とにもかくにも師弟の契り
「
源吾郎の対面に座る、二十代半ば程の女性の姿を取った、しかしゆうに六百年もの歳月を生き延びたその妖怪は、愛嬌のあるその顔にささやかな笑みを浮かべて告げた。自分の祖母・白銀御前も彼女と相対した時、この笑みを見たのかもしれない。取り留めも無いがそんな考えが脳裏にふと浮かんだ。
「私の事は存じていると思うけれど、改めて自己紹介するわね。私は紅藤。雉仙女とも呼ばれているわ。この研究センターの長にして、雉鶏精一派の第二幹部です」
妖怪もとい紅藤は、笑みを浮かべつつも淡々とおのれの地位について源吾郎に説明した。源吾郎は知らず知らずのうちに身を乗り出し、紅藤の顔や瞳に熱烈な視線を送っていた。雉鶏精一派は今では多くの妖怪が注目し或いは危険視するほどの規模と影響力を持った組織である。このちっぽけな研究センターのセンター長のみならず、幹部としての地位も確立しているではないか。源吾郎としては、紅藤のその辺に関わる事も聞いておきたかった。
ところが、紅藤は源吾郎の熱い眼差しに気付くと、静かに微笑んで手を振るのみだった。
「ああ、でもごめんなさいね。第二幹部だから凄そうとかって思ってくれているみたいだけれど、その辺りについては多く語る所は無いわ。そもそも、雉鶏精一派のトップは、二代目である胡琉安様だもの」
第二幹部と言う地位も、今となってはお飾りのような物だと、紅藤はあけすけな様子で言い足した。強大な力を持つ紅藤は、実は雉鶏精一派の中でも最も妖力を保有する妖怪でもある。紅藤が幹部職である理由は、単純に敵対勢力に対する牽制なのだと彼女は言った。
「三百年前の新体制立て直しの際ならまだしも、今の雉鶏精一派は、胡琉安様も立派になりましたし組織も他の幹部たちも優秀な妖怪に恵まれているから盤石になったんじゃないかと思ってるの。私もそろそろ引退して、研究だけに専念できればと思っているんですけれど」
紅藤のなかば繰り言めいた言葉を、源吾郎は相槌を打ちつつ聞いていた。力を持ちつつも、権力や名声に関心を示さぬ紅藤の態度は若い源吾郎には不思議な物であり、また奇妙な清々しささえ感じた。
と、思い出したように紅藤がこちらを見つめる。眼鏡の奥にある紫がかった瞳には、妙な力が籠っているようだった。
「ああ、だけどね。私の手持ちの部下たちの中で、幹部として申し分ない素養と才覚のある妖怪として育てあげる事が出来たら、その子を代わりに幹部にして、私は引退しても構わないって幹部の皆様と約束しているのよ」
紅藤の瞳は奇妙な輝きを宿していたが、源吾郎の瞳も輝いていた。
「それじゃあ、紅藤様は僕を大妖怪になるよう手ほどきをしてくださるだけではなくて、ゆくゆくは幹部にしてくださるって事ですね」
「未来の事は確定できないけれど、そういう話になるわね」
食い気味に問いかける源吾郎とは対照的に、紅藤は落ち着いた様子で頷いた。
「島崎君。あなたは妖怪としてはまだまだ若いけれど、それを補って余りあるほどの才能と素質があると私は思っているわ。母方の系譜を辿れば、必ず偉大な血筋の方々に至る訳ですから……
血統ばかり重視して大妖怪の子孫をやみくもに奉る風潮には正直うんざりしてはいたけれど、島崎君に関しては、名実ともに兼ね備えた大妖怪に育つと確信しているわ――あくまでも心がけが良ければの話だけれど」
紅藤はつらつらと言葉を重ねていた。妖怪の社会が実力主義である事には違いない。しかしかといって妖怪たちの血統がないがしろにされている訳でも無い。実力者の子孫が名門と見做され、名門の妖怪たちは実力者と縁組をする。そのような事が連綿と行われる中で、実力と血統は切っても切れないものだと妖怪たちは思うようになっていた。
「島崎君が人間との混血だという事を揶揄する妖怪たちがいるかもしれないけれど、彼らの言葉は気にせずに修行に励むと良いわ。そういう手合いは思った事を口にしているだけだから、その言動について気に病んでもしんどいだけよ。
それに何も人間の血が混ざっているからと言って、半妖やその子供たちが純血の妖怪よりも劣っているなんて私は思わないわ。妖怪であれ人間であれ、立派な者もいれば普通のものもいる。ただそれだけの話ではないかしら」
源吾郎は意外そうに紅藤を見た。妖怪、特に年数を経た妖怪は人間との混血である半妖やその子孫を忌み嫌ったりむやみに馬鹿にしたりするものであると源吾郎は思っていたのだ。
紅藤の言葉を意外に思ったのはほんのわずかな間だけだった。源吾郎は喜色に満ちた笑みを浮かべ、口を開いた。
「ああ、流石は雉仙女と呼ばれているお方ですね。人間の血が混ざっているから劣っているなどと言う都市伝説を信じる愚か者どもとは大違いではありませんか。いや、たとえ連中が口にしている事が真実であったとしても、偉大なる玉藻御前様の血は、人間の血が混ざろうとも衰えないという事でしょうかね」
源吾郎は紅藤の許可を取るのも忘れ、やにわに立ち上がった。そしてそのまま尻尾を隠していた術を解除し、臀部に生える四尾を顕現させた。質量を伴わない尻尾たちに紅藤の視線が釘付けになっているのを源吾郎はきちんと把握していた。
「まぁ、銀色の四尾なのね。毛並みも色合いも見事なものね」
