若人の懸念、先達の郷愁
「どうしましょう、紅藤様……」
源吾郎は思わず呟いていた。声変わりの終わった青年らしからぬ、か細く上ずった声である。
八頭怪なる存在が恐るべき脅威になるであろう事は、既に源吾郎も察していた。紅藤は特に具体的な事を口にしたわけではない。しかし彼女が遠慮なく言い放った「破滅」という単語から、途方もない重みを感じ取ったのだ。
縋るような眼差しを送る源吾郎の視線に気づいた紅藤は、何度か瞬きをした。驚いたような、困ったような表情がその面に広がっている。
「ごめんね島崎君。少し驚かせてしまったわね」
こういう時は大丈夫です、と返すのが大人の対応なのだろう。それは解っていたのだが、残念な事に源吾郎は間抜けな表情で紅藤を見つめ返すのがやっとだった。
その紅藤の顔に、今度は笑みが浮かぶ。喜びや嬉しさとは異なる、相手を慮るためだけに用意された、慈愛に満ちた笑顔だった。
「あなたが不安がるのも無理もない話よね……島崎君自身は、妖怪同士の争いや殺し合いとは無縁な生活を今まで送ってきているものね」
源吾郎が頷くのを見届けてから、紅藤は他の弟子たちを見やった。彼らの表情にも、驚きだとか戸惑いだとかが浮かび、さざ波のように揺らいでいる。
紅藤はさも申し訳なさそうな表情を作ると、ふっと息を吐いてから口を開いた。
「だけど大丈夫よ。私たちを八頭怪が狙っているといえども、すぐに行動を起こすわけではないと私は思っているわ。そりゃあもちろん、胡喜媚様がおかくれになった時とか、本当の跡継ぎだった胡張安様と私たちが接触した時とか、ちょくちょくこちらにちょっかいをかけてきた時もありましたけれど……
八頭怪は胡喜媚様の弟で、島崎君たちはもとより、私などよりもうんと永い年月を生きているの。今までの彼の動きからすれば、すぐに私たちに何かを仕掛けてくるとは思えないわ。そうね、短くても五、六十年は、運が良ければ三百年くらいは大丈夫じゃあないかしら」
「…………」
源吾郎は丸く目を見開いたまま、師範の紅藤を凝視していた。誰かがカップをテーブルの上に置く音と、アナログ時計の秒針の音が源吾郎の鼓膜を震わせる。
純血の妖怪が長命である事、紅藤がとうに六百年以上生きている事は源吾郎も良く知っている。だから彼女が五、六十年を短いと言い切れるのも理屈の上では納得していた。それでも源吾郎自身が五、六十年の歳月を途方もない長さだと思っているのもまた真実だった。無理もない話だ。源吾郎自身は三月の末にやっと十八になったばかりの、人間としても妖怪としても若すぎる存在なのだから。
ちなみにこうして驚きの色を見せているのは、すぐ上の姉弟子・サカイ先輩も同じ事だった。彼女はむろん源吾郎よりも年上で百歳近いというすきま女であるが、研究センターの中では源吾郎と共に年少者と見做されていた。
「全く、サカイさんも島崎君も賓客の前でそんな表情をしなくても良いだろう」
呆れ声で発破をかけたのは、言うまでもなく萩尾丸だった。
「確かに八頭怪はうっとりするほどの美青年だがそれ以上に超絶厄介な輩である事はこの僕だって認めているよ。しかし、せっかく紅藤様がそいつの襲来までに猶予があると仰って下さっているのだから、雁首揃えてそんな間抜け面を晒さなくたっていいだろう。
サカイさんも島崎君も僕らと違って若いんだ。そんな風に薄らぼんやりとするくらいならば、紅藤様の庇護の許でどうやって研鑽を積むか考えた方がよほど効率的だと僕は思うがね」
「お、仰る通りでした、萩尾丸先輩」
厭味なのか素直なアドバイスなのか判然としない萩尾丸の言葉にサカイ先輩はすぐに応じていた。妹弟子の言葉を萩尾丸は軽く受け流しつつ、眼球を動かして源吾郎を見据えた。
それから、萩尾丸の端麗な面に、秀麗だが毒気をはらんだ笑みがゆっくりと広がる。
サカイさんは別にそのままでも良いのだけれど。そのような前置きを行ってから、彼はやにわに口を開いた。
「島崎君は今さっき紅藤様に紹介されたとおり、雉鶏精一派の幹部を狙ってるんだろう? 日頃から雉鶏精一派の幹部は世界征服に至るまでの通過点に過ぎないなんて言ってるじゃないか。それならさ、野心と勢いを僕らに見せておくれよ。雉鶏精一派に仇なす八頭怪と、邪魔者の胡張安など玉藻御前の曾孫であるこの俺がぶち殺す、くらいは言ってくれるかなって僕はちょっと期待していたんだけどなぁ。
ちなみに、八頭怪のヤバさは第一幹部から第八幹部まで全員知ってるから、君がそいつと闘って斃したとなれば、その場で幹部昇格は確定するんじゃないかな」
源吾郎は花瓶と萩尾丸の顔を見比べ、ひきつった笑みを浮かべるのがやっとだった。
今もなお世界征服を夢見ている事には変わりはない。しかし嬉々として引き合いに出す内容とは思えなかった。王鳳来や紅藤の様子から察するに、八頭怪も生半可な存在ではないだろう。それに対して源吾郎は戦闘の心得などなどほとんど無い、一介の若狐に過ぎない。今の力量では、いやたとえ数十年数百年と研鑽を積んだとしても、八頭怪に敵うかどうかすら解らない所だ。
