第15話 白い剣士

 アトイはリコリの実をかじりながら、薄白い霧の中を歩いていた。


 天上に昇ったぼやけた太陽が、霧に覆われた鼠色の空を画布にして、乳白色の線を描いている。


 街から離れ、山のふもとにあるこの集落は、よく霧が出て視界が悪くなるとあらかじめネロから聞いていた。

 

 アトイは足を止めると、湿った草の上に腰を下ろし、霧が薄くなるのを待った。

 ごうごうと、冷たい風が厳かな山脈を吹き抜ける音が響く。


 霧の中を歩いたせいで、顔に鬱陶うっとうしく濡れた髪が張り付いていた。

 しっとりと濡れたその髪の束をつまんではがすと、膝の間に頭をうずめ、記憶にとどめた光景を闇の中に映した。


 ネロの考えは正鵠せいこくを射ていた。


 少女が消えたという三軒の家屋、そのすべてにウェンの薄気味悪い『におい』がじっとりと沁みついていた。


 むごたらしく荒れた家を後にして、その『におい』を追おうとするも、それは薄暗い林の中で突然、ぶつりと途絶えてしまうのだ。


 まるでひっそりと目立たない場所で自分の『におい』を消しているかのようだった。


 それでも少しでも残香が残っていないかと、今までひたすら歩き続けていた。

 

 服に染みついた汗と埃、そして血の臭いがむっと鼻につく。

 出口のない迷路の中にいるようで、アトイは暗闇の中で眉根まゆねを寄せた。


 自分が追っているものは明らかに今までのウェンとは異なる。

 このウェンは知能があり、そして明確な意図をもって人を襲っている。

 なによりも厄介なのは『におい』が見つからないことだ。

 

 知能もなければ意図もない。ただ影のようにぼうっと現れては己のために人を喰う。

 それがウェンだ。


 しかし、今回はどうだ。

 このウェンは『におい』を消し、少女のみを攫い、捕まらないよう転々と場所を変えてはひっそりと息をひそめる。

 

 ここ数日間、浅い眠りをとりながら、結構な距離のある三軒の間を行き来していたが、ウェンの『におい』を追うことはできず、ウェンが再び現れることもなかった。


 アトイは深くため息をついた。


( それでも…… )


 それでも、ひたすら歩いて探し回るしか術はない。

 

 肺胞いっぱいに空気を吸い込むと、一瞬息を止め、吸い込んだ空気を大きく吐き出した。

 体中に酸素がいきわたり、鉛のように重かった体が少しだけ軽くなる。


( さすがに浅い睡眠を繰り返したせいか、体にも限界が来ている…… )


 長期戦を覚悟して、いざというときのために、せめて睡眠だけは宿でとることにした方がよいだろう。


 アトイは頭をうずめたまま、ゆっくりと瞼をとじた。

 そして、うつらうつらと再び浅い眠りの世界に入り込んだ。






 アトイが眠りについたころ、ロトルは一人で商店街を歩いていた。


 今日はリリィのところに衣を受け取りに行くのだ。

 昨夜、サーニャに衣が完成したという連絡がいったそうだ。


 少し歩くと目が覚めるような青瓦が建物の隙間から見えてきた。

 どうやら道を間違えず、無事に着くことができそうだ。


 店の扉を開くと、リリィが子犬のように駆け寄ってきた。


「ロトルさん!」


 ロトルは小さく笑みを浮かべると、


「衣を取りに来たよ」


 と短く言った。


 リリィは右手で店の奥をさして、ロトルを店の奥へと促した。


「最後にまた調整したいので、奥まで来てもらえますか?」


 ロトルは了承して頷くと、リリィと一緒にあの暖簾のれんのある部屋まで向かった。

 

 外套をばさりと脱ぐと、腕を差し出しているリリィに脱いだ外套を預けた。

 

「それじゃあまた椅子の前に立っていただいてもいいですか?」

 

 外套を衣文掛けに掛けながらリリィがそういうと、ロトルは言われた通り丸椅子の前へと移動した。


「あら、お客さん来ていらしたんですね」


 相変わらず恰幅かっぷくのいい店主が暖簾からひょっこり顔をのぞかせた。

 —— しかし、その左腕は木の板で挟まれ固定されており、白い布でその腕を首からつっていた。


 ロトルが不思議そうにその腕を凝視していると、店主がつるされた腕を軽く持ち上げた。


「実は転んだ拍子に腕をついて左腕を折ってしまいまして……言い訳になってしまいますが、お客さんの衣の完成が遅くなってしまったのもこのせいなんです。すみません」


 ロトルは気にしないでいいと言うように頭を横に振り、痛まないか尋ねると、店主は顔を少しほころばせて頷いた。


「ええ、街の医術師に<ユグレ>で骨はつなげてもらいましたし、折ったばかりの頃より痛みもだいぶひいてきています。あとは完全につながるまで安静にしているだけです。ただ……しばらく店を閉めることになったのが商売人として痛いですね」


 そう言って苦笑すると、怪我をしていない右手で扉のある方を差した。


「扉に札がつるされていましたよね?すみません、札がかかっていても入ってきて大丈夫ですとお客さんにすっかり伝えそびれていたので……宿にお戻りになられなくてよかった」


