九尾の末裔なので最強を目指します【第一部】

斑猫

すべての始まり

――享保年間、播州某所。仔牛ほどもある七尾の妖狐と、妖狐に負けぬほどの大きさを誇る雉妖怪との闘いは既に終結に向かっていた。並外れた妖力を持つ大妖怪同士は、火焔と妖気の塊が飛び交うくんずほぐれつの争いを止め、互いに距離を取った。距離を取ったと言っても、妖しく輝く二対の瞳は互いの挙動をしっかりと見据えていたが。

 妖狐と雉妖怪の身体が縮み、ゆるゆると変化していった。いずれも大妖怪であるから、人型に変化する事などこの二体の異形には造作もない事である。むしろ両者ともに人型で過ごす事の方が多いほどだ。先程は攻撃に回す妖力を少しでも増やすために変化を解いて本性に戻っていただけに過ぎない。

 変化の終わった二体の異形は、いずれも若い女性の姿を取っていた。女の姿に変化しているのはどちらの異形もメスであるためだ。


「強いわね」


 白い着物をまとった貴婦人に化身した妖狐が呟いた。敢えて残している七房の尻尾が、風にたなびく煙のように揺れていた。


「流石は雉鶏精ちけいせい一派最強とうたわれた妖怪ね。ご存知の通り、私はかれこれ八百年は放浪を続けていたけれど、あれだけの攻撃を受けながら、ほぼ無傷で立っている妖怪なんてあなたが初めてよ、紅藤べにふじ殿」


 妖狐の言葉に、紅藤と呼ばれた雉妖怪がほほ笑んだ。童女のような屈託のない笑顔である。


「ほぼ無傷というのは間違いですわ、白銀御前しろがねごぜん様。あなた様の攻撃は、狐火も尾の刃も生半可なものではありませんでした。現に私も何度も深手を負いましたわ……すぐに再生しましたけれど」


 にこやかに語る紅藤に対し、妖狐の白銀御前は思わずため息をついた。それから、胡喜媚こきびが率いていた雉鶏精一派の中に、何があっても死なない妖怪がいるという話を思い出したのだ。不死の妖怪はきっと彼女の事だろう。紅藤の指摘通り、先程の白銀御前の攻撃は、それこそ生半な妖怪が受ければ痛みを感知する前に絶命してしまうような代物である。大妖怪故に死なずに深手を負うというのはまだありうる。しかしそれだけの傷を負いながら、相手にそれと悟られずに即座に再生するなどという芸当は大妖怪であっても難しい。あまつさえ紅藤は、それを「何度も」行ったと言っているではないか。


「化け物ね……」

 白銀御前の口から思いがけず言葉が漏れた。

「化け物、ですか」


 紅藤が文字通りオウム返しをし、僅かに首を傾げた。


「確かに私と出会った者たちはすべからく私の事を化け物だとか化け物じみていると言いますわ。ですが、玉藻御前たまもごぜん様のご息女である白銀御前様からもそう呼ばれるとは夢にも思いませんでしたわ」

「そこで母上の事を引き合いに出されても……」


 妙に屈託のない笑みを見せる紅藤を眺めながら、白銀御前は力なく微笑んだ。どの組織にも属さず、仙人や神仏に仕えていない白銀御前は野良妖狐と呼んでよい存在だった。しかしながら、周囲の妖怪たちは彼女を野狐と見做してそっとしてくれはしない。白銀御前の母親は金毛九尾こと玉藻御前であり、妖怪たちは嬉々としてその事実を引き合いに出してくるためだ。それは今回とて同じ事であった。


「ともあれ、あなたが化け物の中にあっても化け物じみた力の持ち主である事は確かね。それこそ、九尾の狐が相手であってもあしらえるかもしれないわね」


 白銀御前の言葉は世辞でも何でもなく本心からの言葉だった。先程の衝突で、紅藤の妖力が自分よりも遥かに上回る事、場合によっては妖狐の最高峰である九尾の狐よりも強いであろう事を白銀御前は看破していたのだ。先の両者の戦闘は、傍から見ればどちらも全力を尽くした闘いに見えるであろう。しかし当事者である白銀御前は、本気を出していたのは自分だけである事を知っていた。紅藤の攻撃はちょっとした体当たりや翼を使っての相手の攪乱などと、実に稚拙なものでしかなかったのだ。

