荒ぶる親族会議
源吾郎の進路を話し合うというテーマの親族会議が開催されたのは、昨年九月の土曜日の事だった。日曜日ではなくわざわざ土曜日に開催されたのは、議論が長引いたとしても親族たちの通常業務に支障をきたさない様にという運営側(要は源吾郎の両親だが)の配慮によるものだったのだろう。
進路についての親族会議がある事を当事者である源吾郎はもちろん聞かされていたが、それでも八畳間の和室に、両親・母方の叔父たち・兄姉らがすし詰め状態で集まっている様子は壮観だった。親族らの表情や座り方はまちまちだったが、彼らから放たれる圧は相当なものだった。尻尾のある母や叔父たちが、惜しげもなく黄金色や銀白色の尻尾を露にしているからなのかもしれない。集まっている者たちの中で尻尾を出していないのは元から尻尾がない者たち、要は生粋の人間である父の幸四郎と、末弟よりもうんと人間に近い源吾郎の兄姉たちくらいだ。
そんな室内に招き入れられた源吾郎は足取りも軽やかに空いている箇所に、気負いなく腰を下ろした。母方の親族がほぼほぼ集合する中で、源吾郎は実の所さほど緊張していなかった。全員ではないにしろ、集まっている親族らに今後の生き方を示すのにうってつけだとほくそ笑んでいるくらいである。
「これで全員揃ったかしら」
母の三花が視線を走らせてから皆に問いかける。末の叔父が事前に聞いていた欠席者(仕事の都合上、叔母と二番目の兄が欠席だった)の報告を行うと、三花は軽く目を伏せてからゆっくりと頷いた。母がこの度の親族会議の司会進行役であるらしい。
「源吾郎の、高校卒業後の進路、身の振り方について発表するわ。気になった事とか、意見があればどしどし言ってちょうだいね」
すました顔で言うと、母は源吾郎に合図を送る。
「さぁ源吾郎。あなたの口から言ってちょうだい。ここまで親族が集まるのはあんまりないけれど、取り繕う必要は無いわよ」
解ってるとばかりに源吾郎は頷き、躊躇わずに口を開いた。
「俺は高校を出たら、妖怪としての生き方を選ぼうと思ってるんだ。それでもって、世界征服がやりたい。そこまで大それた事にならなくても、妖怪たちの王者として君臨したいと思ってるんだ。何せ俺は――母様も叔父上も姉上も兄上たちもだけど――かの偉大なる大妖狐・玉藻御前様の直系の子孫なのだから」
源吾郎の物言いは齢十七の若者のものとしてはいささか芝居がかったものであった。実際に源吾郎は、おのれの政策を記者の前で語る若手議員を演じるような塩梅で親族に進路を宣言したのだ。喋りながら、源吾郎は内心おのれの言葉に酔い痴れてもいた。ああ、良いぞ良いぞ。叔父上たちや兄上たち姉上の表情はどうだ。幼い仔狐だと思っていたこの俺の、堂々たる主張に目ん玉をひん剥いて驚いているじゃあないか。ああ、色々思う所はあったけれど、中学高校と演劇部に入って、演技演劇の研鑽を重ねていて本当に良かったぜ。
しかし源吾郎その面に浮かんだ恍惚とした笑みは、ほんの数秒後には儚くも霧散した。親族らが瞠目し、源吾郎を凝視していたのは真実である。源吾郎に集まっている視線には、彼に対する称賛の色は無かった。当惑・失望・義憤……視線に込めた感情はまちまちだったが、いずれも冷ややかなものが根底にある事には変わりない。
「源吾郎は本気で言っているのか、正気なのか……」
「ええと、仮にこれから書く小説の内容を暴露しただけだとしても中々イタイと姉としては思うわ。そりゃあ、若い子が権力とか強さとかに憧れるのは仕方ないとして、そんなのを掴んでふんぞり返るっていう主人公の話はねぇ……」
