あなぐらへの来訪者たち
萩尾丸の手により家に戻された源吾郎は、適当に敷いた布団の上にうずくまっていた。あのぱらいそでの騒動に巻き込まれた事が深い痛手となっていた。肉体的な損耗はほとんどない。むしろ精神的な損耗の方が大きかった。
妖怪は精神を鍛えるのが大事。就職してすぐに、師範たる紅藤が言っていたのを源吾郎は思い出した。精神を重んじるという紅藤の言葉には、実は複数の意味があった。
もちろん、強者はその精神でおのれの力を御するべき、という意味もある。だが今の源吾郎が考えていたのは別の意味の方だった。
妖怪の生き死には、精神の状態により決まる。信じがたい話だが、それは大妖怪ですら当てはまる真実なのだとあの時の紅藤は言っていた。精神が一定以上に損耗し、弱り切ると大妖怪でも死ぬ事があるそうだ。或いは、永い年月を生きて満足した場合も。眉唾物だと一笑に付したかったが、死なぬ身である紅藤の、深刻そうな表情で語った時の姿を見ると、大人しく頷くほかなかった。
そんな事をぐじぐじと考えているのは、源吾郎自身がおのれの心が明らかに弱っている事を感じ取っているためだ。妖力が目減りしているのかどうかさえ解らない。あの夜から何も食べていないが、空腹すら感じない。とにかく何もかもがどうでも良かった。そういう心情になっているのは、ひとまずささくれた精神を休ませて元に戻すための機構なのだろう。そう思いながら源吾郎は布団の上にうずくまっていた。日頃は輝くような銀白色の尻尾も、どことなくくすんだ色調に見えた。
寝ているのか寝ていないのかよく解らない状況のまま、五月六日は過ぎていった。ぱらいそでの騒動があったのが五月五日の事であるから、源吾郎は貴重な連休の一日を、日がな一日寝て過ごしていた事になる。
さすがに一日文字通り何もせずうずくまっていただけあって、源吾郎の気分はいくらか先日よりもマシになっていた。目を覚ました時に、勝手に日付が変わっている事に対して驚くだけの気概が戻って来ていたのだから。
五月七日になっていたという事実を源吾郎はしっかと受け止めた。明日は月曜日だ。連休も終わっているし普通に出社しなければならない。未来の事を思うと少し面倒になったが、寝てばかりいるのも健全ではない。
源吾郎はおっさんみたいな声で唸ると、ゆっくりと身体を伸ばした。
※
源吾郎が寝起きする安アパートの一室には、朝から来訪者が押し掛けてきた。一人暮らししてからというもの、親族以外に誰かがやって来る事など皆無だったから、中々に珍しい事でもあった。
ちなみに、源吾郎の許に遊びに来た面々は二組である。一組目は珠彦と鈴花のコンビである。彼らは反社会集団のゴモランのスパイとして大活躍した源吾郎の功績を讃えるためだけに、わざわざ神戸の実家からこの田舎にやって来たのだ。
珠彦らが源吾郎の連休中の活躍を知っているのは、萩尾丸の発信したネットニュースの記事に取り上げられていたからなのだという。くだんの記事の内容は把握していないが、珠彦は素直に源吾郎を高度なミッションをこなした英雄だと信じているらしかった。
純粋で無邪気な友のために、源吾郎は英雄である事を演じるべきだったのかもしれない。しかし源吾郎は未だ本調子とは言えず、倦み疲れた様子で珠彦の問いかけに応じるのがやっとだった。
それでも珠彦らは長々と滞在する事なく帰ってくれた。それもこれも妹分である鈴花のお陰である。彼女は島崎君も疲れ切っているみたいだし、と気の利いた事を言い、長居せず早々に帰るようにと促してくれたのだ。
妖狐たちが帰ったのちにやって来たのはアレイだった。ドアを開けた時、彼は体格の良い、壮年の人間の男の姿を取っていた。源吾郎はアレイが人型になる姿を見たのは初めてだったが、すぐに納得した。何百年も生きているのだから、変化する事など容易いであろうと。と言っても、アレイは部屋に入るとすぐに本来の姿に戻ったけれど。
「飛鳥お嬢は、君も知っている通りもう妙齢の娘だからな。目付け役と言えど、わたしが人型を取っていれば気を遣うみたいなんだよ。わたしもどちらかと言えば人型よりもこちらの姿の方が落ち着くし……まぁウィンウィンの関係という奴だな」
黒々としたつぶらな瞳を向けながら、アレイは源吾郎が用意した水を飲んでいた。源吾郎はナッツだとか果物だとかオウムが喜びそうなものを用意しようと思ったのだが、他ならぬアレイからそこまでは大丈夫だと言われていたのだ。
「……お嬢の事は心配せずとも大丈夫だ。彼女には十五分で用事を済ませて戻ると伝えてあるし、あの社員寮自体に、不審者除けの結界がかけられている。お嬢は最後の休日を満喫するために動画観賞に勤しんでいたから、わたしが少し離れていても、まぁ問題は無かろう」
