楽園で手渡されるは藤の花
青年が渡した優待券の店名は「港町の楽園・ぱらいそ」という実に香ばしいネーミングであった。源吾郎は青年が指し示す方角に歩を進めてすぐに「ぱらいそ」を発見した。極彩色のネオンの明滅と黄色と黒と赤を基調とした看板が、仄暗い隘路の中でこれでもかと自己主張をかましていた。ド派手な看板を眺めていた源吾郎は、高校生だったころに野暮用で大阪に向かった時の事を思い出していた。あの時見た、大阪市内のみで展開するというスーパーも、「ぱらいそ」に似て派手な看板を掲げていた。流石に、ネオンサインは出していなかったけれど。
ネオンのグロテスクな光に照らされながら、源吾郎は入り口を探した。看板とネオンサインの派手さに気を取られ、何処にドアがあるのか見当がつかなかったのだ。
「おや、一見さんではありませんか……」
意気ごんでいたものの、ドアを探す必要は無かった。すぐに源吾郎は声をかけられ、また声の主を発見できたからだ。看板とは裏腹にドアは黒塗りで地味そうな外観だった。その傍らに、ワイシャツもスラックスも黒一色の若い男が佇んでいる。妖狐である事は、ふわりと伸びた真っ白の一尾を見れば明らかだった。気負わず尻尾を出している所を見るに、やはりここは妖怪向けの店らしい。
妖怪は霊感のない人間には視認できない。人間たちの間にこのような通説が流布しているが、これも頭ごなしに真実とは言えない。姿を隠す術を会得している妖怪もいるにはいるが、基本的には妖怪は肉体と実態を持つため、普通の人間に姿が見えるのがデフォルトである。だからこそ妖狐や狸は要らぬ混乱をもたらなさないためにも、人間や猫などの他の動物に化身しているようなものだ。
ただし、何らかの事故で巨大な妖狐などの真の姿を人間の群衆に見られたとしても、すぐに妖怪が存在するとパニックになる可能性は少ない。そのような事故があれば他の妖怪たちに協力を仰ぎ認識をあやふやにする術を対象者にかけるためだ。ついでに言えば人間の脳はあり得ざる出来事があるとそれを正確に把握する事が出来ないという。従って妖怪に疎い人間が大型犬サイズの妖狐や巨大な鳥妖怪を目撃してしまっても、「珍しい犬を見た」「変わった鳥がいた」という取るに足らぬ記憶にすり替えられるだけに過ぎないのだ。
なお、妖怪同士が集まったり妖怪に詳しい人間の前では、ある程度本性を晒すカジュアルな姿になる事も多い。その最たるものが、妖狐では尻尾になる訳だ。
さて店の扉の前に立つ源吾郎だが、唐突に呼びかけられた事で少しぼんやりとし、黒服の顔や尻尾を眺めていた。おのぼりさんを見るような眼差しに晒されていると気付き、源吾郎はグラサンをしまってから、黒服に笑みを向けた。
「島崎源吾郎と申します。ご存知と思いますが、僕は本当の玉藻御前の末裔です」
源吾郎は「本当の」という部分を殊更強調し、ついで隠していた尻尾をぬるぬると顕現させた。
野良のチョイ悪妖狐の面々が玉藻御前の末裔を騙っている事は源吾郎も良く知っていた。妖怪社会は血筋で尊ばれ、実力を重視される。血筋がなく実力もイマイチな野良妖怪たちが、有名妖怪の血統を自称するのはまぁ良くある事なのだ。玉藻御前の末裔に限って言えば、本物たちが粛清も摘発も行わず黙認している事もあるので尚更だろう。
余談だが萩尾丸の部下たちや研究センターに併設する工場の中にも玉藻御前の末裔を名乗るフォックスボーイやヴィクセンガールが十数匹ばかりいる。彼ら彼女らは萩尾丸に捕獲され、紅藤の手によって遺伝子や妖気を解析され、真の玉藻御前の血統とは無関係な庶民狐である事が既に判明している連中だった。わざわざ凡狐たちのデータ解析を行う紅藤の真意は謎である。先端科学をあれこれ考える彼女にしてみれば、遺伝子や妖気の解析は、ちょっとした手慰みみたいなものなのかもしれない。
「島崎源吾郎さんでしたか。お噂はかねがね聞いておりましたよ!」
先程までの胡散臭そうな視線は何処へやら、黒服は目を輝かせ声を弾ませた。源吾郎は嬉しさのあまりだらしなく頬を緩ませ、二度三度頷く始末である。