「三花姉さんも義兄さんも庄三郎君の事で散々苦労していたと思っていたが、まさか末息子までが悩みの種だったとはなぁ。いやはや、なまじ妖力がある分庄三郎よりも厄介かもな」
気付けば親族たちは顔を見合わせ目配せをして思い思いの事を口にし始めているではないか。味方になりうるかどうか解らないが、源吾郎は知らず知らずのうちに両親に視線を向けていた。舌鋒鋭く意見を述べている親族の中で、両親は何も言わないでそこにいたのだ。父は柔和なその顔に困り顔を浮かべており、母は表情の読めぬ密やかな笑みを向けながら親族たちを見つめていた。
「まぁまぁ兄貴たち。ちょっと落ち着きましょうよ」
どうしたものかと思っていると、隣に座る末の叔父・桐谷苅藻が会話に横槍を入れていた。兄姉はもちろん、苅藻の兄である叔父たちも話し合いを止めた。
「そりゃあ兄貴たちも思う所はあるでしょうけれど、今回の会議の主賓は源吾郎ではありませんか。思うに、源吾郎はまだ将来の事についてはっきりとした事を全て言い切ってはいませんし」
兄たちに話しかけているためか、苅藻の口調は普段とは異なり丁寧なものだった。
「さぁ源吾郎。お前が最強を目指している事や世界征服とやらを考えている事は、俺も姉さんも兄貴たちも十分に解ったよ。だから今度は、何故そんな事を考えるのか教えてはくれないか」
そして聞きなれた砕けた口調で、源吾郎に苅藻は語りかけていた。
「――一概に世界征服と言ったとしても、その背後にある動機が如何なるものなのか、それによってこれから俺たちが源吾郎に話す内容は変わってくると思っているんだ。虚構と現実をごっちゃにするなと叱責するだけで済むかもしれないし、ひとまず大学に進む事をアドバイスする可能性だってある。もちろん、それ以外の理由をお前が抱えていて、尚且つ兄貴たちでさえそれだったらしゃあないわ、と思う可能性もあるにはあるけれど」
「ああ……はい」
苅藻の口調はある程度砕けてはいたが、日頃のひょうひょうとした表情はなりを潜め、ほとんど真顔に近かった。源吾郎としても世界征服を行うための動機は、今この場所で語らねばならない事は解ってはいた。
「但し源吾郎。自分が玉藻御前の末裔だからって言う一言で片づけるのは無しだからな。俺たちはお前が玉藻御前の曾孫だってことは百も承知だし、そもそもここに集まっているみんなは、幸四郎義兄さん以外は玉藻御前の孫か曾孫だしな」
さぁ語ってみせろ。お前が抱えている真の理由を。無言ながらも目で促され、源吾郎も苅藻を見つめ返してから口を開いた。
「だってさ、世界征服できたら、美味しいものを気が向いた時に好きなだけ食べれるし、俺好みの可愛い娘とか美女とかが傅いてくれるハーレムとか作れるもん。俺だって男だよ。女の子にだっていっぱいモテたいし、皆から凄い奴だって称賛もされたいよ。叔父上たちはご存知かどうかは知らないけれど、学校でも『皆さんは自分の得意な事を活かして自己実現しましょう』って言って子供たちを教育するんだ。で、俺は玉藻御前の末裔の中でもとりわけあのお方の力を色濃く受け継いだんだ。大妖怪すらひれ伏させ、人間社会も妖怪社会も等しく震撼させ、ついで酒池肉林を実現させた力を、やりたい事のために使って何が悪いのさ。俺だって酒池肉林にはめっちゃ興味あるよ。未成年だけど」
源吾郎はここでいったん言葉を切った。誰も口を挟むような暇を与えぬようなマシンガントークを繰り出していた源吾郎だったが、まだ語りきっている気はしなかった。それでも喋るのをやめたのは、ひとえに身体が思いについて行かなかったからに過ぎない。
