろうと諸君も思っているかもしれない。しかしあれでも彼は術者としての経歴を積んでいるから、こういう狡猾な手合いは彼の事を警戒しているのさ。そこでさほどこっちの業界では面の割れていない、甥の島崎君をスパイとして仕立て上げたという訳さ。
それにしても、島崎君は中々大した役者だと思わないかね? このぱらいそに来てからいちか君との熱いハグを交わしたところまで、一部始終が他ならぬ彼の演技だったのさ。まぁ、君らには『ド外道な本性を隠し持つ女狐に騙された挙句、人質になって殺されかけたのにそれでもなお相手の善性を信じて庇い建てをしようとするどうしようもない間抜け』に見えたかもしれないが、それこそが彼の、そして彼が忠義を誓う苅藻君の狙いだった訳さ。島崎君はきっと、僕らが突入する段取りを逆算し、ぱらいそに乗り込んで『血統と女の色香にすぐによろめくような間抜けな若者』の演技でもって、逆に相手を油断させていた訳だよ。
ああちなみに、苅藻君はこの作戦を秘密裏に打ち立てて、島崎君にだけ伝えたんだろうね。いちか君は自警団の連中と一緒に動く事は知っていたが、甥に甘い彼女の事だから、島崎君がそんな一大任務を背負っているとなれば、どう動くか彼でも把握しかねただろうからね」
萩尾丸は実に滑らかな調子で皆に説明を行い、さり気なく源吾郎の肩をさすった。
生きた心地のしなかった源吾郎だったが、萩尾丸の圧に委縮し、何も言わずに唇を噛み締めるだけだった。萩尾丸の言葉を妖怪たちは信じ始めているようだが、彼の言葉が嘘である事は源吾郎には良く解っていた。叔父である苅藻はこの件には一切関わっていないのだから。
「したがって、島崎君がここにいるのは叔父の命を受けたからに他ならず、我々雉鶏精一派の不祥事でも何でもないという事さ。上司以外の妖怪から受けた仕事をこなす事への是非は諸君の中にあるかもしれないが、依頼主は叔父だから、家業を手伝ったという範疇に収まるだろう。それに、我々の世界にも副業はあるのだからさ」
萩尾丸はそこまで言うと、源吾郎から距離を置いた。叔母のいちかと目が合う。彼女は疑わしげな視線で萩尾丸と源吾郎を見つめていたが、何も言わなかった。
※
源吾郎はそのままぱらいそから数メートルばかり離れた場所に連行されていた。自警団や術者たちがガサ入れを始めた時に、客として来ていた妖怪たちも一緒くたになって集められている。彼らはあの騒動の時に悪事を働かず、オロオロしたり呆然としていたような、所謂お行儀の良い妖怪たちだ。しかしきな臭い場所にいた事には変わりないので、表立った悪党たちをしょっ引いたのちに事情聴取が待ち受けている。
源吾郎もまた、この即席の待機スペースで待ち続けなければならない身分だった。源吾郎ほどの妖力を持つ妖怪ならば、自警団と一緒に摘発作業に入っても問題ないのだが、当の源吾郎の精神状態からして、とても闘える状況とは言い難かった。しかも大部分のスタッフはとうに摘発され、残っているのは引布や古参幹部など、ある意味厄介な面々ばかりなので、なおさら素人の出る幕はない。
「……それにしても、島崎君とこんなところで会えるなんて奇遇ねぇ」
変化を解き、神妙な面持ちで控える妖怪たちを眺めている源吾郎に声がかけられた。親しげな様子で話しかけてきたのは鳥園寺飛鳥さんだった。彼女も他の術者と同じく、機能的かつ安全面にも配慮した作業着っぽい衣装を身に着けている。胸許に豪快なフォントで「チキンカレー・人類滅亡」という謎の文言のアップリケをくっつけている所が気になりはしたが。
待機スペースに集められているのは妖怪たちばかりだが、鳥園寺さんをはじめとした人間の術者もここに居合わせていた。集めた妖怪たちが逃げ出さないように監視するようにと、自警団の面々に依頼されているらしい。
「鳥園寺さんこそ、珍しいですね」
