天狗の煽りに乗る狐 ※女体化表現あり
「それじゃあ、センターで働いている他の弟子たちに挨拶に行きましょう」
書き終わったばかりの誓約書を受け取った紅藤は、なめらかな口調で源吾郎に告げた。
「この前の面談で話したと思うけれど、研究センターでは私の他に私の弟子たちが三名在籍しているの。面談の時はみんな仕事が忙しくて会えなかったから、今から顔合わせを始めるわ」
紅藤の顔には柔らかく甘やかな笑みが広がっていた。源吾郎もつられて笑い返していた。
「もちろん皆には島崎君の事はあらかた紹介しているわ。玉藻御前様の曾孫で、一族の中で妖力も気骨のありそうな子だってね。ええ、あの子たちもあなたがどんな弟弟子になるのか、気になって仕方ないみたいよ」
「先輩方も興味を持って下さってるんですね。それはまた光栄な事です」
自信たっぷりなそぶりを作って源吾郎が言うと、紅藤も笑い返してはくれた。だがよく見ると紅藤の瞳には気遣うような感情が宿っている。源吾郎はおのれの矜持のために心中に抱える不安を隠したつもりだったが、年長者である紅藤にはお見通しだったらしい。
紅藤に導かれ、源吾郎は研究事務所と銘打たれた部屋に足を踏み入れた。壁と天井と床は白く、据え付けられたテーブルたちは黒かった。壁の脇に設置された背の低い棚には、標本と思しき瓶詰や古びた書物、術を扱うための道具などが乱雑に並べられている。机の上も仕事用のラップトップやタブレットの他に、種々雑多なものが置かれたり積まれたりしていた。事務所の、机や棚の配置はドラマの中で見る研究室に似ていたが、ドラマでは表現されていない深く豊穣とした混沌が、紅藤の研究室にはどっしりと居座っていた。
「さぁみんな。彼が玉藻御前様の末裔である島崎君よ」
紅藤は丸テーブルと椅子が数脚置かれた部屋の中央で足を止め、源吾郎もこれにならった。丸テーブルの向こう側から三名分の視線を受ける源吾郎だったが、視線を向けても妖怪が二人いる事しか確認できなかった。視認できた二名の妖怪はどちらも成人男性の姿を取っていたが、服装も顔つきも佇まいもまるきり異なっていた。
紅藤は室内の豊穣なる混沌も不可視の視線も気にせずに、対面の弟子たちに言い添える。
「島崎君はこの度縁あってこの雉鶏精一派に仲間入りを果たし、私の許に弟子入りする事になったわ。同じ兄弟弟子として、どうか仲良くして欲しいと私は思っているの」
そう言うと紅藤は源吾郎の方を向き、兄弟子姉弟子の名を教え、それから源吾郎に自己紹介するよう促した。源吾郎は正面の兄弟子たちを見つめ、口を開いた。
「初めまして先輩方。僕は島崎源吾郎と申します。先程紹介がありました通り、僕は玉藻御前の末裔、厳密に言えば直系の曾孫です」
源吾郎は好青年風の笑みをその顔に浮かべ、更に言葉を重ねた。
「若輩者ゆえに先輩方にご迷惑をおかけする事もあるかもしれませんが、その際はどうか遠慮なく、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」
弁舌爽やかなフレッシュマンよろしく礼儀正しいが当たり障りのない言葉を口にし、源吾郎は深々と頭を下げた。小さく控えめな拍手の音が源吾郎の鼓膜を震わせる。誰かが立ち上がる物音が響いたのは、源吾郎が頭を上げた直後だった。
「君の事はそこの紅藤様から、それこそ耳にタコができるほど聞いていたよ、島崎君」
立ち上がりざまに兄弟子の一人がそんな事を言い放った。紅藤やもう一人の兄弟子とは異なり、白衣の代わりに仕立ての良いスーツを羽織っている。身綺麗にした男であるが、単なる優男ではない事は、精悍そうな風貌と強者らしい余裕に満ち満ちた表情が示していた。