親族たちはしばらくの間何も言わなかった。彼らは拍子抜けしたと言わんばかりの生暖かい視線を源吾郎に向けていたのだ。
「ねぇ源吾郎。一ついいかしら」
まず口を開いたのは姉だった。彼女は一回り以上年下の弟に対して無遠慮な視線を向けたのち、やはりあけすけな様子で言い足した。
「最後の辺りから酒池肉林ばっかり言ってたと思うけれど、あくまでも酒池肉林の肉は豚肉の肉であって他意は無いんだからね。まぁ、使用人たちを裸にして宴会場にスタンバイさせてたともあるけれど、あれも王様の命令で殺し合いをさせて、敗けた方を猛獣とか毒蛇の餌にしていただけらしいわよ。だから、その、源吾郎が期待しているような甘美で破廉恥な内容じゃあないと思うから」
「双葉姉様。酒池肉林に関してそんな真顔で解説されても……」
妙に誇らしげな表情の姉に対する源吾郎のツッコミは弱弱しかった。だが源吾郎が行きつく暇もなく今度は姉の隣に控える長兄が口を開く。
「源吾郎よ。世界征服という進路を考えていると聞いた時にはぎょっとしたが、今こうして君の本心を知れて兄さんは妙な話だがほっとしているよ。最近、君とは世間話や事務的な話ばかりで、込み入った話を聞いていなかったから。だがね、君の望む進路は、君がほんとうに望んでいる事に較べれば余りにも大それていると僭越ながら思うんだ。君はまだ若いし、弟たちの中ではある意味一番頭がいいとも僕は思ってるんだ。だから、玉藻御前から受け継いだ力などに頼らずとも、君の真の望みは叶えられると……」
「俺からあのお方の力を取りあげたら、一体何が残ると思ってるんですか!」
源吾郎は半ば叫ぶような勢いで言い放っていた。長兄の態度は叔父たちと異なり優しく柔らかく、おのれの意見を口にしている時でさえ、源吾郎の気持ちを汲み取り好意的だった。だがそれでも、長兄の言葉に源吾郎は激してしまった。
「宗一郎兄様。兄様は自分があのお方の能力とは縁遠いなどと考えているのであればそれは大きな間違いってやつですよ。宗一郎兄様は、いえ兄上たちも姉上も、術を操るような能力は無いでしょうけれど、自分の顔を鏡で確認しても、それでもなお自分たちは玉藻御前の血は薄いからあの方とは無関係だなんて言えるんですか? 兄上たちも姉上も、あのお方から頂いた大切な物を、俺が望んでも手に入れられなかった物を、とうに得ているではありませんか」
目を丸くする三人の兄姉を睨みながら、源吾郎は続けた。
「島崎君のお兄さんはめちゃくちゃ美形だけど島崎君はそうぱっとしないよね、ってクラスメイトや近所の大人たちから言われる気分がどんなものか、兄上たちには解りますか? 学芸会や文化祭のステージで、見た目だけで端役に回されて、演劇の才もやる気すらも無いような軽薄なイケメンが誰にも疑われずに主役になるのを陰から眺める悔しさが、姉上には解りますか?」
世の中本当におかしいよ……それは若者の戯言に過ぎなかったのかもしれない。しかし瞳に暗い光を宿した源吾郎の口から出てきたときには、ある種の呪詛めいた響きが滲んでいた。
「人間としての性質を多く受け継いだ兄上たちが妖狐としての器量と魅力を持っていて、俺は折角妖狐としての能力を母様から、祖先から受け継いだというのに、よりによって……」
感極まった源吾郎は強く唇を噛んだ。自分が兄姉たちと異なった容貌と能力の持ち主である事は幼少の頃より知っていた。誰にも言った事は無いが、実は自分は兄姉たちとは血縁ではないのではと本気で悩んだ事もあった。実際には疑うまでもなく源吾郎も四人いる兄姉たちも同じ父母から生まれた兄弟ではあるのだけれど。
ああ、緩んだ源吾郎の口から、少年らしからぬ諦観の混じった吐息が漏れた。