「あは、俺自身は高校を出てからずぅっと職場と安アパートを往復する日々だったんだけど、やっぱり素性とか知られちゃってたんすね。いやぁ、
「いえいえ、噂が広がるというのは良い事ですよ。妖怪たち、特に妖狐たちはいついかなる時も、玉藻御前の真の末裔が何をやってるか、気になるものですから」
一息に言うと、黒服は追撃で言葉を重ねた。
「島崎さん。やはり玉藻御前の末裔だけあってオーラが凡狐とは一味も二味も違いますねぇ。何と言いますか、高貴な感じが致します」
「いやいや、俺などまだ若輩者で、まだまだ修行中の身なんですがね」
心臓の鼓動をはっきりと感じつつ源吾郎は応じた。初めはこちらを胡散臭そうに見つめていた野狐だと思っていたが、中々どうして感じの良さそうな男ではないだろうか。
――この兄さんはごく当然な事を俺に行ってくれたんだ。何てったって俺は玉藻御前の末裔で、しかも一族の中じゃあ一番妖力が多いんだからな! クソダサコーデに身をやつしたこの俺の高貴さをきちんと把握してくれるなんてやっぱり只の野狐にしておくにはもったいない漢じゃないかね? 適当なところで連絡先を交換しておこうかな。
「おやぁ、島崎さん!」
半ばおのれの世界に没入していた源吾郎の意識を引き戻したのは、やはり眼前の黒服だった。彼の視線は今や手許の優待券に注がれている。
「これはVIP待遇の優待券ではないですか。十回までは飲み放題・食べ放題・遊び放題でも無料なうえに、ポイントがたまる超優れものの限定カードだったはず……」
黒服は意味深に言葉を溜めていたが、そっと後ろ手でドアを開けてくれた。
「さぁ、ようこそ我らの楽園へ! 精根尽き果てるその時までどうぞお愉しみを!」
※
クラブ「ぱらいそ」は、路地裏の隘路にあるとは思えぬほどの広さを有していた。まぁ日本妖怪の中には空間を広げる術が得意な者が多いので、そう驚く事でもないだろう。
広さよりも言及すべきは、店内の壮麗さとそこここで展開されている饗宴の方だ。四、五メートルほどありそうな高い天井の上には中華テーブルサイズのシャンデリアが太い鎖で吊るされ、店内を荘厳に照らしていた。燭台の上に灯る焔は黄色や橙だけではなく、青や緑、紫などと色とりどりだ。LEDや炎色反応ではなく火の妖術を用いた物のようだ。
テーブルは丸いものや四角いものなどが並んでおり、それらの周りに置かれた丸椅子には、妖怪たちが腰かけて歓談したり、飲み食いしたりしている。男性客の所には着飾った女妖怪が幾人か侍り、女性客の所には執事めいた衣装の男妖怪がやはり数名侍っている。
案内役の猫又に促された源吾郎は、隅っこの長いテーブル席の一つに腰を下ろした。VIPなのに隅っこかよ、とは思わなかった。隅っこには隅っこの良さがあるためだ。すなわち、他のテーブルの享楽ぶりを観察できる。それに思わせぶりな丸いステージ近いのも興味を引いた。そこは無骨だがしっかりとした柵でぐるりと囲まれており、上からの照明はもちろんの事斜め下から舞台を照らすためのスポットライトまである。歌や踊りでも行うつもりなのだろう。
猫又の青年にジンジャーエールとチーズの盛り合わせをオーダーする。猫又は本物の猫が肉球をすり合わせるように揉み手をしながら問いかける。
「ジンジャーエールとチーズの盛り合わせ、ですね。島崎様、お相手はホステスで構わないですね」
「もちろん」
ホステスかどうかをわざわざ聞くところが少し気になったが、他のテーブルを見るとまぁそういう事なのだろうと納得しておく事にした。女性客がホステスとガールズトークで盛り上がったり、男性客がホストの若者に酒を注がせているテーブルも、少ないながらあったためだ。
源吾郎は水入りのグラスにそっと口を付け、深く息を吐いた。柔らかな椅子のクッションの感触が心地よい。華やかで煌びやかな場所にはからずとも訪れる事が出来た源吾郎だったが、嬉しいかどうか妙な話まだ解らなかった。どぎまぎし、少し緊張している事が辛うじて解るくらいだ。
「初めましてぇー、島崎さぁん」