 あれこれと先程の戦闘を考察し分析していると、紅藤はゆっくりと頭を振った。


「私は戦闘が苦手ですので、大妖怪を相手にして互角に闘うのは難しいかと」

「あれだけの妖力があれば苦戦しないのではないかしら」

 問いかけると、紅藤は困り顔――これも演技ではない表情だった――で続けた。

「妖力は持て余すほどあるのですが、戦闘に適切な妖力の量の調節は勉強中なのです。力を振るうだけならば簡単なのですが、それではむやみに相手を傷つけてしまう事になりますし」

「戦闘が苦手ってそういう意味なのね」


 白銀御前は呆れつつもその一方で妙に納得もしていた。紅藤があくまでも妖力をおのれの再生に充てて、稚拙な攻撃しか振るってこなかった理由もここで判明した。紅藤は相変わらず少し困ったような表情を浮かべたままだ。戦闘時にむやみに力を振るい、相手を殺してしまう所でも想像してしまったのだろうか。


「成程ね。それだけの力を持っているにも拘らず、あなたが統治者として君臨していない理由が何となく解ったわ」


 妖怪の社会は実力主義である。その土地に住まう妖怪たちを統べる長が強大な力を持つ妖怪である事は言うまでもない。しかしながら、強大な妖怪であるから他の妖怪の上に君臨するわけでは無いのも事実である。支配者となる為に必要な要素は、妖力だけではないためだ。統率力・知性・人心掌握術・権謀術数などの諸々の要素も具えていなければ、海千山千の妖怪たちを心服させる事は難しい。とはいえもっとも重要なのはやる気や性格だ。幾ら妖力と諸々の才覚に恵まれていようと、本人にその気がなければ支配者にはなれない。それは卓越した能力を持つ大妖怪であっても変わりない話である。


「私はそもそも権力には興味がありません。仙道を深く知り妖術の研究が出来ればそれで満足なのです。ですが所属している組織が盤石であればあるほど、研究は安泰になります。私が雉鶏精一派の再興に拘泥しているのはそのためです」

「それで私を勧誘したのね」


 合点がいったとばかりに白銀御前は呟いた。


「雉鶏精一派は関西の鳥妖怪集団の中で一、二を争う程の勢力を誇っていたけれど、それも胡喜媚様が健在だったころの話だものね。胡喜媚様がおかくれになり、正式な後継者がいなくても、私を雉鶏精一派の傘下に加えて、勢力がある事を示したかったんでしょ」


 その通りです。紅藤は悪びれず屈託のない様子で頷いた。玉藻御前の娘というだけで白銀御前は今迄に多くの妖怪たちに絡まれてきた身分である。ましてや雉鶏精一派の創設者たる胡喜媚は、玉藻御前の義妹として親密な間柄だったという。雉鶏精一派の面々が、白銀御前に接触を図ろうとするのはとうに予想済みの出来事だった――強いて言うなれば、紅藤が強すぎた事が予想外とでも言うべきであろう。

 白銀御前様。改まった様子で紅藤が呼びかける。愛嬌ばかりが目立ったその顔には真面目そうな表情が浮かび、両の瞳が暗い紫色に輝いていた。


「此度の勝負は、引き分けという事でよろしいでしょうか」

「構わないわ。それであなたが納得するのならば。あのまま続けていれば、紅藤、あなたが勝っていたと思っているし」

「それは解りませんよ。私は正式な大妖怪のお歴々と違って、体力は殆どございませんので。続けたとしても、ばててこの場で寝込んでしまうのがオチですわ」


 ぽつぽつと言葉を交わしつつ、白銀御前は紅藤を見つめていた。先程の争いは、何も互いが憎くて、或いは殺そうとして行ったものではない。雉鶏精一派に勧誘したい紅藤と、雉鶏精一派の傘下に入りたくない白銀御前の意見が真っ向から対立し、話し合いではらちが明かないからと闘ったまでに過ぎない。妖怪としての実力を誇示した上での闘争にて勝敗を決め、敗者が勝者の主張を受け入れる。実に単純明快な話であるはずだった。それでどちらかが勝利を収めれば。


