兄とけじめとバリカンと

「庄三郎兄様。これから行くけれど、なんて電話をまさかアパートの真下でやるとは思ってもいなかったぜ」

「電車の中で電話するのはご法度だろう。まぁ駅からここまでは多少歩いたけれど、源吾郎のアパートってどこだったかなと思っているうちに到着したからね」


 はすっぱな物言いの源吾郎を見つめながら、のんきそうに庄三郎は笑う。元々は黒ずくめの衣装だったのだろう。だがアトリエからおっとり刀でやって来たらしく、ズボンにもカッターシャツにもアクリル絵の具が点々と散っている。本人はまるで気にしていないが。

 何気ない様子で庄三郎が右手に下げた紙袋を揺らす。焼き菓子の甘い香りが源吾郎の鼻先をくすぐった。

 気が付けば、庄三郎は笑みを引っ込め真面目そうな表情で源吾郎を見ていた。


「本当の事を言うと、源吾郎に何かあったのかなと思ってこっちに出向いたんだ。

この前僕のアトリエに向かうって返信してくれただろう? 君の事だから、朝一には来ているだろうなと思ったんだけど全然来ないし、連絡してみても全然繋がらなかったからさ」

「……それにしても、わざわざ遠出して弟のアパートまで駆けつけてくれるなんて、兄様にしては大変だったんじゃないの?」


 妙に語気の強い源吾郎の言葉に、庄三郎はやはり、淡い笑みで返すのみだった。



 末の兄である島崎庄三郎は、ある意味源吾郎とは別方面で妖狐の血を色濃く受け継ぐ存在であった。比類なき能力を幾つも保有する彼であるが、真っ先に解るのはその類まれなる美貌であろう。色白である事は源吾郎も変わりないが、端麗かつ優美な面立ちと均整の取れたその姿の美しさは、陳腐な言い方ではあるが筆舌に尽くしがたいものだった。

 しいて言うならば、巷のイケメンアイドルもホスト野郎もイケメンモデルも或いは光源氏であったとしても、庄三郎と並べば下賤な山猿にしか見えないという事であろうか。

 その庄三郎が傾国の女狐の末裔であると言わしめるのは、その美貌よりもむしろ彼の保有する能力の凄まじさにあった。

 彼は先天的に人間を籠絡し惑わす能力を持ち、尚且つ相手の人間の行動や考えを自分の思うように御する能力を、小学生の頃に獲得していた。色々な方面で魅力に乏しいが、変化術や戦闘術といった「実践的」な能力を有する源吾郎とは、まさに好対照の存在である。

 優れた美貌と相手を虜にする魅力、そして他者をコントロールするカリスマ性。源吾郎がどれだけ望んでも得られなかった能力を、庄三郎は半ば生得的に手にしていたのだ。


 さてここまで庄三郎の能力の凄さを語ると、彼がこの能力を存分に濫用し、面白おかしく暮らしているという情景がありありと浮かんでくるかもしれない。もし、源吾郎は心置きなく鼻持ちならぬ兄に嫉妬し、存分に敵愾心を燃やしていただろう。

 庄三郎の持つ能力は、労せず恋人を得て他人を意のままに操れるという、傍から見れば幸運をもたらしてくれるような素晴らしい代物に見えるだろう。皮肉な事に、庄三郎の半生は、その能力によって追い詰められ、苦しめられていると言っても過言ではなかった。

 無秩序に垂れ流される魅了の力にあてられた人間たちの、剝き出しの欲望の醜さ恐ろしさに、庄三郎は幼子の頃から晒されていた。おのれの内面を何一つ知らぬというのに、ただただ上辺の姿と奇妙な魅力によってのぼせ上り、おぞましく蠢く人間たちの姿を、庄三郎は幼い頃から目の当たりにせねばならなかったのだ。浅ましい本性をむき出しにして手を伸ばしてくる面々と知りながら、どうして彼らを信頼できるというのだろうか?

 実を言えば、相手の心を御するという庄三郎のもう一つの能力は、庄三郎の心を護るために開眼した能力であるともいえる。要するに、相手の人間たちに対して、自分の持つコントロールするためだけのものなのだ。今では相手を無差別に魅了し続けるという事は無くなったが、庄三郎にとっては誰かを無条件に信頼する事は今でも難しい事なのだ。

 ともあれ庄三郎は、おのれの持つ能力を恐れ、疎んでいた。優れた容姿も容易く人を魅了する能力も、本人が恋愛に興味がないのだから何の意味もなさない。むしろ庄三郎は、身内以外の他の人間と関わる事をひどく恐れた。魅了の力は実は妖怪にはほとんど効かないのだが、妖怪の事もひどく恐れていたので妖怪として生きる事も出来なかった。

