第一幕:雉仙女への弟子入り

三月中旬の朝

 《平成二十九年三月某日。白銀御前と紅藤の闘いからおよそ三百年後》


「源吾郎、源吾郎。いい加減に起きなさい」


 誰かが自分の頭の近辺で叫んでいる。女の声だ。まだ眠いのに……脳が覚醒を拒否しているのか、島崎源吾郎は枕元で呼びかける声の主が母か叔母か姉なのか判別できずにいた。すっぽりと被った布団の中で、源吾郎は眉根を寄せる。が、目覚まし時計よろしく呼びかけていたその声がふいに止んだ。ああ、これで二度寝が出来る……源吾郎の表情が緩み、意識が今再び眠りに向かおうとしていた。呼びかけていた声が静かに息を吸う音を、源吾郎はこの時聞き逃していた。


「二週間後に紅藤様の許で修業をするんでしょ。そんなに寝てばっかりじゃあ……」


 紅藤。修業。源吾郎は布団を跳ね飛ばさんばかりの勢いで半身を起こした。クリアになった視界の先には、呆れたような笑みを浮かべた源吾郎の母・島崎三花が控えていた。枕の傍らに埋もれていた目覚まし時計を探し、時刻を確認している間に源吾郎はすっかり目を覚ました。


「おはよう、源吾郎」


 頃合いを見計らって三花が源吾郎に改めて挨拶をする。源吾郎はやや素っ気なく挨拶を返し、もぞもぞとベッドから降り立った。


「このところずっと寝坊しているみたいだけど。若いからってあんまり夜更かししちゃあねぇ……」

「夜更かしなんかしてないよ、母様」


 軽い調子ながらも説教じみた事を口にする母に対して、源吾郎は口を尖らせた。


「寝る時間があんまり変わってない事は母様だって知ってるだろ。ただ、布団の中で考え事をするようになっただけだし」

「考え事って、どんな事?」


 三花はいっそ無邪気な様子で源吾郎に問いかけた。目を白黒させながら源吾郎は母の顔を見つめていたが、それは別に寝起きだからではない。美魔女だのなんだのと言われているものの、母の姿は一応の所中年女性のそれである。そんな母が、子供っぽい様子で末息子に話しかけて来るとは思っていなかったためである。

 いろいろさ。深い吐息と共に源吾郎は呟いた。今迄人間として生きてきた事、高校卒業を機に妖怪として生きる事に対する希望的観測……それこそ考えている事は色々あったが、敢えて母の前では口にしなかった。


「そりゃあ、源吾郎も色々考えるわよね」


 穏やかに語る三花の顔から源吾郎は視線を逸らしていた。直視せずとも母が動物の仔でも見るような、微笑ましく和やかな表情を浮かべている事は解っていた。成長していく源吾郎にとっては少し腹立たしい、しかし幼少の頃より馴染みのある表情だった。両親のみならず、年かさの四人もいる兄姉たち、母の弟妹たる叔父や叔母さえも、源吾郎を未熟な年少者、幼い庇護者と見做し、相応の振る舞いを行っていた。

 自分が野心を抱いたのは、源吾郎を「可愛い仔狐」と見做す親族たちを見返したいだけなのかもしれない。野心そのものは昔から変わらないが、近頃はそんな考えが脳裏をちらつくのだ。俺は母様や兄上たちや姉上が考えているような仔狐じゃなくてれっきとした猛獣だと、その身に流れる貴種の血に違わぬ実力があると、その事を認めさせることができればどんなに嬉しいだろうか。源吾郎は静かに考えながらほくそ笑んでいた。


「あら、寝癖が出ているわ」

 

 源吾郎の心中に渦巻いていた、少年特有の青臭く仄暗い考えは、母の実に世俗的な指摘によって吹き飛んでしまった。源吾郎は声にならない音声を喉から漏らしつつ、母が指し示した部位を見るべく、半身を捻って斜め後ろを確認した。寝起きの源吾郎の臀部からは、さも当然のように白銀に輝く尻尾が四本生えている。母の指摘する寝癖を、源吾郎も発見した。大根ほどの太さがある尻尾の先端に生える毛が、妙に跳ね上がったり絡まったりしていたのだ。源吾郎はその部分をやや雑に整えてから前を向いた。それと共に、全長一メートル半もある源吾郎本体よりも壮麗な見た目の尻尾の輪郭が薄れ、見えなくなった。


「ご飯の用意はできてるわ。少し冷えているけれど、温めれば良いから」

「冷えてても大丈夫だよ」


 息子の尻尾の寝癖を指摘した三花は、源吾郎が尻尾を隠す所をもちろん目撃していたが、特に気にも留めずに普段通りの会話を行っただけだった。源吾郎が妖狐の血を引いている上にその性質が妖怪に近い事などは、彼の実母である三花はとうに心得ている事柄である。何しろ、三花自身が妖狐を母に持つ半妖なのだから。島崎三花は妖狐の半妖、それも玉藻御前の孫娘にあたる存在である。今は人間社会に溶け込んでいるので不惑間近の長子がいる、ちょっぴり若作りの美魔女という事になってはいるが、半妖として生を享けてかれこれ二百八十年は経っているのだ。


