三妖妃の生き残り
現在より三千年ほど前の事。商王朝を滅ぼそうと動いた三体の妖魔がいた。三妖妃とも呼ばれる彼女らは、創世の女神たる
妖狐の最終形態・金色に輝く九尾を持つ九尾狐狸精こと蘇妲己。
(のちの玉藻御前)
旧く貴い神の血を受け継いだ、九首を持つ九頭雉鶏精こと胡喜媚。
石琵琶が霊妙な力により妖怪化した玉石琵琶精こと王鳳来。
この、そうそうたるメンバーこそが、遠い昔に亡びた王朝を震撼させた三匹の妖魔・三妖妃なのである。
平成生まれの源吾郎であるが、三妖妃の事はむろん知っていた。何しろ彼は九尾狐狸精の曾孫であるわけだし、現在は胡喜媚が立ち上げた組織に就職しているのだ。
「三妖妃って大昔に活躍した妖怪だよね、マジヤバない?」などとのんきに言っている妖怪たちに較べれば、源吾郎の方がよほど彼女たちに縁深い存在なのだ。
もちろんこの事は、源吾郎のみならず雉鶏精一派の研究センターに集う妖怪たちには、彼らの出自はさておき該当する話だ。
要するに、生き残った三妖妃の一人、王鳳来の訪問は彼らにとって寝耳に水どころの騒ぎではないという事だ。
紅藤のたどたどしい電話応対から五分と待たずして、王鳳来と名乗る妖怪は研究センターの事務所に乗り込んできた。傍らには、一対の小さな牛角を生やした、しかし妖狐の特徴も併せ持つ妖怪の男性が控えている。
王鳳来じしんは、見たところ十代半ばの可憐な少女にしか見えなかった。光の加減で深い蒼色に輝く黒髪や、東洋人ながらも日本人のそれとは異なる面立ちだと源吾郎はぼんやりと思っただけだった。衣装だとか紅藤に対する眼差しだとか漂わせるささやかな妖気だとかあれこれ考察する事はあったのかもしれない。だが、そこまで考えを巡らせる余裕は源吾郎には無かった。
末弟子よりも幼げな見た目の妖怪少女とその従者の来訪に、センター長、いや雉鶏精一派最強と謳われる紅藤は、それはもう大げさなほどに畏まり、恐縮していたからだ。
彼女は白衣を脱ぎ捨て、白衣の下にある茶褐色の地味なブラウスとズボン姿となり、迷わず王鳳来の足許にひれ伏していた。動きが完全に終わる前までに彼女の表情がちらと見えたのだが、紫の瞳を大きく見開き唇は引き結ばれていた。何も言わずとも、あるじが王鳳来を畏れている事は明らかだった。姉と慕う峰白に対してでさえ、彼女はあのような表情を見せる事は無いのだから。
王鳳来がただならぬ存在であるという空気は、もちろん紅藤の弟子たちにも瞬く間に伝わった。
研究センターは少人数なれど明確な序列がある集団だった。紅藤はむろんその中でぶっちぎりの第一位の地位に座している訳である。その彼女が、外聞もなく黙ってひれ伏している姿を前に、彼女を強いと認める面々がどうして無関心でいられようか。
ともあれ源吾郎も緊張し、師範と同じく俯いて跪くのがやっとだった。師範と異なるのは、意図的に跪いたか否かであろう。源吾郎の場合は単に、前のように足がコンニャクのように萎えてしまい、結果的にへたり込んで丁度這いつくばる形になっただけに過ぎない。緊張が昂じて変化も解けていた。今や猫のそれと見まがうほどに短く刈り込まれた尻尾があらわになっているが、そのような状況に気付く余裕すらない。
先輩たちがひれ伏しているのか立ったままなのか源吾郎には判然としない。しかし物音もせず室内の大気さえが動きを止めたような感覚が周囲を包むだけだ。
「……お願いだから顔を上げて、紅ちゃん。緊張、しないで」
ひりつくような空気に揺らぎをもたらしたのは、少女の命令、いや懇願だった。声の主が王鳳来であろう事は声の方角から把握できた。紅藤ががばと顔を上げるのが源吾郎にも解った。空気が緩み、王鳳来の尊顔を見ても構わないという状況に流れていくのを源吾郎は肌で感じていた。それでも奇妙な震えがあったけれど。
「お、お久しゅうございます、王鳳来様……」
紅藤は眼前の王鳳来に挨拶を交わしていた。声を出しているとはいえ、やはり緊張の色が濃い。