「初めまして島崎君。紅藤様から説明があったけれど自己紹介するね。僕は
萩尾丸はおのれの身分について手短に語ると、好奇の眼差しを源吾郎に向けた。
「玉藻御前の子孫たちは、安寧のぬるま湯に浸かる事に腐心するような腰抜けどもだったけれど。君は違うんだよね?」
その通りです。源吾郎は萩尾丸のやや辛辣な問いに頷いた。
「別に叔父上たちや兄上たちは腰抜けと言う程ではないと思いますがね……ですが親戚たちが自分の血統を恐れ、ひっそりと暮らそうとしている事は真実です」
源吾郎の言葉に、萩尾丸はうっそりと笑った。
「そうなると、今回君が紅藤様に弟子入りするという話になった時、親戚たちとひと悶着あったのかい? 彼らは昔の事ばかり無駄に知っているから、雉鶏精一派が先代とまるで違う経営方針になっているというのに無闇に恐れているからさ」
「確かに叔父上たちも兄上たちも僕が妖怪として生きるという話については良い顔はしませんでした」
源吾郎は昨年の夏から秋にかけて行った「就職活動」と、親族会議の結果を思い出しながら、機嫌よく話を続けた。
「中途半端な状態で話を進めたら反対される事は僕だってきちんと予想していましたよ。だからこそ紅藤様の許で話を付けてから、親族会議を行うように算段したんです。まぁ、お祖母さまが自分の子孫の一人を紅藤様の許によこすという盟約を行っていたなんて、僕も兄上たちも叔父上も知らなかったんですがね……ともあれ、ひと悶着ありましたが僕は晴れて紅藤様への弟子入りが許可されたのですよ」
得意げに語る源吾郎に対して、萩尾丸はさらなる問いを投げかける事は無かった。滑らかなおのれの顎を撫で、何やら思案顔になっていた。数秒ばかり考え込むそぶりを見せたのち、やおら口を開いたのである。
「島崎君。君って確か雉鶏精一派の幹部になって九尾になって強くなって世界征服とか目論んでるって紅藤様から聞いたけどさ、今の君の話を聞いていると、そんなの不可能そうに思えるなぁ――だって血統は良いとはいえ、所詮はお行儀の良いお坊ちゃまに過ぎないんだからさ」
「俺のどこがお行儀の良いお坊ちゃまなんですか、萩尾丸先輩」
気色ばんだ源吾郎は思わず吠えた。お坊ちゃまという言葉そのものには良い意味も悪い意味も無い事は源吾郎も知っている。しかし先程萩尾丸が言い放った時には、侮蔑と嘲笑のニュアンスがくっきりと表れていたのだ。
「君の話し方と話の内容を聞けば、誰だってお坊ちゃまだと思うものさ。自分の兄や叔父の事を、兄上・叔父上と呼びならわしている男の子の、何処をどう見ればお坊ちゃまではないなんて言えるんだい?」
「身内の呼び方だけで坊ちゃん育ちと呼ぶのは早とちりではないでしょうか」
源吾郎は軽く抗議したが、萩尾丸は気にせず言葉を続けた。
「そこまで言うのなら身内の呼び方については目をつむろう。しかしそれでも君はお坊ちゃまだと僕は思うよ。白銀御前様との盟約があった事で話はスムーズに進んだとはいえ、君は結局のところ話し合いで物事を解決しようとしたんだろう」
源吾郎の顔を見つめていた萩尾丸はここでほほ笑んだ。優しさを上辺にコーティングしているだけの、酷薄そうな笑顔だった。
「反対する親族たちを力ずくで黙らせるという、それこそ妖怪らしい方法は思いつかなかったのかい」
「…………」