一文字一文字噛み締めるように源吾郎は告げた。鳥園寺さんの事は会合で話し合ったばかりだからよく知っている。不本意ながら術者の道に進む事になり、妖怪を苦手とする女性だったはずだ。しかし今こうしてかがんで源吾郎を見つめる彼女には、恐怖の色はない。むしろちょっと楽しそうだ。
「本当はね、パパとママがこの仕事に出向くつもりだったの。だけど連休中に張りきったパパがギックリ腰になっちゃって、それで私に連絡が入ったのよ。本当は、アレイだけでも良かったんだけど、『どうせ飛鳥はトレンディドラマでも見てゴロゴロしているだけだろうから、オマケでも何でも良いからアレイと一緒に向かって勉強しなさい』って言われたから……最近は、トレンディドラマよりもポコポコ動画の号泣議員の方が好きなんだけどね」
「それは……まぁ……」
鳥園寺さんの境遇に形ばかりでも同情しようと思ったのだが、上手くいかなかった。その理由は源吾郎が今精神的にひどく消耗しているというだけでもない。鳥園寺さんの言動の中に、源吾郎が未だ持ちえない強さを感じたためでもあった。
――鳥園寺さん、マジで紅藤様と気が合いそうだなぁ。俺の事も気遣ってくれて優しいけれど、何というか独特で、たくましいし。きっと彼女はキャリアを積んで、勇ましい術者になるんだろうな
源吾郎の思案顔をよそに、鳥園寺さんは言葉を重ねる。
「私も最初は怖かったわよ。だけど雄太お兄ちゃんも来てくれていたし、アレイは戦闘慣れしてるから大丈夫かなって思ったの。
あ、でも、島崎君の一連の演技、あれ本当に凄かったわね! 島崎君、捕まって人質になっちゃってたから、あれ絶対死亡フラグだって思ってハラハラしながら見てたのよ。だけど、ああいう演技で皆を欺いて手玉を取っていたなんて、本当に才能の塊ね! やっぱり九尾の末裔って凄いのね」
源吾郎は声を出さずに力なく笑うのがやっとだった。鳥園寺さんが兄と言った人物、ガスマスクとタイツ姿の不審者めいた風体の男は、他の妖怪たちの動向に目を光らせつつも、妹と源吾郎の会話にも気を配っているようだった。よく見ると彼の全身タイツの胸元には「悪妖討伐・滅菌処理」というやはり謎の文言がプリントされてある。二人が兄妹である事はもはや疑う余地はない。
そう思っていると、件の怪人物はこちらに近付き、鳥園寺さんの隣にさも当然のようにやってきた。そういえば鳥園寺さんの長兄は鳥アレルギーで当主になれなかった、という話を聞いたのを源吾郎はゆっくりと思い出した。
「あーあ。毛玉共の子守なんて暇だからやってらんねーぜ。俺の最臭兵器を使えば、大妖怪だろうと何だろうと狸とか狐なんだからイチコロだと思うんだけどなぁ」
「やっぱり向こうもベテランのプロだから、危ないって事で私たちは撤退したと思うのよ、雄太お兄ちゃん」
「しかし飛鳥。桐谷の姉さんだってボッコボコになりながら闘ってるじゃねえか。だのに、大の男がこんなところで引き下がるって恥ずかしくね?」
「言うていちかさんってこの業界で百年近い実績を持つプロ中のプロでしょ? 半妖だし基が人間のか弱い私らに較べたら、ポテンシャルは高いと思うけど。自警団のヒトたちだって、私らを気遣ってくれているんでしょうし」
「そうは言ってもなぁ……」
鳥園寺さんとその兄の会話を源吾郎はぼんやりと聞いていた。と、ぱらいその建物に唐突に異変が起きた。事もあろうに、萩尾丸や叔母のいちかや他の面々がいるであろうぱらいそが、眩い光に覆われていったのだ。
「見てよお兄ちゃん。まさか、この妖怪騒動が爆発オチで締めくくられるなんて……」
すぐ傍に兄がいる為なのか、鳥園寺さんの声は若干上ずり、興奮の色が見え隠れしていた。
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