王鳳来の予見

 ミーティングにと使われていた丸テーブルは、今では時間はずれのティータイムのような、妙に和やかな様相を見せていた。王鳳来のツレ、小さな牛角と妖狐の尻尾を四本生やした妖怪男が用意していた点心を皆でつつくという流れに相成った為である。

 桃だの丸っこい龍だの狐だのの姿をした白っぽい饅頭は、確かに中国ではよく見かける代物であった。

 お茶請けだけではどうにもならぬ――常備している桃茶を淹れ、皆に配っているのは青松丸と萩尾丸だった。研究センターの中では、紅藤に次いで序列の高い二人である。

 基本的に来客時の茶の用意や難しい事の何もない雑事は、序列の低い者から応じるのがこの研究センターのルールである。本来ならば源吾郎やすぐ上の姉弟子のサカイ先輩が行うべき事を、何故萩尾丸たちが行っているのか? それは萩尾丸と青松丸が源吾郎たちの様子を慮ったからに他ならなかった。サカイ先輩の挙動には日頃見せるある種の陽気さはとうになりを潜め、内気で用心深そうな気配を漂わせていた。源吾郎は源吾郎で出社したものの未だ本調子とは言い難い。ついでに言えば彼もサカイ先輩以上に戸惑いうろたえていたのだ。本来ならば率先して雑事をこなすべきである二人だったが、賓客をもてなすような状況ではないと当局に判断されたのだ。だからこそ、高弟である青松丸と萩尾丸が動く事になった次第である。

 ちなみにセンター長の紅藤は何もせず座っているだけではない。源吾郎とサカイ先輩に余った椅子を集めるよう指図したのちは、ごく自然に彼女の隣に来た王鳳来と他愛のないやり取りを交わし、彼女が居心地の良い時間を過ごせるよう便宜を図ろうとしているようだった。


「王鳳来様。本日はお越しいただき誠に有難うございました。きちんとしていない所で、きちんとおもてなしが出来ないのが心苦しゅう思います……」


 紅藤の顔には緊張の色は薄くなっていたが、それでもいつになく丁寧な口調だ。自分の祖母、白銀御前に対してもこのような物言いだったのだろうか。源吾郎の脳裏にふとそのような考えがよぎる。


「いーのよ紅ちゃん。わたしも、きゅうに思い立って来たくなっただけだもん。それにね、初めからアポを取って行くよりも、アポなしで行ったほうがみんなどうしているかとか、そういうのがわかって面白いのよ」

「そうなんですね……お見えになるとこちらで存じておりましたら、峰白のお姉様や胡琉安様にも連絡して、場合によっては集まっていただこうかと思っておりましたので」

「そこも気にしなくてだいじょうぶよ、紅ちゃん。紅ちゃんたちのところでのおはなしが終わったら、すぐに白ちゃんと胡琉安君にも会いに行くから! みんな同じところに集まってたら、お話もおさんぽもすぐ終わっちゃうでしょ? それってつまらないもん」

「そういうお考えだったのですね……王鳳来様。峰白のお姉様は冷静なお方ですので、私のような醜態を晒す事は無いかと存じます」


 今や紅藤と王鳳来は姉妹のような感じで話し合っている。多くの妖怪や人間、というよりもビジネスパーソンであれば重要視するであろう効率を度外視した王鳳来の言葉を、紅藤は静かに肯定しているようであった。どちらが姉で妹か判然としない所や、未だ紅藤の表情がやや硬い所などが気になるが、それでも最初よりはうんと場の空気も和らいでいると言えよう。

 源吾郎は小さな桃の形をした点心を眺め、紅藤の言葉をぼんやりと聞いていた。王鳳来の訪問に紅藤は驚くほどうろたえていたが、峰白であればうろたえたり怯んだりしないだろうという言葉に驚いていたのだ。