源吾郎は萩尾丸の問いに応じなかった。「力ずくで黙らせる」と言うのが、穏やかではない方法を示している事が解ったためにひどく戸惑っていたのだ。正直に言えば、源吾郎の生活や野望について苦言を呈する親族らを疎ましく思った事はある。しかしだからと言って、意見が違う親族らを武力暴力で従わせようなどと思った事は一度も無かった。やっぱりお坊ちゃまじゃあないか。嘲笑交じりの萩尾丸の言葉が源吾郎の耳に届いた。
「紅藤様が、いや雉鶏精一派が先代から求めてやまない玉藻御前の末裔をこの度手に入れたという事だけれど、僕がイメージしていたのと随分と違うみたいだねぇ」
萩尾丸はそこまで言うと、大げさに肩をすくめてあからさまにため息をついた。上目遣い気味に源吾郎が睨むと、萩尾丸は射抜くような眼差しを投げ返したのだった。
「力を示したいのならかかっておいで。実力が物を言う妖怪の世界について、身をもって僕が教えてあげるよ!」
「いい加減になさい、萩尾丸」
喜色を示す萩尾丸に対して、紅藤が真っ先に応じた。萩尾丸の言動をむっつりと聞いていた彼女だが、今は柳眉を吊り上げ怒りの念を示していた。
「何をそんなに怒っているんです、紅藤様」
「いくら何でも言い過ぎだしやり過ぎよ。あの子は折角私たちの許に弟子入りを志願したというのに、惑わせ失望させるような事は止めて頂戴」
「……島崎君の為を思ってそんな事を仰るんですか? だとすれば、或いは紅藤様のその言葉こそが彼を傷つけるかもしれませんよ。何せ今、あなたは島崎君をか弱い仔狐扱いしたんですから」
「全く、口ばかり達者になって可愛げが無いわね、萩尾丸。まぁ、二百年以上前に拾った時から可愛げなんてありませんでしたけれど」
源吾郎は紅藤と萩尾丸の言い合いを静かに眺めていた。妖怪らしく萩尾丸と闘うつもりはない。萩尾丸もなんだかんだ言っても大妖怪に準じる実力の持ち主だろうし、そもそも源吾郎は妖怪と闘った事は無い。しかしここで尻尾を丸めて大人しくするつもりも無かった。上司であり師範である紅藤に言い返す萩尾丸の、均整の取れた容貌を眺めながら、源吾郎は策略を練っていたのだ。
「ああ、解りましたよ萩尾丸先輩」
源吾郎は声を張り上げきっぱりとした口調で言い放つ。紅藤や萩尾丸のみならず、内気そうな兄弟子の一人も源吾郎をさっと見つめた。
「確かに、今の僕の姿は、皆さんがイメージなさる玉藻御前の末裔の姿とは似ても似つかぬ姿でしょうね。皆さんは、萩尾丸先輩はこんな姿を想像なさっているのでしょう」
源吾郎は全身に妖力を巡らせ、変化術を行使した。源吾郎は確かに妖怪と闘った事は無い。しかしおのれの持つ妖力の量や、変化が得意である事は結構前から把握している。
「――さぁ、どうかしらセンパイ」
長さを調整した尻尾で靄を追い払い、身をくねらせながら変化しきった源吾郎は問うた。今回の変化で、源吾郎は十代半ばのうつくしい少女に変化していた。あどけなさと妖艶さがせめぎ合いつつも共存する面立ち。少女故にしなやかながらも、女性的なまろやかさを持つ肢体。多少の露出はあるものの扇情的すぎない、巫女装束風の衣装を身に着けたその姿で、源吾郎は萩尾丸に近付いた。
「玉藻御前の末裔と言ったら、やっぱり妖艶な色香を持つ女狐って言うイメージでしょ? 生憎親族たちにそう言うタイプはいないけど、わたしならそういう姿を取る事は出来るわ」
源吾郎は少女になりきって萩尾丸に語りかけた。声色も口調も、ごく普通の少女と何ら変わりはない。
ゆったりとした歩みでもって、源吾郎は更に萩尾丸の許に近付いた。もとより両者はそう離れてはいない。そのまま源吾郎は手を伸ばさずとも萩尾丸に触れられる場所にまで辿り着いたのだ。
「ねぇ、もっとよくわたしを見て。良ければ手を取っても良いのよ。確かに妖狐は、鬼や天狗と較べれば、腕力や素早さに引けを取るかもしれないわ。けれど狐には狐の武器があるの。ええ、それこそが変化術であり、相手を惑溺させる力なのよ」