「母様の、玉藻御前様譲りの恵まれた容姿をお持ちの兄上たちと姉上は、さぞや幸せでしょうね。努力してもそれを認めてくれずに単なる道化と見做されて貶められる事も無いし、それどころか事あるごとに過大評価されてチヤホヤされるんですから……」
源吾郎は言葉を切り、兄姉らを見つめた。姉は「何言ってんだこいつ」と言わんばかりの表情で、二人の兄は憐れむような視線を源吾郎に向けていた。彼らの表情を数秒間直視した源吾郎は首を垂れた。つい先程まで活火山よろしく激していた源吾郎の心は急激に醒めつつあった。
「下らん、実に下らんぞ、源吾郎よ」
年かさの叔父の一人がたまりかねたように呟いた。
「世界征服などという大それた野望を我らが抱く事自体が間違いだというのに、まさかあんな幼稚な理由でそんな大望を抱いたとはな。なまじ力を持ちすぎているから余計にたちが悪いではないか。源吾郎。お前はおのれの望みを叶えるために動くだけだと考えているだろうが、お前が齎した災禍は、我々にも及ぶものだと心得るんだな。或いは、今ここで我々が、お前の下らない野望とやらを追い出してやっても構わないが」
この叔父の呟きに応じて、もう一人の叔父が静かに頷いている。この叔父さんたちの事は何となく苦手だ。源吾郎はふとそんな事を思った。叔父たちは一族の安寧を優先したいと考えている事は伝わるのだが、強迫観念に取り憑かれているような気配を感じてしまう。
「あんまりカッカなさると血圧が上がってしんどくなりますよ、小国丸の兄さん」
またしても苅藻が叔父に声を掛ける。
「私は真剣な話をしているんだ。変な事を言って茶化すんじゃない」
「神経質にならずともいいではないですか。そりゃあ俺とて甥が悪事を重ねるのを黙って見ているつもりはありませんが、俺たちの甥がヤンチャになって悪目立ちしたからと言って、それが即、玉藻御前の末裔たる俺たちへの災禍になるかと言えば話は別ですよ。何せ玉藻御前の末裔を騙っている妖狐は、近畿だけでも数千匹、兵庫だけでも六、七百匹はいるんですよ」
「それとこれとは話が別だ」
「まあまあ落ち着いて……」
小国丸と苅藻の話は平行線をたどりそうだった。その事に気付いた源吾郎は、タイミングを見計らって声を上げた。そして皆の注目を受けた中で、その言葉を口にした。
「叔父上たちや兄上は色々とお考えでしょうが、俺が妖怪として生きる道を学ぶことはもう決まってるんです。来春の四月から弟子入りをして修行に励むって事を、ある妖怪と既に約束済みなので」
室内のあちこちから驚嘆の声が上がる。親族らのほとんどは、この親族会議にて源吾郎の進路を決めようと思っていたのだろう。だからこそ源吾郎も先手を打っていた。進路が決まっていない段階で会議が始まれば、親族らになだめすかされて丸め込まれていたであろうから。
「……まあ、何と言うか賢い選択だと俺は思うよ」
ぎこちない笑みを浮かべながら、叔父の苅藻が呟く。
「いくら源吾郎が四尾で凡狐よりも才能があるとはいえ、いきなり野良妖怪になるのはリスクが高いからねぇ」
野良妖怪とは組織に所属しない妖怪たちの総称である。多くは組織のしがらみに縛られない自由を享受している訳であるが、後ろ盾がない分他の妖怪や悪徳退魔師に襲われたり殺されたりする危険と隣り合わせの日々を送っている訳である。
話を小出しにするのは卑怯だと叔父が憤慨混じりにぼやいていたが源吾郎はこれを聞き流した。もとより自分は話を小出しにした覚えはない。自分の意見に叔父たちが妙に反応を起こすから、その分話が遅れただけの話である。