 というのも、圧政者として雉鶏精一派に君臨する峰白は、紅藤とは真逆に警戒心の強い、言い方は悪いが気の小さいであると秘密裏に聞かされていたからだ。峰白は確かに冷静な性質であるが、日頃何かを畏れる事のない紅藤があそこまでうろたえた相手を前にしてもなお冷静でいられるのか。そこが気になった。

 さてそうこうしているうちに桃茶も全員にいきわたり、給仕していた萩尾丸と青松丸も静かに着席した。王鳳来は視線を彼らに向けたのち、さも不思議そうな眼差しで今一度紅藤に視線を送る。


「紅ちゃんの仲間ってこの子たちだけなの?」

「直属の部下としてはそうなりますわね。ですが弟子の萩尾丸は独自に組織を作り、数十から百近い妖怪集団を束ねておりますわ」


 萩尾丸の事を軽く話題に出してから、紅藤はそっと視線を彼の方にスライドさせた。それが合図だったかのように萩尾丸は静かに頷き、その面に笑みを浮かべる。彼の笑みは源吾郎も見慣れているが、普段の笑顔よりも随分と控えめなもののように見えた。

 なんだかんだ言って、萩尾丸も来客たる王鳳来を前に、いくらか緊張しているらしかった。

 王鳳来は半ば身を乗り出す形で萩尾丸を見やった。含みと忖度のある萩尾丸の笑みとは異なり、見た目通りの少女らしい、無邪気な笑顔である。


「スゴいね萩尾丸君! 百匹ちかい妖怪たちを仲間にしてるなんて……このあいだ会った時は、まだほんとうに子供だって思っていたけれど」

、と仰られてももう二百年以上前の事ですよ、王鳳来様」


 萩尾丸の淡く儚い愛想笑いに、当惑の苦みが混ざり込んでいた。日頃雉仙女の一番弟子だの雉鶏精一派の第六幹部だのと権威を笠に着ている節のある萩尾丸だが、真の妖怪仙人であり屈託のない王鳳来の前では、それらも特に意味をなさないようだ。

 微苦笑を浮かべつつも何も言わない萩尾丸を見つめていた王鳳来だが、思い出したように紅藤に視線を戻した。


「紅ちゃん! 弟子の萩尾丸君にたくさん仲間がいるんだから、紅ちゃんもほんとうはたくさんの仲間がもてるんでしょ?」

「……確かにそうかもしれませんね、王鳳来様」


 静かな口調で応じる紅藤の顔に、名状しがたい寂寥の影が滲んでいる。


「ただ、余りに多くの部下や弟子を持つのは私の好みではないだけなのです。誰かを従えて権力を振るう事に興味はありませんし――気にかけ心を配る相手が多すぎると大変なのです」

「紅ちゃんの気持ち、わたしもよく解るわ」


 紅藤に応じる王鳳来の声もまた、寂しげだった。


「わたしもね、胡喜媚お姉様が生きていたころは多くの仲間をつれていたでしょ。だけど、胡喜媚様が亡くなってからは、こわくなってみんな自由にしたの。気が付いちゃったのよ。わたしがだれかをどれだけ好きになっても、その好きになっただれかはいつか、わたしを置いて逝ってしまうんだって」

「そればかりは、どうしようもありませんよね……」


 置いて逝ってしまう。紅藤はこの言葉に鋭く反応し、伏し目がちになった。

 彼女が故あって不死身の肉体を持つ事と、弟子と見做し愛情を注いでいる相手の勝手な死を異常に恐れている事は、彼女の中ではきちんとした因果関係があるらしい。源吾郎も、弟子の一人として紅藤に愛されていると感じる事は往々にしてある。その情愛が時に重々しく感じる事さえある。しかし多くを知らぬ源吾郎にできる事は、戸惑いつつもそれを受け入れるくらいだ。