源吾郎は切なげな表情を作り、上目遣い気味に萩尾丸を見上げた。普段のおのれのそれとは違う、白くほっそりとした右手を意味ありげに伸ばした。変化してから萩尾丸は一言も発していないが、変化した源吾郎を凝視している事は明かだった。よしよし、変化した俺の姿に興味を持ってるな――表情を崩さずに源吾郎は心の中でほくそ笑んでいた。
萩尾丸からの挑発を受けた時、戦闘では敵わないと源吾郎はすぐに察知していた。だから一計を案じ、少女に変化して萩尾丸を誘惑しているのだ。これも一つの勝負だったし、強大な妖怪である萩尾丸に一矢報いるチャンスではないかと源吾郎は思っていた。紅藤とのやり取りを見るに、萩尾丸は力のある、しかもやけにプライドの高そうな妖怪であると踏んでいた。紅藤たちの前で萩尾丸が少女に変化した源吾郎に籠絡されれば萩尾丸の面目は潰れるかもしれない。しかし散々愚弄し挑発してきたのは向こうなのだ。多少の意趣返しは構わないだろうと源吾郎は思っていた。
この勝負におのれが勝つだろうと源吾郎は信じて疑わなかった。もとより少女に変化する事には慣れていたし、少女、特に男どもが望む少女の振る舞いがどのような物か知っていたしそれを演ずる事へのためらいも無かった。源吾郎自身は妖狐の持つ妖しい魅了の力に乏しいが、魅惑的な容貌に変化し相手の望む行動を行えば、人間などはすぐにのぼせ上がってしまうと知っていたのである。
萩尾丸の首と視線がゆらりと動いた。無表情を貫いていた彼の顔に、ふいに笑みが咲き広がる。異変を感じた次の瞬間には、彼の右手が源吾郎の手首を掴んでいた。手首を掴む乱暴さは、まさしく獲物を捕らえる鷲の爪の動きと変わらなかった。
「……全くもって見事な狐芝居じゃないか、坊や」
幼子をあやすような口調とは裏腹に、源吾郎を見下ろす眼光は鋭い。手首を万力の如き膂力で掴み、源吾郎が動いたところでびくともしない。それどころか奇妙な力が源吾郎に流れ込み、変化していたはずの源吾郎の姿は、元の姿に戻ってしまった。
唐突に萩尾丸が掴んでいた手首を放した。バランスを崩しよろめく源吾郎を前に、喉を鳴らして笑っている。
「ついさっきまではつまらない仔狐かと思っていたけれど、中々どうして面白いじゃあないか、島崎君。先程の言葉は撤回しよう。君が確かに玉藻御前の血を引いていると僕は認めるよ。お坊ちゃまだが気骨もあるし機転も利くみたいだね。武力が駄目なら搦め手を使う事、大の男がうら若い娘に化身して籠絡しようと思うなんて、その辺の野狐の男子では思いつかないか、思いついたとしてもできないだろうからさ」
満足げな様子で萩尾丸は語ると、笑ったまま静かに言い足した。
「しかし、島崎君は唯一にして重大なミスを犯していると言わないといけないねぇ――男はすべからく、若い娘に関心を持ってしまう。君はそう思い込んでいたんだろう。残念ながら、僕は女性には興味は無いんだよ。その可能性も考えていれば、さっきのあれも茶番にならずに済んだのかもしれないのに」
「お、恐れ入ります……」
源吾郎は数秒ばかり萩尾丸の顔を仰ぎ見ていたが恥じ入るように首を垂れた。さっきまで妙に傲慢でいけ好かない男だと思っていたけれど、ストイックなお方なのだ――女に興味がないと言い放つ萩尾丸に、女子にモテたいという願望を抱えている源吾郎はある種の尊敬の念を見出してしまったのだ。
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