紅藤は源吾郎の見事な尻尾に関心を抱いているようだった。源吾郎は真剣な表情を作って説明する事に決めていた。
「僕は兄姉や親族たちと較べて多くの妖力を宿した状態で生まれたそうなんですよ。産まれた時から三尾の状態で、四本目は確か、中学に上がってすぐにできましたね」
「あなたの事は前々から知っていたけれど、実際に目の当たりにすると本当にびっくりしてしまうわ。若くして二尾になる事はままあるけれど、その歳で四尾になっている狐を見たのは、私も初めてよ。そもそも、生まれつき三尾という事自体が珍しいわ」
嘆息しつつ呟く紅藤を、源吾郎は実にいい気分になりながら聞いていた。妖狐の妖力は尻尾に蓄えられる。従って妖力が増えるごとに尻尾も増えていき、尻尾の数が増えるにしたがって一本一本に蓄えられる妖力も加速度的に増えていく。少しばかり妖力の強い妖狐ならば生後数年から十数年の間に一尾から二尾になる事はそう珍しくはない。しかし尻尾の数が増えれば増えるほど、必要となる年月も妖力も増えていくのだ。
通常の妖狐の場合、四尾になるまでには三百年から五百年の歳月を要するという。生まれつき三尾であり、生後十数年で四尾になったという源吾郎の異常さはその点でも明らかであろう。尻尾を生やした親族たち、二百年以上生きている母や叔父叔母でさえ大半が二尾止まりなのだから。
「普通の妖狐ならば、九尾になるまでに八百年から千年以上かかるけれど、島崎君の場合なら二、三百年で九尾になれるかもしれないわ。もしかしたら、もっと短い期間で九尾に到達できるかも」
源吾郎は言葉を出さずただ紅藤を見つめ返した。最強になる事を目指している源吾郎であるから、九尾になりたいとは思っていた。しかし紅藤の話を聞くその瞬間まで、その望みは漠然とした物に過ぎなかった。数百年と聞いて、道のりは遠いのだと源吾郎は感じた。いかに妖怪として生きようと思っているとしても、数百年生き続ける所をイメージするのは難しかったのだ。
「特段難しく考える事は無いのよ」
源吾郎の表情を読み取り、紅藤が告げる。強くなる事そのものは、さほど問題ではないのよ。紅藤の余りにもキャッチ―な発言に源吾郎は度肝を抜かれつつも妙に納得もしていた。強大な妖力を保有しているという事で畏れられ、だというのに力に固執しない紅藤の先の言葉には、奇妙な説得力があったのだ。
「妖力というものは、健全で健康な妖怪ならば死なずに長生きしていればいやでも増えていくものなの。それよりもきちんと正面から向き合って、考えなければならない問題があるわ」
そう言うと、紅藤は白衣に包まれた胸元におのれの右手を添えた。
「強大な力を得て大妖怪になったとして、その力をどのように扱っていくか。力を悪しき目的に濫用されずに自分自身も力に溺れないようにするにはどうすれば良いか。それこそが、強さを求める者たちにとって真に考えなければ問題よ」
それが出来なければ利用され続けるか破滅しかない――昏く冷たい声で紅藤が言い添えるのを、源吾郎は聞いていた。相変わらず紅藤はうら若い女性にしか見えないのだが、その声と表情だけは妙な凄味があった。
源吾郎と紅藤はそれから喋らず身じろぎもせず数秒ばかり見つめ合う形になった。源吾郎は厳密には紅藤から視線を外せないだけだった。その数秒の間に、紅藤の表情や気配から、おどろおどろしいものが薄れて霧散していくのを源吾郎は感じた。そして気が付いた時には、紅藤は見た目相応の、明るい笑みを見せていたのだ。
「あらごめんね島崎君。急に難しい話をしてしまったから困っちゃったかしら……けれども、この話だけは大切だからと思って、つい説明に力が入ってしまったの。けれど、島崎君ならば道を違えずにひとかどの大妖怪になれると、私の後釜に相応しい存在になると信じているわ」
紅藤はここでうっすらと目を細めた。
「あなたの祖父である桐谷のお坊ちゃまは、親兄弟と激しく対立しましたけれど、それでも彼は自分が愛し信じる者を護り抜く事が出来ましたもの。直系の孫である島崎君も、いかなる労苦があろうとも、信念のもとに乗り越える事が出来るはずよ」
桐谷のお坊ちゃまって、明らかに人間の事じゃあないか……人間であろう祖父の事を引き合いに出され、源吾郎は戸惑った。祖父の事を源吾郎はほとんど知らないし、そもそも自分は「妖狐」である玉藻御前の血を色濃く引いている事をアピールしている身分だ。その事についてひとこと言ってやろうかと思ったが、紅藤はその暇を源吾郎に与えはしなかった。
「……桐谷のお坊ちゃまの事については、また後々お話ししましょう。あの方と白銀御前の馴れ初めと顛末については、事情を知らない者が耳にするには心の準備が必要ですからね。それに今は、その話よりこちらが先でしょう」
そう言って紅藤が源吾郎に差し出したのは一枚の誓約書だった。日本語で文章が記されたそれは、学校や会社に入ってすぐに記入するものと大差ないように見えた。これに署名する事によって、師弟の契りが結ばれる事になるのだと、紅藤は弾んだ調子で教えてくれた。
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