「あぁ……はい」
いや鳥園寺さんってアレイさんに護ってもらわなくても割と大丈夫なのでは? そのような考えが唐突に浮かんだが、むろんそれは口には出さなかった。苅藻やいちか、或いは源吾郎の長兄が源吾郎を気にかけるように、アレイが彼女を「幼く可愛い女の子」と見做し、庇護せねばならないと意気込んでいる事を察していたためである。
用件を尋ねると、アレイは冠羽を上下させ、鳥特有の首の角度で源吾郎を見つめている。
「お嬢に代わって君に挨拶をしに来ただけなんだ。先日、お嬢はわたしのツレという事でぱらいその摘発に乗り込んだわけだが、それ以降島崎どのの事を意識し始めているんだ」
源吾郎が微妙な表情で見つめ返していると、アレイは冠羽をさっと拡げ、頭を前後にふりふり笑った。
「妙な顔をしなくとも良いだろう。意識し始めていると言っても、別に恋愛感情やそういう意味ではないな。あくまでもお嬢にしてみれば、君は弟みたいな存在だと思っていただけのようだからな」
鳥園寺さんは男性として源吾郎を意識している訳ではない。当たり前の事柄であるはずなのに、アレイに指摘されて安堵している自分がいる事に源吾郎は気付いていた。
当たり前の話だ。源吾郎は人間に近い見た目と考え方と言えども、今や妖怪に近しい存在なのだ。人間の女性、それも術者の当主候補になる人物が、妖怪の若者に恋心を抱くなんて通常では起こりえない話なのだし。
「君が取り立てて何かをした訳ではないが、島崎どの、お嬢は君の姿を見て術者としての闘志が芽生え始めたのだよ。おめでとう島崎どの。お嬢の中では、君は弟分からライバルに昇格したのだよ。
君が大妖怪の末裔である事は飛鳥お嬢も心得てはいる。しかしお嬢は君が叔父の密命を全うし、尚且つ萩尾丸どのがからくりを暴露するまで皆をだまし切るだけの演技力と胆力があると信じている……由緒ある鳥園寺家の当主候補だから自分も、と思い始めてくれたみたいなんだ。少し向こう見ずな所があるから心配な所はあるにはあるが、ひとまず礼を述べなければならないな。ありがとう」
可愛らしく頭を下げるアレイに対し、源吾郎は複雑な笑みで応じるだけだった。アレイもまた、萩尾丸の語った「真実」が嘘である事を見抜いていると、言葉の節々から感じ取っていた。
「そしてすまなかったな、島崎どの」
「どうして謝るのです、アレイさん」
頭を上げたアレイは、何故か申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
「この度のあの騒動に君が巻き込まれたきっかけも、或いはわたしの発言がきっかけだったのかと思ってな。あの会合の事を覚えているかい? わたしはあの時、君が色々と心得たうえで『君は十分に強い』と告げた。しかし、島崎どのはわたしとは別の捉え方をしたのだろう」
「別に、僕は僕で動いただけですから、何も問題は……」
年長の妖怪が申し訳なさそうにしているのを見ていた源吾郎だったが、ふとある事に気付き、アレイに問いかける。
「アレイさん。あなたも本当は苅藻叔父様の密命は無かったという事は既にお気付きなんですよね」
「イエスかノーかでいえば、イエスだね」
「その事って、鳥園寺さんには……」
「言わないし、言うつもりもないよ」
源吾郎の言葉を遮り、アレイはきっぱりと告げた。
「安心したまえ、お嬢は君が叔父の密命により動いたと信じている。信じているからこそ彼女の術者としてのモチベーションもアップしたんだ。真実を語ったところで、お嬢は君に失望するし、君の面目も潰れる。伏せておいた方が、互いにとってよかろう」
※
昼下がり。簡単な昼食を摂ったのち気晴らしに部屋の片づけをしていると、源吾郎のスマホが震えだした。末の兄・庄三郎からの電話だった。
「もしもし、俺だけど」
『久しぶりだね、源吾郎』
電話越しでもよく通る美声が、源吾郎の鼓膜を震わせる。兄はそのまま言葉を続けた。
『今から部屋に行こうと思っているんだけど、構わないかな?』
「部屋は取っ散らかってるけれど?」
『別に構わないよ。製作中のアトリエもそんな感じだし』
「ああ、だけど兄様が来るまでに見苦しくないようにしておくよ。今何処にいるの?」
『何処って、アパートの入り口だけど?』
源吾郎はスマホを顔の側面にあてたまま、ベランダに向かった。入り口に面したベランダから身を乗り出すと、確かに一人の若い男が、アオサギのように佇立しているのが視界に飛び込んできた。
源吾郎と同じくスマホを持っている庄三郎は、弟の視線に気づくと淡く微笑んだ。
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