オーダーが来る前にホステスと思しき娘妖怪が三名源吾郎の前に現れた。真ん中にいる快活そうな娘の声に、源吾郎は驚き、ついで尻尾の毛も逆立ってしまった。
「は、初めまして……島崎源吾郎です」
源吾郎が挨拶を返している間にも、娘らは源吾郎の対面だとか両隣に腰を下ろした。源吾郎はさりげなく四尾を人参サイズに縮め、彼女らに触れないよう気を配った……入店した時から大根サイズに縮めてあったので、そう大きな差は無いだろうが。
「私はナナコ。島崎さんの右隣がマキで左隣がユミって言うの」
「マキって言いまぁす。今日は島崎さんに会えてもうマンモスうれぴーな」
「……ユミよ。できればこれからあなたの事を色々と知りたいわ」
前方と左右、三方向から娘たちに迫られた源吾郎は、思わずきゅうと身をすくめるだけだった。日頃より女子達に言い寄られ傅かれるところを夢想している源吾郎ではある。しかし滑稽な事に、実際にそんなシーンが訪れるとへどもどして縮こまるのが関の山だった。イメトレや指南書での「予習」に余念のない源吾郎だったが、実際の女子達の圧に驚き、二の足を踏んだのだろう。ついでに言えば男女関係に疎い男らしく女子の好みにはいっちょ前にうるさい所もあった。源吾郎はおのずからグイグイ迫ってくる女子よりも、物静かで大人しく、清純そうな娘の方が好みなのだ。
源吾郎の中では、ナナコたちはグイグイ来るタイプであるという判定が下りていた。だからなおさら、戸惑ったとも言えるだろう。華やかながらも若干きわどい衣装も気になっていたし、元気娘っぽいマキなどは無遠慮に源吾郎の二の腕に指を這わせる始末である。
「ね、島崎さんって玉藻御前様の血を引くともだちなんだよねっ!」
「あ、うん、そうです」
ナナコのアニメ声での問いかけに源吾郎はとつとつと応じた。緊張している源吾郎に対して、今年流行ったアニメ・「ともだちアニモー」のセリフを使って場を和ませようという彼女の気配りであろう。
「ともだちアニモー」というのは深夜に放映されていたアニメである。擬人化した動物たちのいる世界をスナドリネコの少女と人間の少女が冒険するという実にシンプルな内容である。高校生活も終わり間近の同級生たちが話題にしていたので気になって視聴し始めたのだ。長兄の宗一郎から「いかがわしいアニメを見るのは良くないなぁ」などと因縁を付けられて彼と共に視聴せざるを得なくなったのだが、あにはからんや「ともだちアニモー」にハマったのは宗一郎の方だった。
少女ばかり出てくる作品だったが宗一郎の懸念したような厭らしさはなく、実在の動物の行動を擬人化された少女たちに落とし込まれた様子の見事さや、ほのぼのした作風とは裏腹に考察の甲斐があるような不穏な気配を、いちサラリーマンである宗一郎はいたく気に入り、源吾郎と一緒に観ようと誘い出す始末だった。2017年もまだ始まったばかりなのに、今年の覇権アニメになるとさえ宗一郎はあの時言っていた位の入れ込みようだ。子供の遊びにお父さんの方がハマってしまうというのは往々にしてある事らしい。もっとも、島崎家の場合は父子ではなく年の離れた兄弟だが。
ナナコたちは「がおー」と言いつつ獣っぽく手を丸めて顔の両側に添えている。彼女らの衣装は胸元の開いたドレスではなく、「ともだちアニモー」中に登場する「ともだち」のコスプレになっていた。彼女らはそれぞれ、メインキャラのスナドリネコ、ホッキョクギツネ、ハクビシンの「ともだち」になっているようだった。
「が、がおー……」
ニッコニコの笑顔を振りまくナナコたちを前に源吾郎も社交辞令的に彼女らのポーズをまねた。違っていたのは源吾郎は「ともだち」のコスプレをしていない事と、その面に浮かんでいたのが満面の笑みではない事だった。折角盛り上げようとしてくれるのだから応じねばならない。その思いが胆汁のように胸に染み渡ったが故の表情だった。
「お待たせしました島崎様ぁ。ジンジャーエールとチーズの盛り合わせです」
