実家への帰路にたたずむ九尾かな

 久しぶりに乗る電車にはそう人は多くなかった。帰省ラッシュがどうとかという話が脳裏をよぎったが、連休二日目の日曜日であれば、それも少しマシになっていたのかもしれない。

 ともあれ目的の駅に到着した源吾郎は、人の流れに従って下車した。ホームの端から見える白鷺城は新緑の光に生えていつも通り美しい。せかせかと目的地へと向かおうとする人々を見ながら源吾郎は伸びをし、おのれのペースで歩を進めた。そうすばしっこい動きではないものの足取りは軽やかだ。手土産を携えているとはいえ体積的にも重量的にもほぼ手ぶらと呼んで構わない代物だったためだろう。


 城下町の商店街から少し離れた住宅街を、源吾郎はゆっくりと進んでいった。二か月前まではほぼ毎日通っていたその道の景色を源吾郎は心底楽しんでいた。実家に帰る事をワクワクするほど心待ちにしていた訳ではなく、むしろ一人暮らしに順応していたと思っていたから、そういう心の動きは実は源吾郎自身にも少し驚きを伴う代物だった。

 或いはただ単に、人工的と言えど生き生きとした四月末日の自然を目の当たりにして、彼らの生命の躍動に心が動いただけなのかもしれない。

 いずれにせよ、平和で楽しげな光景である事には変わりなかった。こんもりと植わるサツキツツジは淡い赤紫の花をみっしりと咲き揃わせており、鳩や雀は巣立ったばかりのヒナを引き連れて飛び回っている。自分をフェンリルの末裔だと信じて疑わぬチワワたちからガンを飛ばされた源吾郎であったが、それもまた微笑ましい晩春の光景の一つと言えるだろう。

――景色やこまごまとした鳥獣の動きに夢中になっていた源吾郎は、だから実家に続く通りを突き抜けて進んでしまった事に気付かなかったのだ。もちろんそこには、十八年弱過ごしてきた実家までの道のりを忘れるわけがないという油断もあった事は言うまでもない。


 今や住宅地の散策となってしまった源吾郎の歩みが不意に止まった。とはいえ道を間違えた事に気付いたわけではない。一介の妖怪として、周囲の空気が他の場所と異なっている事を感知しただけの話だ。

 源吾郎は用心深く周囲を見渡しながら身を震わせた。隠されていた四本の尻尾が顕現し、放射線状に源吾郎の背後に伸びていく。人間ばかりの往来で本性を晒すのは控えている源吾郎であったが、今回ばかりは問題ないであろうと思っていた。人払いや認識阻害の術が、この周辺に仕掛けられている事を源吾郎は即座に見抜いたのだ。何故源吾郎がいる場所にそのような術が展開されているのかは不明である。というよりも、その術が仕掛けられている場所に源吾郎が入ってしまったという方が正しいであろう。もっともそれでも謎は謎のまま残るだけではある。人払いや認識阻害は誰かに知られたくないから行使する術である。妖怪であれ人間であれ、何も知らない者であれば不思議な力の作用によってそこに到達する事が出来ないか、出来たとしても気付かずに通り過ぎるかのどちらかなのだ。通常であれば。


 驚き半分ドキドキ半分で周囲を確認していた源吾郎は、そこで一体の妖狐を発見した。彼が件の術を使っていた事はすぐに解った。しかし、彼に歩み寄る事も問いかける事も無かった。彼を一目見た時に強い驚きが源吾郎の心を支配し、それ以外の動きや考えを一瞬だが奪っていたのだ。

 がっちりした身体つきのその妖狐の男は、まごう事なき九尾だったのだ。顔つきや服装などの特徴は何ともぼんやりとしてとらえどころがなかったが、彼の背後で揺れる二メートル弱の尻尾が、確かに九本あるのを源吾郎ははっきりと見た。しかもよく見れば源吾郎の四尾とよく似た、銀白色の毛並だった。