 庄三郎はいつしか芸術にのめり込むようになり、美大を出て芸術家になった。日がな一日ゴチャゴチャしたアトリエに籠って制作にふけったり制作のネタを考えるためにゴロゴロしたりしているらしいが、それが庄三郎の望んだ幸せなのだった。足りないものを補うために外へ意識を向けて大きな野望を抱く源吾郎と異なり、心の奥底へ意識を潜らせ、ささやかな満足で幸せに浸るのが、庄三郎の生き様だった。

 、源吾郎は庄三郎を無邪気に嫉妬したり憎んだりする事が出来なかった。誰もが羨む能力の代償というには重すぎるほどの労苦を抱えている事を知っていたからだ。

 庄三郎に対して源吾郎が抱くのは、儚い羨望と、それ以上に濃密な、皮肉を好む運命へのやるせなさだった。

 

 ともあれ、弟の身を案じてとはいえ庄三郎がここまで遠出するのは珍しい事だった。もっとも、今の源吾郎には兄の珍しい動きに驚き感心するほどの余力を持ち合わせていない。

 庄三郎は布団が未だ敷かれた部屋の様子を気にする素振りは無く、源吾郎が日頃使っているローテーブルに袋を置いた。非常にリラックスしているように見えるのは気のせいではない。複雑な感情を抱く源吾郎に対して、庄三郎は純粋に歳の離れた弟の事を好んでいた。魅了の能力はさておき、相手の精神を御する能力さえ恐れている庄三郎にしてみれば、それらの能力が全く作用せずしかも剥き出しの感情を向けてくる源吾郎と接するときこそが、むしろ彼の心に平穏をもたらすのだそうだ。


「駅前で良さそうなシュークリームを見つけたんだ。良かったら食べないかい」


 源吾郎の視線は袋に注がれていた。シュークリームの形は見えないが、その嗅覚はしっかりとシュークリームを捉えていた。腹が鳴るのを源吾郎は聞き取った。失意に打ち沈み、来訪者の波状攻撃に戸惑っていた源吾郎だったが、彼の持つ本能は鈍っていなかった。

 

 源吾郎と庄三郎の間に表立った会話は無かった。ペースは違えど二人ともシュークリームを食み紅茶(妖怪用)を飲む事に専念していたためである。より厳密に言えば、内向的な庄三郎は半ば思考のふちに意識を沈めており、源吾郎は単純にシュークリームに意識を向けていただけだ。サクサクした生地と、軽めのクリームが互いを引き立てあっていた。

 正直なところ、昼食というにも遅い時間帯だったのだが、昼は昼でほとんど食べていなかったから胸焼けを起こす事もなかった。


「ごちそうさま」


 ゆっくりとシュークリームを堪能した源吾郎が行儀よく挨拶をするのを庄三郎は見守っていた。彼の笑みに安堵の色が被さるのが源吾郎には見えた。

 源吾郎はようやくというか、そこで自分の兄に対する用事を思い出した。すなわち、土産である護符を渡すという独自ミッションだ。くだんの護符は貴重品入れにしまっているから場所は解っているはずなのだが、未だに平常心は戻っておらず、兄の前でもあたふたとするさまを見せてしまった。


「庄三郎兄様。これがその、おみやげの護符なんだ」


 右手で護符を摘まみながら、源吾郎は庄三郎の対面に戻る。まさしく数日前に源吾郎の身を恐るべき薬物から護った護符そのものである。ストラップの先につけられた薄紫の玉は、源吾郎の手の震えに合わせて揺らめいている。


「ありがとう源吾郎。これは兄さんたちが言っていた奴だね」

「そうそう。色々あって、紅藤様が限定品として作ってくださったんだ。俺は社員だし直弟子だから、無料で貰えたんだ。ああ、だけど品質は悪くないよ。先輩の部下たちや隣接する工場の社員たちに向けて作ったやつなんだけど、普通の妖怪の攻撃も防いでくれるし……毒とか変な薬物を飲んでも、護符を身につけていれば何ともないんだ」


 護符のくだりについて、源吾郎は一つだけ嘘をついていた。源吾郎が入手した護符は、無料で譲り受けたものではなく自腹で購入したものである。廉価であると言えども一つ一、二万はしたはずだ。この事は実家にいる両親や上の兄たちにも言っていない。彼らに気を遣わせてしまうと思っていたためだ。

