鍛錬は師範の手許で続けたり
全体ミーティングはそのまま八頭怪への注意喚起だけで終了した。源吾郎はしかし、自分が八頭怪に出くわしたであろう事を言えないまま、ただただオロオロするだけだった。
本来ならば、師範と先輩たちのために情報を開示すべき、開示せねばならぬ事は源吾郎もきちんと解っていた。しかし八頭怪に出会った後のおのれの醜態を思うと、大人しく口を閉ざす事しかできなかったのだ。
つまるところ、源吾郎はおのれの愚行と背信が、師範たる紅藤に悟られるのを恐れていた。
「それじゃあ、特に何もなさそうだからミーティングもお開きにしましょ」
源吾郎が思案に暮れて目を伏せている間に、紅藤は皆にミーティングを終了する旨を伝えた。源吾郎がこれに喜び、尚且つ安堵したのは言うまでもない。王鳳来の話のせいで不穏な流れになったミーティングであったが、終わってしまえばどうという事もない。
先輩の青松丸やサカイさんはもう既に立ち上がり、紅藤に一礼したのち持ち場に戻ろうとしていた。定まった持ち場を未だ持たぬ源吾郎であったが、ひとまず青松丸にくっついていこうと思っていた。
源吾郎の教育係は、現在青松丸が請け負っている。諸般の事情で紅藤から手ほどきを受ける事も珍しくはない。しかしそうでない時には青松丸から雑用やちょっとした業務を教えて貰う事が常だった。
青松丸は他の先輩たちに較べて大人しく癖のない
「待ちたまえ島崎君」
腰を浮かそうとしたその直後、萩尾丸から声をかけられた。見れば彼はまだじっと座っている。しっかりと椅子に腰を下ろし、立ち上がる素振りは皆無だった。
源吾郎は萩尾丸を見つめてから軽く首をかしげた。見れば紅藤も立ち上がる素振りは無い。萩尾丸に不思議そうな視線を送っていたが。
「島崎君の、これからの研修の話について僕から連絡したい事があるんだ」
そう言うと、萩尾丸はちらと紅藤に視線を移した。
「長話ではございませんので、紅藤様も付き合って頂けますか」
「もちろん、私は構わないわ」
突然の申し出ながらも、紅藤はこだわる事無く快諾している。萩尾丸も一番弟子・第六幹部として研究センター内での発言権は紅藤に次いで大きい。とはいえ、内容が内容だけに紅藤に同席してもらい、許可を取って欲しいと思ったのだろう。
「これからの研修の話、ですよね」
「その通り」
源吾郎の呟きに、萩尾丸は頷いた。源吾郎は紅藤の許に弟子入りしている訳であるが、実は半年ばかり研修カリキュラムが組まれているのだ。カリキュラムによれば、四月から五月下旬までは研究センターで働く事になっていたが、それ以降は異なった部署で一、二か月間働く事となっていた。研修先は併設する工場や本部の事務所がメインらしいが、萩尾丸を筆頭とした幹部たちが抱える組織での下働きもとい研修も組み込む可能性があると、連休前に聞かされていたところであった。
唐突に研修の事を切り出された源吾郎をよそに、萩尾丸は紅藤を見据えて話しかけていた。
「紅藤様。島崎君は五月下旬から一度この研究センターを離れて雉鶏精一派の部署内で研修する事になっておりますが、それを一旦取りやめて、引き続き紅藤様の監督下で修行と鍛錬を積ませる方が良いと思っているのです。
……取りやめとまではいかずとも、他部署への研修を数か月から数年先に引き延ばす、と言う内容だと考えて頂いても構いません」
萩尾丸はそこまで言うと、不意に源吾郎の方に視線を向けた。
「そういう訳で、しばらくの間は引き続き研究センターでの内勤になるけれど、構わないかな?」
「はい……僕は問題はありません」
問いかけに対し、源吾郎は素直に頷いた。萩尾丸の主張に納得したかどうかは別問題である。他ならぬ萩尾丸自身が、源吾郎がこの内容に納得するかどうかを度外視している事は肌で感じていた。ありていに言えば研修内容を変えるという萩尾丸の報告はある種の命令に過ぎず、源吾郎がそれを受け入れようが拒否しようが結果は変わらないという話だ。
「紅藤様はいかがお考えでしょうか?」
「別に私も、萩尾丸の考えに反対する理由はないわ」
紅藤は落ち着いた調子で頷いた。萩尾丸の意見を否定はしなかったが、どことなく受動的な肯定の仕方だった。
「私が萩尾丸の事を、特にマネジメントや
何故だか解らないが、よどみない口調で告げる紅藤を見て源吾郎は安堵していた。この唐突な打ち合わせも終わりが見えてきたからだという事に、数秒ほどしてから気が付いた。