 そういえば連休前に護符を作るためにと萩尾丸が連れてきた若手の妖怪たちにも、紅藤は必要以上に心を配っていたような気もする。

 それらの事をぼんやりと考えながら、源吾郎は手許にある桃茶で喉を湿らせた。紅藤と王鳳来の話題のために、五月の朝の爽やかな空気は遥か彼方へ飛び去り、先程とは質の異なる、何とも重々しい空気に包まれてしまった。源吾郎はそれを打ち砕く術を知らない。


「あ、あの王鳳来様。お仲間はいないっておっしゃってましたけれど、その、牛みたいな、狐みたいな男の人と一緒に来られましたよね? その人って、王鳳来様のお仲間じゃないんでしょうか」


 あっけらかんとした様子で問いかけたのは、姉弟子のサカイ先輩だった。源吾郎はぎょっとした様子で彼女の顔を見た。さっきまで借りてきた猫のように大人しくなっていたはずの彼女の唐突な質問に驚きを禁じ得なかった。もしかすると、この何とも言い難い空気を打破するための、彼女なりの動きだったのかもしれない。これには冷静で空気の読める萩尾丸もちょっと驚いているようだった。

 肝心の王鳳来は、ちょっと不躾な質問を前にして怒ったり驚いたりする素振りは無かった。それどころかむしろ嬉しそうだ。


「この子はね、玉藻お姉様の子孫なのよ! 平天大聖牛魔王の孫でもあるんだけど、今はたしか白山太子はくざんたいしって名乗ってたんじゃなかったかな。あ、でも家族からは雪九郎シュエジウランってよばれたんだよね? 九番目の男子だから」

「白山太子はちょっと物々しいから、雪九郎で構いませんよ」


 紹介を受けた牛角の男性・白山太子こと雪九郎は恭しい様子で王鳳来の問いに応じている。本名とは別の名がある事は、高名な妖怪や大陸の妖怪にはありがちな話だ。我らが雉鶏精一派の頭目・胡琉安とて戴雲鶏王という別名がある訳であるし。

 しかし名前に関するあれこれは源吾郎にとっては些事だった。それよりも彼の出自、血統の方が気にすべき事柄である。王鳳来は今さっき、彼をして玉藻御前の子孫であると言っていたではないか。

 王鳳来のツレが遠縁と判明した源吾郎だったが、すぐには言葉が出てこなかった。先日母から白銀御前の異父兄姉が大陸にいるという話を聞かされたばかりではある。とはいえ、実際に遭遇するとなるとやはり驚きが全ての感情を押しのけてしまった。

 玉藻御前の血統というと、どうしても叔父たちや兄姉たちだけだろうと思っていたからだ。

 

「は、は、初めまして、雪九郎兄様」


 源吾郎はとりあえず雪九郎の事を兄様と呼びかけた。雪九郎は精悍なその面に柔和な笑みを浮かべている。緊張する弟を見るような眼差しだった。源吾郎はそこで、もしかすると雪九郎が自分の様子を窺っていたであろう事実に思い至ったのだ。王鳳来の存在に気を取られ、彼が視線を向けているのに気付かなかったのだが。


「初めまして、君は……」


 雪九郎の口から出てきたのは流暢な日本語である。年数を経た妖怪たちが母国語のほかに外国語を二つ三つ習得しているのは別段珍しい事ではない。特に日本の妖怪では、今でも中国語の習得が英語学習よりも重要視されている。


「彼は島崎源吾郎と言ってこの春弟子入りした子で、玉藻御前様の曾孫に当たるのよ」


 源吾郎に代わって彼の素性を紹介したのは紅藤であった。彼女は先程まで難しい表情を浮かべていたはずなのだが、この時には既に花のような明るい笑みを見せていた。

 三妖妃の一人である王鳳来と玉藻御前の子孫である雪九郎の顔には、驚きの色は無かった。


「あは、やっぱりこの子は玉藻お姉様の子孫だったんだ。なんとなく、白銀姫に似ていたから」

「何となく妖気が兄弟に似てるなと思っていたところでしたが、やはり僕の親戚だったんですね。まぁ、曾祖母は大陸のみならず日本にも立ち寄っていたと聞きますし……」


 懐かしいものでも見つめるような王鳳来の視線を受け、むしろ源吾郎の方がたじろいでいた。彼らは既に、源吾郎を玉藻御前の縁者と見抜いていた事は先の会話で明らかになった事だ。二名に対して愛想のよい笑みを浮かべる事は出来たものの、気の利いた挨拶の言葉は口から出てこなかった。