 ちらと庄三郎の様子を窺う。彼はただ無邪気に護符の玉に興味を示しているだけであった。だがすぐに源吾郎の視線に気づき、黒々とした瞳でのぞき込んできた。


「護符って妖怪の物理攻撃から護ってくれるものだと思っていたけれど……毒とかにも効果があるんだね」

「うん…………」


 子供のような声音と口調で頷きながら、源吾郎は微かに緊張し始めたのを感じた。心臓の拍動と喉のひりつきを感じつつ、残った紅茶で喉を湿らせる。


「庄三郎兄様はさ、俺が心配でわざわざ来てくれたんだよな」


 兄の返答を待たずに、源吾郎は言葉を重ねた。頬の筋肉が動くのが解る。自分は恐らく、今いびつな笑みを浮かべているのだろう。


「連休中に何があったのか話すよ。だけど、お願いだから母様や兄上たちや姉上には黙っていて欲しいんだ」

「大丈夫だよ源吾郎。言うて僕も、そんなに母さんや兄さんたちと連絡を取り合っている訳じゃあないって知ってるでしょ」

「それもそうかも」


 源吾郎は庄三郎が浮かべていたような笑みを見せると、とつとつとぱらいそでの出来事を語り始めた。



 庄三郎には案外カウンセラーの才があるのかもしれない。唐突にそんな事を思ったのは、源吾郎が洗いざらい全てを話し切った後の事だった。庄三郎は源吾郎の愚行――そう呼ぶにはいささか可愛いものでもあるのだが――について、源吾郎が語っている間には特に何も言わなかった。ただただ頷き、相槌を打ってくれるだけだった。源吾郎はだから委縮せず遠慮せず七歳上の兄におのれの心の微細な動きまで語る事が出来たのだ。


「……それはまぁ、大変だったろうねぇ」


 庄三郎は、源吾郎が話し終えてから五秒ほど間をおいてから口を開いた。目には同情の色が濃いが、自嘲的な笑みが浮かぶのを源吾郎は見た。


「しかし、源吾郎も危ない橋を渡ったとはいえいい勉強になったんじゃないの? 恋愛事に限って言えば、真実の愛なんてものは所詮は幻想なのさ。あるのはデコレーションされた欲望と打算しかないって事だよ」

「毎度の事ながら、その手の話になるとドライになるよなぁ、庄三郎兄様は」


 昏い瞳の兄に対して、そういうのがやっとだった。相手を魅了する能力のせいで身内以外の人間との関係性を上手に構築出来なかった庄三郎は、恋愛に対してはシビアでドライな意見を示すのが常である。少年だった頃は、自分が誰も愛せない存在なのだろうとやはり悩んでいたらしいが、無性愛者アセクシャルという存在を知った今はある意味開き直っている節もあった。


「きっと今もさ、俺の事を愚かだと思っているんでしょ。相手の打算に気付かず、真実の愛というものに酔っていた愚か者だって」


 源吾郎は問いかけるというよりも、少し責めるような口調になってしまっていた。源吾郎にとって恋愛事は中々に重要事項であるし、庄三郎とその手の話になるとやはり興奮を抑えきれずにはいられない。

 源吾郎よりは七歳分大人の庄三郎は静かに首を振った。


「別に僕は源吾郎を愚かだなんて言ってないさ。失敗する事自体は誰だってあるんだ。僕だって何が正しくて何が間違っているのかなんて解りっこないし。いやむしろ、弟びいきもあるけれど、十八でそこまで考えられるって大した事だと思うよ。厭味じゃなくて素直な意味でさ」

「褒めてるの、兄様?」

「もちろんさ。知っての通り僕も十八だった頃はあるけれど、周りにいる男子なんてものは……」


 言葉を途中で濁らせた庄三郎を見つめながら、源吾郎は尻尾を顕現させた。兄を見つめる源吾郎は、妙に晴れ晴れした気分だった。そしてなすべき事が何であるのか解ってもいた。


「明日から連休も明けるし、けじめをつけないといけないなと思ってるんだ。それで、尻尾の毛を全部丸刈りにしようと思いついたから、兄様にも手伝ってほしいんだ」

「けじめをつけるのに丸刈りって、中々大した話になるねぇ」


 のんきそうに言ってのけた庄三郎だが、言葉の端々からは驚きの色が滲んでいる。先程までとは異なり、源吾郎の顔にむしろ笑みが拡がっていた。


「不祥事とかスキャンダルに見舞われたアイドルだって丸刈りにしていたし。それと同じさ。まぁ、紅藤様には恥ずかしいからちょっと早めのサマーカットって事にするけれど」


 庄三郎が当惑した表情を浮かべていたのも数秒だけの事だった。何だかんだ言っても聡明で冷静な彼は、自分が刈り込むからバリカンは何処にあるのかと、源吾郎に尋ねたのだった。

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