「それじゃあ源吾郎。源吾郎は妖怪の許で修業するって事だけれど、お前の師匠になる妖怪を、私たち教えてくれないかい」
穏やかな声音で父が尋ねた。末息子が妖怪の弟子になる未来を受け入れようとしている父の顔を見ながら、源吾郎は答えようとした。その妖怪の名を出せば叔父たちは大騒ぎするが、それ以上の事は出来ないだろう。
「――雉仙女・紅藤の許で修業する事が決まった。そうでしょう?」
源吾郎が今まさに言おうとした事を、何者かがよどみない口調で言い放った。源吾郎の向かいに座る叔父や兄姉たちの表情が、強い驚愕に染まる。何事だろう。源吾郎も振り返った。
「――――ッ」
そこにいる者を目の当たりにした源吾郎も、言葉を失った。
親族会議まっただなかの中に姿を現したのは、女性に化けた一人の妖狐だった。彼女は静謐な表情でもってそこに佇んでいる。純血の妖狐、それも高位の存在である事は、背後でたゆたう白銀の六尾を見れば明らかだった。
今再び室内は静寂に満たされていた。唐突に現れた六尾の妖狐に誰も彼も驚き、母や叔父たちは強い感情の籠った眼差しを彼女に向けていた。彼女もまた見つめ返している。視線のやり取りに込められた感情は強かったが、敵意や殺意と言った類ではない。むしろ思慕や慈愛と呼べるような、柔らかく暖かなものだった。
ごきげんよう。妖狐がその身に違わぬ優雅な物腰で言い放つ。
「みんなしばらくぶりね。けれどもう誰一人欠ける事も無くて実に嬉しいわ」
源吾郎は自分よりもいくらか年上の女性に化身しているその妖狐を凝視していた。六尾という狐の特徴がなくても彼女が生粋の異形である事は肌で感じ取っていた。若い娘の姿ながらも円熟した気配や落ち着いたデザインの衣装を身に着けても尚漂っているろうたけた気品などは、並の人間とはかけ離れたものだった。
「お母様も元気そうで何よりですわ」
妖狐の闖入者にまず声を掛けたのは、源吾郎の母である三花だった。
「それにしても、今回の親族会議にお母様も出席なさるおつもりでしたら、もう少し早く来てくださっても良かったのでは無いでしょうか。今は弟たちも息子たちも落ち着いていますけれど、所々炎上しかかっていていましたし」
あのお方が、俺のお祖母さま……? 納得と疑問と驚愕が脳内で渦巻く中、源吾郎は六尾の妖狐を見つめていた。源吾郎はもちろん、純血の妖狐である祖母の存在は知っていた。しかし彼女の動向は謎に包まれていたため、安否すら不明だったのだ。そんな彼女が、まさかアポも無しにこの親族会議に乱入する事は源吾郎には想定外の事だった。
「私はあくまでも、源吾郎の進路について皆が納得する所を見届けたかっただけだから、今このタイミングが丁度良いと思っているの。それに、はなから私が出席していたら、息子たちも孫たちも委縮してしまって、言いたい事を言えなかったはず。久しぶりに顔を合わせた兄弟姉妹やその甥姪たちが、結果はどうあれ思っている事を率直にぶつける事こそが、健全な会議の姿だと三花も思うでしょ」
「それもそうねぇ……ちょっと手が出そうになったところもあって冷や冷やしましたけれど」
若い娘の姿を取る祖母と、不惑間近の長兄の親に相応しい姿を取る母の会話には、内容のみならず構図そのものにも気になる所はあるにはある。しかし源吾郎は突然の事が多すぎてツッコミを入れる余裕すらなかったのである。
「お祖母……さま……?」
こちらを見つめる六尾の妖狐に、源吾郎はおずおずと声を掛けていた。源吾郎が生まれた時に祖母も立ち会っていたと聞いてはいたが、赤ん坊の頃の事など覚えていない。従って祖母と対面するのは今回が初めてと言っても遜色ない。