源吾郎はややあってから萩尾丸を上目遣い気味に睨んだ。源吾郎よりもうんと経験を積んだ萩尾丸が一体どのような意図であんな事を言ってのけたのか一瞬気になった。しかし普段の澄ました笑みを見ていると、やはり真面目な話でも何でもない事に気付いてしまった。源吾郎は、またしても萩尾丸にからかわれただけなのだ。
「萩尾丸、王鳳来様がお見えになっている所で物騒な話はやめて頂戴」
源吾郎の様子を察した紅藤が助け舟を出してくれた。というよりも彼女自身も萩尾丸の発言に思うところがあるという風情である。傍らに王鳳来がいるにもかかわらず、紅藤の面にははっきりとした怒りの念が浮かんでいた。
「せっかく王鳳来様が遠路はるばるいらっしゃったんですから、内輪での話に巻き込むのは良くないと思うわ。しかもどさくさに紛れて胡張安様を謀殺するなんて言ったでしょ」
「面倒ごとは一気に片づけた方が良いと思いましてね。まぁあれです。言葉の綾ってやつですよ」
萩尾丸は肩をすくめ手のひらを周囲に見せつつ、あからさまにため息をついている。紅藤に注意されているにもかかわらず、怯えた素振りはまるでない。やはりそこが、単なる紅藤の弟子と実際に幹部にまで上り詰めた一番弟子の胆力の差、なのかもしれなかった。
「まあ胡張安の奴は……」
そのまま長広舌がふるわれるのかと予測したが、萩尾丸はすぐに口をつぐみ、今度は気まずそうな表情を笑みで覆い隠す形と相成った。雰囲気からして胡張安の事を散々こき下ろすつもりだったのだろう。しかしその様子を王鳳来が見ている事を悟り、慌てて言葉を切ったに違いなかった。
王鳳来は拗ねた子供のように頬を膨らませてから、特に躊躇わずに発言した。
「胡張安君はべつにわるい子じゃなかったとわたしは思ってるよ? すなおだったしわたしのことも慕ってくれたし……」
王鳳来は少し顔を曇らせ、言葉を濁らせたまま口を閉ざしてしまった。考えてみれば王鳳来自身は胡喜媚が亡くなる間際まで交流があったという。胡喜媚の子息、義理の甥にあたる胡張安の事も源吾郎や他の兄弟子たち以上に知っていても当然の話だ。
ちなみに胡張安の現在の動向は一切が不明である。紅藤たちもどうにかして二百年前に一度捕まえたきりで、それ以降の足取りは安否も含めて不明なのだという。しかし八頭怪と違って特に何かをしたという動きも何も掴めないので、雉鶏精一派の中では彼の名をあえて口にするものは殆どいないという。
それでも源吾郎が胡張安の名を知っているのは、ひとえに最古参の紅藤に仕えているからに過ぎない話だ。
「仰る通り、胡張安様は悪いお方ではありませんでしたわ」
紅藤はすっとまぶたを伏せ、王鳳来の言葉に同意する。源吾郎は残った桃茶をかじりながら、それを不思議な光景であるように思い始めていた。
過去の因縁から、紅藤は胡喜媚の事を憎み抜いてはいる。しかしその胡喜媚に連なる者たちへの感情には、胡喜媚そのものに対する私怨は一切無かった。現頭目の胡琉安の事は保護者としてバックアップしているし、胡喜媚の実子である胡張安の事を悪く言う場面に出くわした事もない。
「胡張安様は、ただその気質が父君に似てしまっただけなのです。権力も、それに付随する責務や無秩序な狂乱をひどく恐れていましたからね……二百年前に頭目の座を打ち棄てて野良妖怪の身分になった彼に逢った事があるのですが、雉鶏精一派にいる頃よりもむしろ幸せそうでしたし」
「ひとのしあわせって色々あるものね……だけど、胡張安君もひとりっきりでたいへんだったと思うのよ。わたしのところに来れば、今の雪九郎みたいにいっしょになって、まもってあげる事はできたよ? だけど、胡張安君は家出してからわたしのところにも来なかったし」
色々あったに違いありませんわ。紅藤はそんな言葉を放ったが、やはり事務所の中はじっとりとした空気で包まれている事には違いなかった。どれだけ誰かが明るい話題に持って行こうとしても、気を抜けば何処からともなく暗雲が垂れ込める。
だが王鳳来が第一に伝えたかった話の内容を思うと、それも無理からぬ話なのかもしれないが。
八頭怪の話題の時とは異なる重苦しさを肌で感じつつ、源吾郎はぼんやりと視線をさまよわせていた。居心地の悪そうなはとこ、雪九郎と再び目が合った。
「あのう、王鳳来様……」
ちょっと訛りのあるような口調で、雪九郎はあるじの王鳳来に呼びかける。王鳳来が小首をかしげると、彼は源吾郎と王鳳来を互いに見比べながら言葉を続けた。
「少しばかりはとこと、源吾郎君と話をしてみても良いですか。胡喜媚様にゆかりのある雉鶏精一派のお偉方にお会いできたのも嬉しいのですが、その中に初対面のはとこがいるって事にも、今僕はかなり感動しているのです」
雪九郎のちょっと芝居がかった物言いに、源吾郎の心も少し明るくなった。おのれに関心を持ってくれている事も嬉しいが、それ以上に今この場に漂う物々しい雰囲気を一変するきっかけになると感じたためだった。
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