 玉藻御前の孫娘を母に持つ島崎源吾郎は、言うまでもなく玉藻御前の曾孫にあたる存在である。母の代で既に半妖であり、父が人間であるために、源吾郎自身は妖狐のクォーターであり、本来ならば母や叔父叔母よりも人間に近しい存在であるはずだった。現に源吾郎の四人いる兄姉たちは、妖狐としての特徴は殆どなく、残っていたとしても形骸的なものだった。無論母親譲りの整った容貌や純血の人間よりも五感が鋭いなどという妖狐由来の特徴はあるにはあるが、「普通の人間です」という主張が通る程には人間離れした存在でもない。

 とうに成人を迎えた兄姉たちは、サラリーマンやオカルトライター、工場勤務に画家と様々な業種に就いたが、ごく普通に人間社会に溶け込み、人間として暮らす事を選んでいた。妖力らしい妖力を持たない兄姉たちにしてみれば、それが当然の選択だと言わんばかりに。

 妖狐のクォーターたちの中で、人間よりも先祖である妖狐の血が色濃く発現した唯一の存在。それこそが島崎三花の末息子、島崎源吾郎だった。

 

 源吾郎は母が戻ったリビングに直行せず、まずは洗面台に向かった。洗面台で顔を洗うのが源吾郎の習慣である。少しでも女子にモテようと身だしなみに気を遣っているという面もあるにはあるが、目が覚めたら自分の顔を確かめておきたかった。別に源吾郎はおのれの容貌を好いている訳ではないのだが。

 長方形の鏡に映るおのれの像に、源吾郎はざっと視線を走らせる。鏡に映るのは見知った若者の顔である。日焼けの形跡がないような生白い肌に奥二重か一重か判然としない細い目、丸みを帯びた低い鼻、分厚くもなく薄くも無い唇……醜男ではないがイケメンとも言いがたい、端的に言えば特徴の薄い顔つきである。かつて中学生か高校生だった時に、同じ部活の女子が気遣い混じりに「島崎君って平安貴族みたいな顔だから、平安時代だったらモテたかもしれないよ」と源吾郎の顔を評価していた事があった。

 源吾郎はしばらく鏡の向こうのおのれを睨んでから、深々と息を吐いた。今日も俺は俺のままだ。自分の顔が寝ている間に急激に兄上のような超絶イケメンになっているなんて事はなかった。そりゃそうだろう。幾ら玉藻御前様の末裔だからって、そんな超展開なんてある訳ない。

 四分の一まで妖狐の血が薄まったにも関わらず、尻尾を四本も持つ源吾郎はある意味兄弟たちの中で最も母親の、妖狐の血を色濃く引いていると評価できるだろう。しかし皮肉な事に、源吾郎の容姿は人間である父親に似ていたのだった。

 

 テーブルには既に朝食が用意され、母ははす向かいに腰を下ろし、新聞を読んでいた。挨拶をしてから食事に取り掛かったところで、母は思い出したように顔をあげる。


「いよいよ再来週から始まるのね」

「う……うん」


 唐突な母の言葉に、源吾郎は頷くのがやっとだった。優雅に新聞を読みながら末息子の食事を観察しているのだろうと源吾郎は思っていたのだが、母の思案顔を見て驚いてしまったのだ。


「来週から一人暮らしも始めるし。あ、でもきちんと計画は立ててるから、母様は心配しなくて大丈夫だけど」


 直近のイベントを口にしながら、源吾郎も思案に耽っていた。二月末に高校を卒業した源吾郎は、今長い春休みを満喫している最中だった。満喫と言っても自堕落に暮らしていた訳ではない。運転免許を取るべく教習所に通ったり、これからの生活の算段を立てたりと、高校生だった頃よりもある意味忙しく充実した日々を送っていたのだ。ついでに言えば実家で両親や長兄と一緒に暮らすのも今週いっぱいまでだった。


「……新生活は不安かしら?」


 声のトーンを僅かに落とし、三花が問いかける。一見すれば新生活を始める大人になりかけた息子を案ずる母親の図そのものだった。目玉焼きの美味しさに機嫌を良くした源吾郎は、不安なんてないよ、むしろワクワクしているくらいさ、と軽い調子で言い放った。


「……この半年間で色々あったなーって思ってただけだよ、母様」


 源吾郎は思案に耽るうちに、未来の事だけではなく過去の事も思い出していたのだ。いずれは妖怪としての生き方を選択し、玉藻御前の曾孫である事を世に知らしめようという野望は幼い頃から持ち続けていた。しかしそうするための具体的な手段、要は雉仙女こと紅藤の許に弟子入りする事が決定したのは半年前の事であったのだ。


「いやさ、俺が高校卒業後どうするかって話になった時に、兄上たちや叔父上たちまで集まって大騒ぎになったけど、結局紅藤様の許で修業するって事で落ち着いたからさ。いま思い出してもあの親族会議は凄かったよ」

「そりゃあ、母上が、あなたのお祖母ちゃんが公認したんだから弟たちも何も言えないわよ」


 そう言うと、母も目を細め、何かを思い出そうとしていた。母は玉藻御前の孫娘である事は源吾郎も知っていた。しかし源吾郎も想像すらしなかった事をも知っている事を知ったのは、半年前の親族会議があったからだ。


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