「しばらくぶり、いえあなたに合わせれば初めまして、になるかしら。私は白銀。妖怪たちからは母の呼び名にちなんで白銀御前と呼ばれるわ」
白銀御前は気まぐれに揺らしていた六尾に力を籠めると、真面目な表情を作って言い足した。
「あなたにとっての祖母であり、大陸からこの地に降り立った大悪狐・玉藻御前の娘よ」
重々しい口調で告げる白銀御前を前に、源吾郎は背筋を伸ばして見つめ返すのがやっとだった。理由はさておき彼女の威容に打たれていたのだ。純血の妖怪、玉藻御前の娘であるという事実を脇に置いたとしても、それでもなお有り余るほどの威厳を白銀御前は持ち合わせていた。
「源吾郎。あなたは妖怪として生きるために来春から紅藤殿の擁する研究センターに就職し、そこで彼女の弟子として修業を行う。それで違いないわね」
源吾郎は瞬きを忘れて白銀御前の端麗な面を見つめるままだった。その通りですと頷けば話は早いのだろうが、彼女が唐突に現れた時と同じくらい驚いていたために反応できなかったのだ。
「そんなに緊張しなくて良いのよ。別に私は事実を口にしただけだし、息子たちと違って源吾郎を咎めるつもりは無いわ。むしろ――」
思わせぶりに言葉を切り、白銀御前は口許に艶麗な笑みを浮かべた。
「この白銀御前の名において、あなたが紅藤殿の許で修業する事を許可しましょう」
源吾郎は相変わらず瞠目したままだった。ややあってから、野太く鋭い声が、静寂を切り裂き源吾郎の意識を現世に引き戻した。声の主は叔父の一人、いかにも血の気の多そうな小国丸だった。
「正気ですか母上。『黒い羊』たる源吾郎に妖怪としての生き方を許可するには飽き足らず、よりによって、あの忌まわしい雉鶏精一派の紅藤の許で修業する事を許可するなんて」
紅藤の名を出した辺りで、頬を火照らせながら語っていた叔父の顔は蒼ざめだしていた。源吾郎も紅藤が他の妖怪から危険視されている事は知っている。デキる妖怪が読むビジネス誌の人気企画である「ガチでヤバい大妖怪トップテン・関西編」の中に、紅藤が上位にランクインしている事さえ知っているくらいだ。しかし実際に紅藤に会ってみたものの、言う程危険そうな感じはしないというのが、源吾郎の率直な感想である。
もっとも、叔父たちはそのような評判のあるなしに関わらず、胡喜媚と関わりのある雉鶏精一派を恐れてはいたが。親族たちの多くは玉藻御前の末裔でありながら野心を持たず安寧を保って暮らす事を強く望んでいる。雉鶏精一派は、そんな自分たちの生活を脅かしかねないと思っているらしかった。
「――私に子孫が出来た場合、その子孫たちの中から紅藤殿に弟子入りを強く望む仔狐が現れた場合、その仔を紅藤殿に弟子として差し出すと、私は紅藤殿と盟約を結んだの。自分の主張を通すために一勝負した後に。もう、三百年も前の事だけどね」
瞠目しているのは源吾郎だけではなく叔父たちや父親や兄姉たちも同じだった。むしろ源吾郎よりも兄姉たちや父親、それよりも白銀御前の息子らである叔父たちの方が驚きの念は強いようだ。
「三百年前と言えば、私は独り者で気ままに過ごしていたけれど、紅藤殿の方は雉鶏精一派の立て直しを図ろうと大車輪で働いていたところだったのよ。胡喜媚様が亡くなった直後でもあったし、頭目を継ぐはずだった胡喜媚様の一人息子もその百年前に失踪したきり、行方知らずになっていたからね」
白銀御前は伏し目がちに語っていた。自分の言動を悔いているというよりも、遠くの記憶を掘り起こし、細々とした事を再現しようとしているように見えた。