 そういえば、とロトルは思い返した。

 よく見ずに入ってしまったが扉に札がつるされていたような気がする。あの札に休業中と書いてあったのかもしれない。


「お客さんの衣も完成できるか怪しいところだったんですが……」


 そこで言葉を切ると、主人は優しく目を細めリリィを見つめた。


「実はそこにある衣たちはリリィが縫ってくれたんですよ」


 ロトルが見下ろすと、リリィは誇らしげな顔でロトルを振り仰いだ。


「もう娘も立派な職人の仲間入りです」


 店主はそう言って微笑んだ。

 リリィはパッと顔を明るく輝かせると、口の端が目尻にくっつくほど笑い、熱が見て感じられるほど頬を上気させた。


「さぁ、リリィ。最後の調製お願いね」


 店主はすっと仕事の顔に戻った。


「はい!」


 元気よく頷くリリィの返事に、店主は満足したように笑みを浮かべると、ぺこりとお辞儀をして暖簾の向こうへと引っ込んでいった。



 最後の調製を終え、衣を着なおし長靴をはくと、リリィから藤色の風呂敷を受け取った。中では完成した衣が綺麗にたたまれている。

 

「その靴……」

 

 リリィはロトルの足元を見ながらつぶやいた。

 

「その靴もどこかで買ってくださいね。靴も作ってあげられたら良いんですが……」

 

 受け取った風呂敷を抱きしめ、改めて自分の足元を見つめた。

 上からのぞくと、靴と足首の間にできた隙間がいっそう目立った。

 つま先は黒く汚れてすり減っている。


 ロトルは突然申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 —— こうやってリリィや店主が宝物を扱うように布に触れる姿を見ていると、主と離れ離れになってしまったこの靴が、不憫でならなかった。


「お客さん、サーニャの宿に泊まっていたんですね」


 ロトルを見送りに来た店主がつぶやいた。

 リリィは奥の部屋で後片付けをしている。


 何故突然そんな話をしだしたのかと、目をぱちぱちと瞬かせたが、店主はそのまま話をつづけた。

 

「お連れさんから宿の場所を聞いたときにまさかと思いましたが……サーニャと私は古くからの知り合いなんです」

 

 店主は少しだけ目を伏せた。

 

「ずいぶんと疎遠になっていましたが……お客さんが泊まってらっしゃったおかげで久しぶりにサーニャとゆっくり話すことが出来ました」

 

 そう言うと、店主は深々とお辞儀した。


「こんなことお客さんに言うのもおかしいですが……サーニャと再び縁を結んでくださり、ありがとうございました」


 頭を下げる店主にロトルはワタワタと慌てふためくと、恐る恐る店主の肩に触れた。


 ゆっくりと顔を上げた店主は物悲しげに微笑んでいて、目尻には細かな皺がいくつも刻まれていた。

 ——溌剌はつらつとした女性だが、もしかすると、その身にはいくつもの苦労を抱えているのかもしれない。


「ロトルさん!」


 片づけを追えたのかパタパタとリリィが走ってきた。


「ほら、リリィ。お客さんの前ではしたないよ」


 店主が叱るとリリィは小さく首をすくめた。

 店主の顔はもうすっかり、いつもの溌剌とした顔に戻っていた。


「ロトルさん。お店閉まってしまいましたが、またいつでもいらしてくださいね!」


 リリィが笑ってそういうと、店主は困ったように眉を下げた。


「もうリリィ……すみません、すっかりなついてしまったみたいで。あなたはこの子の初めてのお客さんですし……」


 店主はぽんとリリィの頭に手をのせた。


「それに、あなたが物語に住んでる人かもしれないって、この子ずっとそう言うんです」


「お母さん!ちょっと!」


 羞恥に頬を赤くして、リリィは店主の前掛けを強く引っ張った。


「物語?」


 ロトルが首をかしげると、店主は自分の背の後ろに隠れてしまった娘の頭を、宥めるように優しく撫で、苦笑してうなずいた。

 

「ええ……リリィが言うには、その話にあなたのような白い髪の剣士様が登場するらしいんです」


「剣士……」

 

 そうつぶやくと、ロトルはギュッと腰に差した刀の柄を右手で握った。

 

「私は聞いたことのない物語なんですが……いったいどこで聞いたのやら」


「ちゃんと私、聞いたよ!」

 

 リリィはひょっこり顔を出し、頬を膨らませて母を見上げた。頭には少し荒れた母の手が置かれたままだ。

 

「私、ちゃんとお話し覚えてるもん!」


「はいはい……」


 店主は苦笑して、リリィの膨らんだ頬を、人差し指で押すと、小さな乾いた破裂音と共に、リリィのもっちりとした頬が凹んだ。


 幼いわりにしっかりとしていて、大人びて見えたリリィだったが、母親といるとずいぶんと子供らしい、甘えた表情を見せる。


「そういうわけなので、お店はやっていませんが、リリィのためにも気兼ねなく遊びに来てくださいね」

 


 店主はにっこりと、母の顔をした。

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