もうしわけありません。王鳳来をしっかと見据えた紅藤の口から出たのは、何故か謝罪の言葉だった。弟子たち、源吾郎よりも年かさの妖怪たちが戸惑う気配が周囲に広がる。切迫した紅藤の表情にただ戸惑っていた源吾郎だったが、何故紅藤がここまで王鳳来を畏れるのか、その原因を悟った。
紅藤は実は、胡喜媚の事を心底憎んでいるのだ。狂気をはらんだ独裁者・胡喜媚が紅藤にどのような仕打ちを施したのかは源吾郎も把握していない。しかしかつてのあるじに対する冷ややかな嫌悪や憎悪の念が、紅藤のまとう仮面の裏から滲み出るところを源吾郎は度々目の当たりにしている。
結局のところ紅藤は胡喜媚を敬愛する峰白と共に雉鶏精一派を再興させたのだが、それも胡喜媚のためというよりも我欲を満たすために行った所業に過ぎない。
一方、王鳳来は胡喜媚と義姉妹の友誼を結んだ妖魔である。妖怪たちの中でも、実の親子や兄弟などと言った血縁者を大事にする事はありふれた話だ。しかし血族でもなく種族も違う妖怪同士が義兄弟・義姉妹となる事が、きわめて重大な意味を持つ事もまた事実である。現に胡喜媚と王鳳来の関係は、胡喜媚が亡くなる寸前まで続いていたという。二人の義姉ほどの賢さはなかったものの、王鳳来は温和で心優しい存在だったという逸話を源吾郎も知っている。だが優しいからと言って、自分が敬愛していた義姉を憎み抜く義姉の部下を許容できるか否か?
その事が解っていたからこそ、紅藤はここまで怯え切っていたのだろう。
「やっぱりまだ怖がっているじゃない」
王鳳来がもう一度口を開いた。困ったような、戸惑ったような表情がその顔に浮かんでいる。
「紅ちゃんも、紅ちゃんのかわい子ちゃんたちもわたしを怖がらないで。わたしはあなた達にわるい事をするつもりはないの。怒っている訳でもないの。だってそうでしょ? 本当にわたしが怒ってて、それで紅ちゃんたちを、紅ちゃんたちにひどい事をしようと思ってたら、わざわざこうやって表口から入ったりしないもの。
わたし……紅ちゃんも知ってる通りお姉様たちよりもうんと莫迦だけど、だけど闘いの事だって知ってるのよ? お姉様たちといっしょに、お馬に乗って何回も、何回も闘った事だってあるんだから。
だからね紅ちゃん。今日は、紅ちゃんとお話がしたいなと思って遊びにきただけなの。だいじょうぶよ。紅ちゃんも……白ちゃんも胡喜媚お姉様のもとでつらい想いをしたけれどとっても頑張ったって事、わたしだって知ってるもん。それに今だって頑張ってくれているんでしょ?」
「赦して……下さるのですか? 貴女様の姉君、胡喜媚様の血統を逆手に取り、雉鶏精一派の権力を濫用する、この愚かな私を」
何とも不穏な文言が紅藤の口から滑り落ちる。王鳳来は柳眉を揺らし、困ったような笑みで頷いた。
「赦すもなにも、そもそも紅ちゃんは何もわるい事をしていないわ。わるいのはむしろわたしの方よ。ほんとうは、おかしくなった胡喜媚お姉様を、このわたしが励まして支えてあげなければいけなかったんですから。わたしがもっと賢くて、しっかりしていたら、胡喜媚お姉様も元気になって、それで紅ちゃんたちも、胡張安君も苦しまなかったはずなのに……」
言葉尻に余韻を残していた王鳳来だったが、彼女はそれでも笑った。見た目相応の少女の笑みではない。多くの労苦と悲哀を知った者が見せるような笑みだと源吾郎は思った。
「ほんとうにいろいろとごめんね、紅ちゃん。わるい事はぜんぶ、わたしがダメだったから起きちゃっただけなの。
それに紅ちゃんは頑張ってくれていると思うわ。胡喜媚お姉様の孫の、胡琉安君をりっぱに育ててくれているでしょ? わたしは胡喜媚お姉様が亡くなってからいろいろな事が怖くなって逃げちゃったけれど……紅ちゃんも白ちゃんも、逃げずに立ちむかっているもの」
「私めに対してもったいなきお言葉ですわ……王鳳来様」
紅藤は今一度頭を下げていた。しかしその表情には深刻さは薄れ、むしろ憑き物が落ちたと言わんばかりの晴れ晴れとしたものだった。
これを皮切りに、場の空気が急激に和らいでいったのだった。
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