八頭怪の過去

 八頭怪にまつわる物語は、中国が唐と呼ばれていた遥か昔まで遡る。

 唐から天竺に向かう道中に、碧波潭へきはたんという美しく深い淵があった。その淵にはもちろん龍王が治める龍宮があった。

 万聖龍王の一人娘、万聖公主ばんせいこうしゅの伴侶こそが後に八頭怪と呼ばれる男であった。当時は九頭であった事と龍王の娘婿という事で「九頭駙馬きゅうとうふば」と呼ばれていた。

 最終的に九頭駙馬は万聖公主の夫という身分に落ち着いたが、実は彼は元々はこの龍宮の美姫の正式な夫でも婚約者ですらなかった。というのも、万聖公主はそもそも別の男と婚約する事が決まっていたからだ。

 万聖公主の本当の婚約者は玉龍という名の幼い白龍だった。単なる幼龍ではない。というのも、彼の父は四海龍王の一人、西海龍王だったのだ。龍宮に居を構える龍王が、神に近しい存在として尊ばれるのは大陸でも日本でも変わりはない。しかしその中でも、四海龍王とその系譜に連なる者たちは別格だった。

 玉龍が万聖公主の婿候補となったのは、両家の思惑による政略結婚に他ならなかった。この政略結婚について、両者がどう思っていたのか正確な内容を知るすべは今となっては残されてはいない。しかし玉龍に関して言えば、入り婿として未来の妻に認められようと奮起していたという記録がわずかに残るばかりである。

 実は玉龍は今も健在なのだが、万聖公主に関する件については誰に何を問われてもその一切を語ろうとしないのだ。

 玉龍という婿候補がいるにもかかわらず万聖公主は最終的に九頭怪と結婚した。それは万聖公主の裏切りと九頭怪の略奪愛、要はゲス不倫が発生した事をそのまま意味している。伝承によると九頭怪と万聖公主は、事もあろうに玉龍を謀殺しようと企んだとさえ言われているのだ。

 万聖公主をどう思っていたかはさておき、裏切られた玉龍のショックは相当なものだったらしい。彼は実家に戻ると怒りに任せて暴れまわり、その際にとばっちりで家宝の玉が燃え尽きてしまったのだ……そのあと色々あって彼は白馬に変化し、玄奘三蔵やその他の従者と共に天竺を目指す度に出たというのは有名な話である。


 さて話を九頭怪に戻そう。万聖龍王は本来の娘婿・玉龍が犯罪者として投獄された事に驚きを見せたものの、九頭怪が代わりに万聖公主と結婚した事は割とすんなりと受け入れた。九頭怪も何だかんだ言って高貴な血統を誇るという事であり、また実力のある存在であると悟った為である。

 王の婿という称号を得、九頭駙馬と名乗るようになると、結婚祝いだとばかりに近所の有名なお寺に殴り込みをかけた挙句、仏塔に血の雨を降らせて穢し、さらに信仰の源であった宝珠を盗み出し、龍宮に持ち帰ったのだ。これを見た新妻は勤務先の天界から西王母のコレクションである九葉の霊芝を窃盗し、やはり実家に飾ったという話である。

 珍しい宝珠と霊芝がそろい、碧波潭の威光も盛んになるだろうと万聖龍王は大喜びだったらしい。しかしながら悪徳はいずれ亡びるというのが世の定めである。万聖龍王の一族が行った悪行は後々になってから天竺へ向かう玄奘三蔵の一行に知られ、孫悟空や他の神仙たちに強制家宅捜索・不敬罪による粛清の憂き目にあった訳である。

 孫悟空たちによるガサ入れによって万聖龍王も万聖公主も殺されてしまったが、九頭駙馬のみは妻も岳父も見捨てて逃走したために一命を取り留めた次第である。

 かつての天蓬元帥てんぽうげんすい・猪八戒とほぼ互角に渡り合った九頭駙馬であったが、彼も無傷で逃げ越したわけではない。哮天犬こうてんけんと呼ばれる神通力を持った犬に頭の一つを咬み落とされ、傷口から血を流しながらほうほうの体で逃れたというのが真実らしい。

 ちなみにこの哮天犬は二郎真君という最強の神仙の相棒であり、過去にも胡喜媚の頭の一つを咬み落としたり、天界で暴れまわる孫悟空を取り押さえたりと、並々ならぬ活躍を行っているのだ。

 ともあれ頭も八つになり、尚且つ妻を見殺しにしたその怪物は、八頭怪だとか八頭鰥夫はっとうかんぷ(鰥夫はやもめの意)と呼ばれ、彼自身も哮天犬の呪いにより「八」や「八頭」にまつわる名しか名乗れなくなったのだという。




「……それはまた、何というかえげつないお方ですね」


 源吾郎は桃饅頭を食む合間に呟いた。ほぼ全編を網羅したほうの西遊記を何度か読んだ事があったから、源吾郎も九頭駙馬の物語は知ってはいる。しかし王鳳来に直々に教えて貰ったために、一連の出来事には不思議な臨場感があった。

 あるいはそれが、王鳳来の能力なのかもしれないが。彼女の本性は琵琶に似た玉石、または玉石で作られた琵琶である。声も綺麗だし歌も得意なのだろうと源吾郎は密かに思っていた。


「えげつないって言っても、九頭駙馬のお兄様は胡喜媚様のなのよ」

「…………弟、なんですね」


 源吾郎は呟き、紅藤や萩尾丸たちを見やった。長らく雉鶏精一派に所属する萩尾丸や、そもそも胡喜媚と面識のある紅藤であれば、八頭怪の事について何か教えてくれるのではないかと思ったのである。

 ところが萩尾丸も青松丸も源吾郎と視線を交わすだけであった。紅藤は難しい表情でゆったりと首を振り、唇をもごもごさせていたが、意を決したらしく口を開いた。


「実の姉弟と言ってもね、胡喜媚様と八頭怪は不仲だったわよ。八頭怪の方が、胡喜媚様を莫迦にしていたのよ。高貴なる神の血を引き、ついで『道ヲ開ケル者』の末裔であるというのに、下賤な雑魚妖怪につるんでいるってね。少なくとも、彼にはそう見えたらしいの」


 下賤な雑魚妖怪というのは、まさか玉藻御前や王鳳来の事であろうか……驚きのために源吾郎は目を瞠っていた。玉藻御前を貴種と尊ぶ源吾郎にしてみれば中々にショッキングな話である。余談だが源吾郎は、おのれの先祖である玉藻御前が、天地開闢の折に陰気が凝って九尾になったという来歴が真実である事を強く望んでいた。要するにおのれの先祖を特別視し、凡狐から成り上がった存在ではないと思いたかったのだ。

 これから大変かもしれないわね。紅藤の呟きには、重さと湿り気が多分に含まれている。


「あらかじめ言っておくけれど、胡喜媚様と八頭怪が対立していたからと言って、彼が私たちの味方になりうるという訳ではないわ。むしろ私たちは胡琉安様を、胡喜媚様の孫を擁した団体でしょ。その私たちがこうして繁栄しているというのは、あの八頭怪にとっては面白くない状況なのよ。

 そうでなくとも、『道ヲ開ケル者』の意思を遂行するとき以外は、自分以外の人間や妖怪が破滅するのを酒の肴にするような手合いなのですから」


 王鳳来はうんうんと頷いている。源吾郎は額に汗が点々と浮かぶのを感じた。

 雉鶏精一派に就職し、紅藤の許に弟子入りした源吾郎であったが、それで完全におのれの身が保証されたというのは全くの幻想であるという事を、理屈ではなく本能で察してしまったためである。

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