第51話 声

 天を覆う木の葉は、以前よりいっそう色を深め、影を縁取る日差しが、新たな季節の訪れをきざしていた。


 森の中、黙々と歩くアトイの背を追いながら、ロトルの頭の中では、一つの光景が繰り返し映写されていた。


 金の髪と、冷たい翡翠の瞳。


( あの人は誰だったんだろう? )


 サーニャの触手に貫かれそうになった自分を、助けてくれたあの人。



 ——お前はまだ、死んではならぬ。



 あの人は確かにそう言った。


( 私のこと、何か知ってるのかな…… )


 尋ねようとしても、あの人はあっという間に姿を消してしまった。



 なぜ助けてくれたのだろう?

 なぜあんなことを言ったのだろう?



 ワッカにいるときには薄らいでいた、『己は何者なのか』という問いが、再びはっきりと浮き上がり、頭の中を占めていた。


 あの言葉が無ければ、きっと、こんなにも気になることはなかっただろう。


 もやもやと、胸の中を渦巻く、よくわからない不快感に、ロトルは唇を強く結んだ。


 地面を眺めながら、答えのない問いにぐるぐると頭を悩ませていると、突然、何かにぶつかり、鼻がつぶれた。


 つーんとする痛みに耐え、涙目で前を見ると、アトイの背があった。


「……アトイ?」


 アトイはぴたりと立ち止まり動かない。

 隣まで歩き、ロトルはアトイを見上げ、尋ねた。


「どうしたの?」


 アトイは口元に人差し指をたてると、「しっ」と短く息を吐いた。

 しばらく黙り込むと、アトイは静かにつぶやいた。


「人の声がする」

「人の声?」

「ああ、聞こえないか?」


 ロトルは目を閉じると、五感のすべてを耳に集約させた。


「……本当だ、男の人の声が聞こえるね」


 アトイは驚いたように目を見開いた。


「声色までわかるのか?」

「うん、あ、ちょっと待って……なんか言ってる……」


 ロトルがそう言うと、アトイは黙り込んだ。


「……たす?……あ!」


 ロトルはアトイを振り仰いだ。


「『助けてくれ』って言ってる」

「助けてくれ?」


 アトイが不審そうに尋ねると、ロトルは頷いた。


「うん、すごい必死な声」

「そうか……」


 アトイはそうつぶやくと、思案した。


( 別の道を回っていくか…… )


 次の目的地であるトロイは、まだずっと先にある。


 未知の土地であるトロイに行く前に、何度か訪れたことのあるヤクを経由したかった。

 ヤクもワッカほどではないが、そこそこ大きな宿場街で、そこで一度体を休め、旅に必要な食料を調達したかったのだ。


 しかし、今ならば、道を変え、ザンガを経由して、トロイに行くことができる。

 ザンガは小さな街だが、食料くらいならば調達することができるだろう。


 アトイが今後の行程を考えていると、パッとロトルが走り出し、目の前から消えた。


「おい!どこ行く!」


 アトイが叫ぶと、ロトルは振り返り、指をさした。


「声、こっちから聞こえる。助けに行かなきゃ」


 淡々とそう言うと、再び駆け出した。


「おい!」


 アトイが止めても、ロトルはガサガサと藪の中に入り、そのまま駆けていってしまった。


 アトイは深くため息をついた。


( 相変わらず、冷静なのか、脊髄でものを考えるのか、わからない奴だな…… )


 困っているふりをして、親切にも助けに来た者から金銭を奪っていく、卑劣な盗賊も少なくない数いる。

 だからこそ、アトイは、わざわざ迂回していこうと、思案していたのだ。


「くそっ」


 短く舌打ちをすると、アトイは腰から小刀を抜き、手に構えた。

 ふぅと息を吐き、気分を落ち着かせ、首に引っ掛けた方位磁針をちらりと見ると、そのまま勢いよく地を蹴った。


( 西、1、2、3、4、5…… )


 方角と歩数を頭の中で数えながら、アトイは見えなくなってしまったロトルの後を追い、藪の中を掻き分けていった。

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