「引き分け、ねぇ……」


 白銀御前が紅藤の放った単語を反芻し、考え込むように柳眉を寄せた。彼女の脳裏は幾つもの疑問と思考であっという間に埋め尽くされてしまった。自分は敗けたと思っていたから、勝者であるはずの紅藤からのこの主張はある意味有難いものではある。しかし素直に喜べる内容とも思えなかった。引き分け。白銀御前は紅藤に敗けた訳ではないが、さりとて勝利した訳でもない。


「私の力には心服したけれど、このまま見逃すのは惜しいと悩んでいる所でしょう」


 紅藤はちいさく頷いた。心の中を言い当てられたと言わんばかりの表情だった。今回は見逃してくれるかもしれないが、ここできちんとしないと、紅藤はまた絡んでくるはずだ。そんな考えが白銀御前の脳裏にはっきりと浮かんだ。


「残念だけれど、あなたがどれだけ誘いかけて、或いは闘いを挑んだとしても、私があなたの配下になるつもりは無いわ」


 けれどね。紅藤の表情がこわばるのを見てから、白銀御前は続けた。


「あなたの強さに免じて、一度だけ機会をあげるわ。もしも、もしも私が子供を産んで、その子孫たちが出来たとしたら、そしてその子孫たちの誰か一匹があなたの配下になる事を強く望んだのならば、その子をあなたに差し上げますわ。我が身命に誓って約束します」


 本当ですか! 紅藤の瞳とその顔が喜色に輝いた。思わず前のめりになった紅藤を軽く手で制しながら、白銀御前は続ける。


「ただし、あなたが配下に出来るのは一匹だけよ。それも変な術を使って無理に操ったり力に任せて脅して従える事は出来ないわ。首尾よく配下になったとしても、あなたや修行に嫌気が差してあなたの許を離れてしまったらそれっきりよ。それに――」


 白銀御前はそこで思わせぶりに言葉を切り、それから口許に妖しく邪な笑みを浮かべた。それは奇しくも彼女の母に似た笑みだった。


「私には今の所子供なんて一匹もいないし、子供を持つ予定も無いわ。そんな条件は飲めないというのなら、今の話はなしよ」


 どうするのかしら。白銀御前は琥珀色の瞳で紅藤を見据えた。約束などと仰々しい事をのたまってしまったが、紅藤の思惑に乗らずに、尚且つ約束を守るというこの二点を両立できると白銀御前は思っていた。白銀御前の子供は未だに存在しないし、仮に子を産んだとしても、悪名高き雉鶏精一派に好き好んで仲間入りするような仔狐が出てくる確率は限りなく低いであろう、と。


「――この度は譲歩していただき有難く存じておりますわ、白銀御前様」


 紅藤は頬を火照らせたまま白銀御前に礼を述べた。あれだけの難条件を重ねておいて「譲歩」と言うのか。吹き出しそうになるのを堪え、紅藤のまっすぐな視線をその身に受けていた。


「白銀御前様に現時点で子孫がおらずとも、それは問題などではありません。白銀御前様が機会を与えてくださった事そのものが重要なのです。ええ、白銀御前様。私は待ち続けますよ、何十年でも、何百年でも、何千年でも」


 白銀御前はその時、自分はつがいも作らずに独り者として暮らし、いずれは生涯を終えるだろうと思っていた。紅藤と出会ってからきっかり十五年後、白銀御前は子をなす事になったわけだが、その未来を紅藤が知っていたのか、それは定かではない。

 


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