「すごいわね紅ちゃん。白銀姫ってわたしたちの事をこわがっていたから、たぶん仲間にはならないだろうなって思ってたの」

「彼はこの度私の許への弟子入りを志願しましたので、末弟子として雇い入れた次第です。潜在能力や可能性は未知数ですが、ゆくゆくは幹部として育て上げ、私の後任にしようかと考えております」


 無邪気な様子の王鳳来に対し、紅藤は特段気負う事なく源吾郎の将来の展望を言ってのけた。王鳳来やはとこである雪九郎が感心したような声を漏らす中、源吾郎の心中はむしろ気まずさで満たされ始めていた。

 何とも言えないむずかゆい気持ちを鎮めようと、源吾郎は首を伸ばし、紅藤の方を見据えた。


「まだ弟子入りして間がないというのに、幹部候補ですとか研究センター長の後任ですとか、そこまで期待されていると思うと却って申し訳ないですよ紅藤様。その……先輩方を差し置いて大出世するみたいな話は」


 紅藤が率いる研究センターにおいて、源吾郎は今のところ最下位の序列に位置する。その事自体は源吾郎も特段問題視してはいない。だがあるじである紅藤が源吾郎を将来幹部にするという話をここで明言するのは、兄弟子たちの神経を逆なでするのではないか。

 源吾郎は恐る恐る萩尾丸たちの様子を窺った。兄弟子たちは怒っていない。むしろ目が合うと笑い出したくらいだ。


「何、幹部になるからと言って僕の事など気を遣わなくても構わないよ。紅藤様が引退して他の幹部の序列が繰り上がるだけなんだからさ。もちろん、元から幹部職の僕にしてみれば、何一つ問題なんてないしね」

「ま、まぁ僕は幹部になって他の皆を纏めるよりも、母様、いや紅藤様の周りで色々とチマチマ仕事をする方が性に合ってるんだ」

「わたしも、青松丸先輩と同じ、かな。すきま女だし、表に出るのはちょっと緊張するの。だけど、島崎君ってキラキラしてるから、表舞台が似合いそうだよ! 

幹部職、頑張ってね」

「あ、ありがとうございます」


 兄弟子たちの思い思いの言葉に対して、源吾郎は妙な笑みを浮かべながら礼を述べるのがやっとだった。彼らは源吾郎が幹部になるよう厚遇されている事を怒らないどころか、むしろそれぞれ違ったベクトルでもって応援してくれたのだ。

 考えてみれば、弟子たちの中で一人は既に幹部職であり、後の二人は幹部への昇進を望んでいないのだ。末弟子の野望とかち合わないから、嫉妬や敵愾心も出てこないのは当然の流れなのかもしれない。

 王鳳来は源吾郎と先輩たちのやり取りをしばらく眺めていたが、やおら思い出したように口を開いた。


「あのね紅ちゃん。きょうは紅ちゃんたちが元気かなって思って見にきたんだけど……伝えないといけない大切な事があるの」


 どのような内容でしょうか。問いかけた紅藤の表情が真顔だったのは、王鳳来もまた真剣な表情だったからに他ならない。


「九頭駙馬のお義兄にい様に、気を付けてほしいの」

の事ですね、王鳳来様」


 短い声で紅藤は応じる。八頭怪。その名を口にした紅藤の表情は、一瞬だが険しかった。

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