ところが、紅藤は萩尾丸を見つめ、言葉を続けた。
「だけど、どうしてそういう考えに至ったかだけでも教えてほしいの。ほら、島崎君ってまだ若いし、この子の身内が用心深かったから他の妖怪たちとの交流も薄そうでしょ? 研修先ではもちろん仕事を覚えてもらうのは当然の事だけれど、同年代位の若い子たちと交流するのも大事だって思っていたから……」
「ええもちろん。温室育ちの島崎君には、是非とも若手妖怪や術者の面々とも顔なじみになって、彼らとのやり取りにも慣れるべきだと僕も思っていますよ」
ただね。紅藤の意見に同調していた萩尾丸は、きりの良い所でおのれの主張を差し出そうとしていた。
「島崎君は幼さが、いえ若さが何分抜けきっていないと僕も感じましてね……もちろん、ただそれだけの理由で外回りの研修を無しにするのは良くないでしょうが、ある程度しっかりするまでは紅藤様や青松丸さんに任せておいた方が良いだろうと思った次第です」
「そりゃあ、島崎君がまだ若いのは私だって知ってるわ。まだ十八になったばかりですもの。生粋の人間でも若い男の子と見做されてもおかしくない年齢だし、妖狐の血が混ざっているのならば尚更だわ」
――やっぱり俺、紅藤様や萩尾丸先輩からは仔狐扱いなんだな
あからさまに源吾郎は未熟者だと伝えるような師範と兄弟子を目の当たりにした源吾郎であったが、案外その心中には揺らぎはなかった。
そもそも源吾郎は、自分が未熟者だの幼いだのと見做される事には慣れっこであった。兄姉らが実年齢よりも若々しいのは彼らにも妖狐の血が流れているからであるが、その作用は実は源吾郎にも当てはまっていた。年かさの兄姉らの場合であれば若々しさでごまかせるが、現時点で若い源吾郎の場合は若いというよりもむしろ幼いと呼んでも遜色のない話になってしまうのだ。生年月日上源吾郎は十八の青年であるが、長命な妖怪の血の作用により、実質的な成長度合いで見れば十五から十七くらいの少年と同じくらいと言っても過言ではない。
もっとも、同年代の男子よりも若いという事実は、幸運な事に人間たちには気付かれなかった。源吾郎は早生まれの男であり、「ちょっと幼いのは誕生日が三月下旬だから」だと生徒も教師らも半ば納得していた。ついでに言えば父譲りの年齢の判然としない風貌や、兄姉の影響で耳年増になっていた事も要因の一つであろう。
父譲りの見た目、末っ子、三月生まれ……これらは源吾郎のコンプレックスであり野望をはぐくむための原動力であったが、子供だった頃は却ってこれらの要素が人間として暮らすための助けになっていたのである。
「――ひとまず、研修予定先には連絡を入れておくわね」
紅藤は一度ゆっくりと瞬きし、静かに告げた。彼女も王鳳来での対応で疲れているのか、若干けだるげな様子である。
とはいえ源吾郎は今一度安堵していた。今度こそ、この話が収束しお開きになるであろう先が見えたと思ったためである。
「おやおや紅藤様。至極あっさりと僕の申し出を承認なさるのですね」
ところが、このままだと収束に落ち着くであろう流れをかき乱したのは、発話者である萩尾丸その人だった。彼はわざとらしく目を見開き、紅藤を凝視して軽く眉を顰めたりしているではないか。
「承認も何も、萩尾丸の判断には私も信頼を置いているわ。確かにあなたは自分の組織運営もあるからこっちには長くは留まっていないでしょうけれど、それでもよく島崎君の事を観察してくれているし」
「紅藤様ほどのお方に僕のスペックの高さを認めていただくのは確かにありがたい事ではありますよ。ですが、いずれは僕以上に大切になる、虎の子秘蔵っ子たる島崎君の扱いについて、かくもあっさりと認めなさるとは……」
「別にもう、その話は良いじゃないですか、先輩」
くどくどと説明を重ねる萩尾丸の言葉を遮ったのは、源吾郎だった。おのれが無礼な行為を働いているのは解っている。しかし萩尾丸をそのまま喋らせていたら不穏な事になりそうだと思い、ついつい口をはさんだのだ。
叱責を予想していた源吾郎だったが、驚いたのか萩尾丸も紅藤すらも何もとがめだてはしなかった。むしろ二人とも申し合わせたように黙り込み、源吾郎の言葉を待っているようにさえ感じられた。
「僕は別に、お二方の意向が定まるのであれば、内勤だろうと工場勤務だろうとかまいませんよ。