「…………」

「あれは……そうか。ここは……七年か。懐かしいな」


 九尾の男も源吾郎の存在に気付いたらしい。小声でぶつぶつと何かを呟いていたが、ゆっくりとこちらに近付いてきた。源吾郎は呆然と立ち尽くしているだけだった。確かに実家に帰ろうとしている最中だったから、妖狐の血を引く身内に会う事には変わりはない。しかし、九尾の狐に遭遇するとは夢にも思っていなかった。九尾の狐は玉藻御前だけではないが、千年以上生きたとか、それに匹敵する妖力を持つ特定の妖狐しか到達しない最終形態だ。したがって個体数も妖狐の中では断トツに少ない。その数少ない九尾らは、神としての職務や神の補佐役を行ったりしているので、平凡な妖怪は会うどころか、お目にかかる事すらめったにないほどなのだ。しかし今、その非常に珍しい事が源吾郎の目の前で起きていた。

 今や九尾は源吾郎のすぐ傍に立ち、向き合う形になっていた。顔かたちも表情も判然としないが、不思議と怖い気持ちは無かった。九尾を目の当たりにしたという衝撃が大きすぎた事も原因であるが、九尾の放つ気配や妖気も無視できない要素だった。敵対的な気配は相手から一切感じられなかった。穏やかにあるがままの源吾郎を受け入れるような平穏な気配が、九尾の周囲には漂っていたのだ。だからこそ規格外の大妖怪――おのれの師範である紅藤よりも強いかもしれない、と源吾郎は思っていた――を前にしても、源吾郎は殆ど恐怖を抱かずにいれたのだ。


「おはよう、いい天気だね仔狐君」

「おはよう、ございます……」


 挨拶を返し、源吾郎は相手の定まらぬ顔を上目遣い気味に眺めた。九尾様、と呼びかけようと思ってためらっていたのだ。九尾は固有名詞ではないから、きちんと名で呼ばなければ失礼に当たるだろう。そんな妙にまともな考えが源吾郎の中で展開されていたのである。


「私の事は好きなように呼んでもらっても構わないよ。九尾様、とかね」


 心中を見抜かれたような九尾の言葉に源吾郎が目を丸くしていると、彼は続けた。


「……それにしても、見られるとまずいと思って張った術を潜り抜けて入ってきてくれるとは、ね。まぁ、君ならばやりかねないと思っていたかな」

「お邪魔をしてしまい、申し訳ありません」


 謝ると、九尾は少し慌てたように手を振った。笑っているのだろうなと源吾郎は解釈した。


「謝らなくても良いんだ仔狐君。別に私は怒ってないよ。君が玉藻御前の末裔である事は私も知っている。それに、私の術を通り抜けて、こうして私の前にやって来るかも知れないと思っていたんだ」


 九尾は手を下ろすと、やや前のめりになり源吾郎を見つめた。


「仔狐君。私は君の事をよく知っているんだ。君が知っている事はもちろん、君の知らない事も、さえもね」

「九尾様……」


 恐怖と歓喜と不安と期待とその他もろもろの感情が混ざり合うのを感じながら源吾郎は呟いていた。いったい彼は誰なのだろう。雑多な想いはひとまず原始的な疑問に落ち着いた。源吾郎の事を、未来の事まで知っているというのは脇に置いておこう。妖狐の中には二尾や三尾程度の存在であっても、未来を知る事が出来る能力を持つ者がいる。九尾ほどの存在であれば、未来を見通す事はたやすいであろう。

 しかし、白鷺城の近辺に九尾が棲息しているという話は誰からも聞いてはいない。九尾がすぐ傍にいるというのであれば、源吾郎の親族なり紅藤なりからを聞いているはずだ。或いは、どこか遠くに暮らしている者が、たまたまこちらにやって来ただけなのだろうか。


「ああ、私が何処の誰か気になっているみたいだね。だがそんな事は気にせずとも良いんだ。もとより私は本来はこの場にいる存在ではないし――時が来れば私が誰だったか、解る日が君には必ず訪れる」


 そこまで言うと、九尾はかすかに笑い声を上げた。


「それより仔狐君。こんな年寄りに関わっているよりも、家族に会いに戻ったんだから、そっちを優先した方が良いじゃあないかな」


 言うや否や、九尾の姿が急激に薄れ、一秒と経たぬ間に消え失せた。今いる場所が島崎家からどれだけ離れているかを源吾郎が把握した時には、既に九尾の施した術も解除されていた。

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