第四幕:妖怪仙人の忠告とたわむれ

始業前の一服

 五月八日、月曜日。始業時間よりもいくらか早い時間に研究センターの敷地に到着した源吾郎は、いつも以上に息を弾ませていた。比較的平坦でアップダウンの少ない道だと思っていたのだが、久しぶりに自転車を漕いで進んでいるうちに、源吾郎は情けないがばててしまったのだ。連休中の不摂生というか、最終日の二日間が尾を引いているだけかもしれないが。


 源吾郎は所定の駐輪場に相棒のママチャリを停めた。振り仰げば五月晴れの蒼天を背後に、勤務先である研究センターが鎮座しているのが見える。

 クールビズ対応のスーツ姿の源吾郎は、着替えを右手に提げつつゆっくりと歩を進めた。未だしんどさは身体の中に残っていたが、ふらつくとか倒れるとかいう最悪の事態が訪れそうな気配はなかった。

 小さく見える研究センターを一瞥した源吾郎は、しかしその足を研究センターではなく工場棟のある道へと向けた。紅藤や萩尾丸がいる研究センターに行く事を恐れていたわけではない。工場棟には自販機があるので、そこで飲み物を買おうと思っただけに過ぎない。

 工場棟も未だ始業時間を迎えていないが、従業員たちであふれていた。彼らはとうに青みがかった灰色の作業着に着替えていたため、スーツ姿の源吾郎は大変目立った。妖怪や術者の卵たちの、妙に活気づいた声を半ば避けるように、源吾郎は出てきたジュースの缶を抱えるように両手で握り込み、そのまま工場から出た。

 休憩スペースにある数台のベンチには、やはり仕事待ちの従業員たちがくつろいでいる。手にした飲料をチビリチビリと飲む者もいれば、干し肉と思しき細い棒をしがむ者もいる。喫煙者はほとんどいない。妖狐や化け狸は煙草の煙を嫌い、術者たちは健康を心掛けるためにやはり煙草とは距離を置いている。健康的な面々ばかりだ。

 スーツ姿でなくとも自分が注目される事を源吾郎は心得ていた。何しろ単なる工員ではなく、末席とはいえ研究センターの一員、それも幹部候補生である。ついでに言えば本当の玉藻御前の末裔である。どこを取っても注目を集めるような存在なのだ、源吾郎は。


 それでも人気の少なそうな場所を発見した源吾郎は、そこで一息ついてプルタブを開け、はばかる事無くジュースを呷る。朝から小銭を使ってジュースを買った事に対する罪悪感も、ジュースがもたらす甘みの前では特に意味などなさない。糖分はすぐに栄養となり脳に作用するのだという。源吾郎も少しだが元気になったような気がした。

 さて飲み終えて気力も戻り、空き缶を棄てようと思った丁度その時、青灰色の作業着の影がこちらに近付いてきた。今にもスキップしそうなほどに陽気な動きを見せて接近してきたのは、鳥園寺飛鳥さんその人だった。彼女が源吾郎を源吾郎と把握したうえで近付いてきたのは、その表情からも明らかだった。


「おはよう、島崎君!」

「お、おはようございます」

 

 はつらつとしたその声に半ば気圧されながらも源吾郎は挨拶していた。立てば源吾郎よりいくらか背の低い鳥園寺さんであるが、その視線には甘えも媚びもなく、清々しい程にまっすぐなものだった。まぁ考えてみれば、鳥園寺さんは少し前まで源吾郎を「弟分」と見做していたわけであるから、彼女が堂々としているのは当然の事かもしれない。


「……何というか、随分と大人っぽくなったわね」

「そ、そうですかね……」


 臆せず質問を投げかける鳥園寺さんに対して、源吾郎はへどもどしながら視線を動かしていた。彼女の視線は堂々としているだけではなく、丁度研究者が実験用のマウスを見つめるような、観察者特有の眼差しである事に源吾郎はふと気づいた。

 ありえそうな話だ、と源吾郎は思った。鳥園寺さんは元々生物学を学んでおり、源吾郎よりもいっそ研究者に近い。しかもアレイの話によれば、大活躍した源吾郎の存在が、彼女のモチベーションの素になっているという事でもある。

 そんな彼女ならば、源吾郎を観察するような眼差しを向けたとしてもおかしくはない話だろう。

 源吾郎の鋭い聴覚は、他の妖怪たちや術者たちが何事かささやいている声を拾っていた。彼らが噂をしたくなるのも無理からぬ話だろう。田舎の労働者は話題に飢えているから色事やパチンコの話に飛びつくのだと、工場勤めの誠二郎もかつてそんな事を言っていた。

 しかも相手は九尾の末裔たる源吾郎と、術者の当主候補である鳥園寺さんだ。しかも遠目で見たら若い男女が親しげに話しているようにも見えるだろう。盛り上がらない方がおかしいという物だ。

 野次馬根性を出し始めた群衆が何を言っているのか、聞き耳は立てない。源吾郎は何故か、周囲から注目を集めだしていると知り却って落ち着きを取り戻し始めていた。あるいはもしかすると、連休中の源吾郎の大活躍について語っている訳ではないと雰囲気から解ったためかもしれない。

 ともあれ、周囲と鳥園寺さんに威厳を見せつけるチャンスだと思っていたのだ。なけなしの威厳を見せつける時だけは、源吾郎もしゃんとして元気になるのだ。源吾郎は白鷺城を見て育ったのだが、プライドの高さは通天閣と同レベルなのだ。

 

「そりゃあ大人っぽくもなりますよ。何せ昔から、『男子、三日会わざれば刮目して見よ』って言うじゃあないですか」

「それもそうね……だけど私たちが最後にあったのって五日の夜だったから、大体六十時間ぶりね。丸三日と言えば七十二時間だから、ちょっと短いけれど」

「ま、まぁ良いじゃないですか……」


 奇妙な鳥園寺さんの指摘に対する源吾郎の突っ込みは弱弱しかった。このやり取りが面白いと感じたらしく、周囲では和やかな笑い声が上がっていた。結局のところ、いぶし銀の魅力が足りぬ源吾郎には、威厳を出す事は少し難しいようだった。

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