「先の盟約を聞いて不安な気持ちにさせてしまったのならば謝るわ。あの頃は単純に、自分が雉鶏精一派の傘下に入る事を疎んで、それでも紅藤殿を引き下がらせるための話だったの。あの頃の私は婿を得る事も実の子を持つ事も無いだろうと思っていたから。それに、万が一の事も考えて、あれやこれやと制約を付けておいたのよ」
白銀御前の視線は、叔父たちを素通りし他ならぬ源吾郎の前で止まった。
「子が生まれたとしても紅藤殿に提示した条件に合致しない可能性の方が高いと私は考えていたの。実際には、末孫の源吾郎が紅藤の許に弟子入りする事を切望しているし、そうするべきだろうと私も思っているわ」
源吾郎。いっとう柔らかな声で白銀御前は呼びかける。
「妖怪として生きるのならば、凡百の妖怪ではなく名声と栄光を得たいと思うのならば、紅藤殿はその道を学ぶための師範としてまたとない存在になるはずよ。研究者ゆえに癖の強い面はあるけれど、強大な力を持つ者が心得なければならない大切な事について、彼女は真摯に教えてくれるわ」
源吾郎は、先日出会ったばかりの紅藤の顔を思い浮かべようとした。白銀御前の言うような難しい事を考えている妖怪なのだろうか、と。しかし祖母との対面の驚きが未だ尾を引いているのか、上手く紅藤の顔を思い出す事は出来なかった。
「……母上様が、紅藤とそのような盟約をかわしていたとなれば、今回源吾郎が弟子入りするというのも致し方ない事でしょうね」
年かさの叔父の一人が、柔和そうな顔に困惑の色を見せながら白銀御前に告げる。
「しかし、正直に盟約に従って大丈夫なのか、実の所不安でもあるんです。源吾郎を弟子にした事に味をしめて、我々にちょっかいを掛ける懸念とかは……」
その心配は無いでしょう。何番目かの息子の意見に対して、白銀御前はきっぱりと言い切った。
「紅藤殿は私が示した盟約を自ら破るような事はしないと思っているわ。昔は彼女を警戒していた時もあったけれど、視ているうちに律儀だとか善良だという彼女の善性にも気付いたのよ。それにもし、彼女がおのれの欲するがままに力を振るう悪逆な妖怪であったならば、三百年前のあの勝負の時に、さっさと私を殺してその死体を忠実な手下に作り替えて隷属させる事も出来たはず」
「し、死体を加工して隷属……」
そんな事は出来るのか。素直な源吾郎の問いかけに、白銀御前は頷いた。
「紅藤殿の妖術の知識と技量面では可能でしょうね。そもそも彼女は三百年前に、妖怪から放出された妖気のかたまりを培養して、独立した妖怪の子供を作るという術すらも会得して、二度ほどその術で新しい妖怪を生み出しているのよ。そのような難業に較べれば、妖気も素体も十分に残っている死体を、生体ロボットに仕立てるような事は難しくは無いでしょう――それを彼女自身の倫理観が拒まなければの話だけれど
ともあれ、源吾郎が弟子入りしても、源吾郎も私もあなたたちも特段不利益はこうむらないはずよ」
白銀御前が笑みを作ってそう言うと、叔父たちはもう何も言わなかった。顔を見れば完全に納得しきっている様子ではないものの、母を言いくるめる気概は無いらしい。
源吾郎はそんな親族から視線を外し、自分の母親である三花の顔を見た。意外にも母は落ち着き払っていて、むしろ満足げな笑みさえ浮かべている。
もしかしたら、母様はお祖母さまと紅藤様の盟約を知っていたのだろうか――? そのような疑問が脳裏をかすめたが、猛烈な疲労感に襲われ、うやむやにしたままでも構わないだろうと源吾郎は思い始めていた。
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