源吾郎が義務感と羞恥心の間で揺れ動いていた丁度その時、オーダーした品が到着した。目つきの鋭い猫又と視線を交わす事コンマ数秒。源吾郎は黙って会釈をした。周囲の空気がそよぎ、わずかに涼しさを感じた。顔を上げると、ナナコたちが立ち上がっているのが見えた。
「うふふ、島崎さんはちょっと人見知りみたいだから……あとは頑張ってねサヨコちゃん」
軽い挨拶と共に立ち去ったナナコらと入れ替わりにやって来たのは、サヨコと呼ばれた娘妖怪だった。ナナコらと同じく妖狐であるらしいが、ナナコらとは雰囲気が大分違っていた。ナナコらは若々しかったが大人の色香らしきものをばっちりと身に纏い、また女性的な強さをも持ち合わせていた。一方のサヨコは源吾郎と同じか少し幼げな娘にしか見えない。ほっそりとした身体をロングのワンピースで身を包み、品よく刺繍が施されたショールを上着代わりに纏っている。全体的に清純で、護ってあげたくなるような気配の持ち主だった。サヨコはちょっと戸惑う素振りを見せてから源吾郎の対面に腰を下ろした。
「初めまして、島崎源吾郎です。一応、玉藻御前の末裔をやってます」
源吾郎はテーブルの脇にあった小皿をサヨコの前にさりげなく置いてから自己紹介を行った。サヨコは視線を上げると、黒褐色の瞳を上げてはにかんだ。
「初めまして。島崎さんですね。私はサヨコと言います。不束者ですが、島崎さんに楽しんでいただけるよう頑張ります」
小さく頭を下げるサヨコの挙動を見届けていた源吾郎の胸の奥で、何かがスパークするのを感じた。
――やだ! サヨコちゃんめっちゃ可愛い! こんなクッソ可愛い娘と逢えたってここやっぱ楽園だわ!
不思議そうなサヨコの視線に気づくと、源吾郎はさっと視線を動かしジンジャーエールをぐびりと呷った。わざわざソフトドリンクでも硬派に見えるジンジャーエールを選んだ源吾郎だったが、ピリッとした味わいと炭酸の攻撃に目を白黒させていたので、惚れた娘の前にしてはイマイチ締まりのない動作となってしまった。
源吾郎は軽く咳払いをしてごまかすと、仔犬のような目でサヨコを見た。サヨコもまた、犬か猫の仔のような無垢な眼差しを向けている。
「玉藻御前の末裔だったのですね。道理でセンスの良いお洋服をお召しになられているのですね」
「えっ……まぁ……」
服装を褒められるという予想外の行為に源吾郎は一瞬驚きを見せた。しかし驚きの念はすぐさま喜びに取って代わった。
「そ、そりゃあ枝葉の末孫と言えど、僕も一応は玉藻御前様の系譜に連なる者ですからねぇ。審美眼とか、そう言うものも具わっているのかもしれませんよ。まぁ、本質的に言えば『馬子にも衣裳』の逆パターンかもですね。やっぱり、その、どんな衣装であっても服の主の出す高貴さとか、カリスマ性は滲み出るんですよ、はは、ははは」
源吾郎はまくし立てるように言うと今一度ジンジャーエールを呷る。今度はどうにかむせなかった。
サヨコはすっかりくつろいだ様子でいるようだったが、源吾郎を見ると口に右手を添え、控えめにしかし楽しそうに笑っていた。
「うふ、ふふふ……島崎さんって本当に面白いお方ですね。色々なお話が聞きたくなりましたわ」
そう言うとサヨコは源吾郎が今しがた渡した小皿を持ち、隣席に映った。一人で食べきるには多すぎるチーズの盛り合わせの数かけらが、既にサヨコの小皿の上にあった。
「島崎さん。どうぞこれを受け取ってください」
隣席のサヨコが少し畏まった様子で源吾郎に告げる。それは小さな花束だった。花束というには珍しく、藤花の房を蔦で結んだ代物である。
源吾郎はサヨコから花束を受け取るとぱぁっと顔を輝かせた。惚れた女の子から花束を貰ったという事も嬉しかったが、それ以上に花束に込められた意味を看破したからだった。源吾郎は花言葉にも詳しい。故に藤花が「決して離れない」蔦が「永遠の愛」という花言葉を持つ事も知っていた。
「……その花束は私の気持ちですわ」
「ありがとう、ありがとうサヨコちゃん!」
源吾郎は手のひらに力を籠めぬよう、しかし花束を取り落とさぬよう注意せねばならなかった。
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