――そもそも、研修のカリキュラムの決定権は、あくまでも紅藤様や萩尾丸先輩の手の中にあって、僕には発言権すらないんでしょうから」
慇懃な言葉遣いながらも強い語気でもって源吾郎はおのれの考えを口にした。非礼に過ぎると気付いたのは紅藤が呆気に取られたような表情を浮かべたからだ。
しかし、炎上トークを御自ら操る萩尾丸は別だった。彼は驚いてなどいない。むしろ源吾郎の言葉を聞き、ねちっこい笑みを浮かべただけだった。
「島崎君ってば、ミーティングの時はしんどそうな感じだったのに、今ではもうすっかり元気いっぱいになってるみたいだねぇ。やっぱり若い子は元気だねぇ。僕はてっきり、連休中の大活躍が後を引いているみたいだから、今日明日くらいは大人しいかなって思ったんだけど」
萩尾丸の笑みが、主導権を握った会心の笑みに見えてならなかった。顔面の血が引いてくのを感じながら、源吾郎は萩尾丸の術中にはまった事を悟った。承認云々の話は、何も紅藤へのお伺いではなく、話を長引かせる事で源吾郎の発言を促す事が真の目的だったらしい。そのような事に気付いても手遅れであるが。
「連休中の大活躍ですって」
紅藤はつぶらな瞳を動かしながら感嘆したように呟く。疑問を屈託なく口にし問いかけようとするさまは愛らしい少女めいた仕草を伴っていたのだろう。しかし源吾郎にはその事に気付く余裕など一ミクロンもなかった。
「紅藤様。連休中に港町にあるぱらいそが……ゴモランの連中が摘発された事はご存じですかね」
「丁度その時は私も忙しくて摘発されたって言う報せくらいしか知らないんだけど……確か萩尾丸とあなたの部下たちも摘発に動いたんだったかしら」
萩尾丸はすっと席を立つと、不気味な笑みを浮かべたまま源吾郎の斜め左に歩み寄り、そのまま源吾郎の肩を軽く叩いた。
「実はですね紅藤様。ぱらいその摘発時に、この島崎君も暗躍していたのですよ」
実は源吾郎は、ぱらいその内容に萩尾丸が言及した時から、彼が何を言い出すのか半ば予想がついていた。しかし止める事はできない。源吾郎は演劇の才はある。しかしアドリブを習得している訳でもない。
「僕らもよく知っている桐谷苅藻君の命令を受けて、ぱらいそに入店したおのぼりさんを装って店の内情を調べ、摘発に踏み込んだ自警団や術者たちにガサ入れのタイミングを通達するという、非常に立派な任務を彼は果たしていたのです」
まぁ、すごいわね……紅藤の無邪気な声が源吾郎の鼓膜と心臓付近をチクチクと突き刺した。萩尾丸のそれと違って紅藤は完全に源吾郎を称賛している。だがそれこそが源吾郎の心を苦しめているのだ。
「知らない間に、島崎君も大仕事をしていたのね。だけど気になるわね。普段の島崎君だったら、そういう大手柄を打ち立てたのならば、いの一番に私たちに自慢するんじゃあないかしら? しかも今日は、王鳳来様や親族の雪九郎様までお見えになっていた訳ですし」
「苅藻君から詳細は口外しないようにと厳命されているのですよ、彼は」
紅藤の疑問に対して、萩尾丸はさも当然のように理由をでっち上げ、ごく自然な流れだと言わんばかりに解説した。嘘であると知っている源吾郎でさえ納得しかけるほどのナチュラルさである。
しかも余計な疑問を差し挟む暇を師範に与える事なく、萩尾丸は言葉を続けたのだ。
「ともあれ大役を果たした島崎君なんですがね。悲しいかな、彼の仕事をやっかんだり、変に疑る輩が出てくるんですよ。中には『彼はスパイ活動をしたわけではなくて、ただ単にぱらいそのスタッフのヨイショと美少女の色仕掛けと言う接待コンボに目がくらんだだけの間抜けではないか』ですとか、『そもそもスパイ説はでっち上げられているのではないか』などと言う噂を口にする面々すらいるんですね。
そういう流言がわずかとはいえ飛び交っている中、野良妖怪に近いような面々の中に放り込んで仕事をさせるというのは僕個人としても少し不安なのですね。
確かに、妖怪たちの中で発生した流言が七十五日ではなくならないでしょう。ですが、研究センターで二、三年ばかり真面目に働かせていれば、少しはマシなのではないかと思った次第なのです」
「……そういう事だったのね」
そういってから紅藤は思案顔になり、それからさらに数秒経ってから萩尾丸の申し出を正式に承認した。
源吾郎にとっては、非常に長い数秒間だった。
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