第14話 刺繍

 窓から差し込む光がいつの間にか、黄昏たそがれせた色に変わり、窓のふちの影を斜めに伸ばしていた。

 

 サーニャはパッパと水滴を払うと、前掛けで濡れた手を軽くぬぐった。

 冷たい水にさらされた手は、じんとした痒みをともなって、少しだけ赤くなっていた。


「あら、お帰りなさい」


 夕餉ゆうげの下ごしらえを終えたので、帳簿をつけようと帳場へ戻ってくると、いつの間にか客の片割れが帰ってきていた。

 帳場の左奥にある窓際の机の傍で、木陰のように立っている。

 

 相変わらず顔は見えないが、しばらく前にその装いが変わった。

 

 以前は土で薄汚れた、よれよれの外套を羽織っていたが、いつのまにか金の刺繍が入った真新しい黒い外套を身に着けていた。


( かなりボロボロだったものね…… )


 客のことはいつも気にかけているつもりだが、最近泊り始めた客たちは妙に気になっていた。二人ともかたくなに顔を隠し、決して見せようとしないからだ。

 

 いったいどうしたらそんなことが出来るのかわからなかったが、一度も二人の顔を見たことがなかった。チラリとも見えたことがない。


 もちろんその怪しさが気になっているふしではあったが、その最もな起因は別にあった。

 

 二人とも妙に足音が静かなのだ。

 

 部屋に案内している時もそうだったが、たとえサーニャが帳場で帳簿をつけていたとしても、扉が開く音で、ようやく客が出かけたことに気が付くほどだ。

 

 その風がそよぐような足音が、妙に懐かしくてしょうがなかった。




 ——もうずいぶんと昔のことだが、未だにあの幸せな日々は色あせてはいない。 




 サーニャは思い出に浸り、微笑みながら、帳簿をとりに行こうと暖簾のれんをくぐった。


 もう春を迎えて初めているが、日が陰ってくると、再び冬の寒さがよみがえる。

 氷のように冷たい指先をさすりながら、ブルリと身震いした。

 

 引き出しをひくと、帳簿を手に取った。

 

 小豆色の革の表紙をそっと撫でると、弾力のあるつるつるとした感触が心地よく、麻痺まひした指先の感覚が、湯につかった時のようにじわりと戻ってきた。

 

 帳簿を手にしたまま暖簾をくぐると、客は相変わらず机の傍にたたずんでいた。


「どうかいたしましたか?」


 サーニャが声をかけても、客はぴくりともしなかった。


 聞こえていないのかしらと思い、サーニャは客の方へと向かった。

 いつもであれば、サーニャが声をかければ、顔は見せてはくれないが、なんだかんだ反応はしてくれるのだ。

 

 傍に寄ってみると、客はジッと机にあるものを見つめているようだった。


( 何を見ているのかしら? )


 覗き込み、その視線の先にあるものを見ると、サーニャは思わずハッと息をのんだ。



 机の上には作りかけの刺繍が置かれていた。サーニャが趣味で刺しているものだ。



 急に色の大群が川のように押し寄せ、体を通り抜けていった。


( そうだ……はじまりはこうだった )

 

 抽象画のように、ぼんやりと色が散らばっていた絵が、明晰めいせきな線と鮮明な色を持ち始め、サーニャは呆然とその絵の前に立ち尽くした。


( あの時、あの人もこうやって私の刺繍を見ていた…… )

 

 柔らかそうな麦藁むぎわら色の猫っ毛が、淡い蜜色の光の粒をはじいていた。

 

 じっと静かに私の刺繍を見下ろし、その顔には微笑みを浮かべている。

 

 大切に大切に心の奥底に鍵をつけてしまっていたものがあふれ出て、夢心地にサーニャは思わず手を伸ばした。

 

 その肩に手が触れそうになったとき、頭巾の中で赤い瞳が燃え上がった。

 

 さぁっと色が引いていき、現実へと引き戻される。

  

 サーニャはぱっと手を引き、その手でギュッと胸を押さえた。


( そうよね……ここにいるはずが無いもの…… )

 

 客は不思議そうに首を傾けている。

 

 サーニャは眉をさげ、ふっと穏やかに微笑んだ。


 「……刺繍……大した腕ではありませんが、ご覧になりますか?」

 

 不思議とあの時と同じ言葉をかけていた。




 糸が絡まないようにキュッと糸を引っ張り、丁寧に布に針を刺していく。

 しゅるしゅると、糸が布をこする音が、森閑しんかんな室内に響いた。

 

 花びらを1つ作り終えると、サーニャは布を軽くなでた。

 

 様々な縫い方で作った細かな模様一つ一つが、手の甲を優しくなぞり、心地よかった。この触り心地は、刺繍でしか出すことはできない。

 

 こんな様子を見て楽しいのだろうかと、向かいに座る人物をチラリと盗み見た。

 

 サーニャの心配をよそに、客はサーニャの一針一針の動きを、息をするのも忘れたように熱心に見つめている。

 

 先程から感じていた、どことなく甘い香りはこの客から漂ってくるようだった。

 

 露店でなにか買ったのかしら、とサーニャは首を傾げた。

 

 ようやく見ることが出来た客の容姿は、見れば見るほど不思議だった。

 

 紅の大きな瞳は、どんどんと形作られるあおい花の行く末を見守り、頭巾の隙間からは白髪が垂れていた。

 

 その姿は、昔聞いたおとぎ話に出てきた人と同じ姿だった。ずいぶんと昔に聞いたものだ。


( 本当にこういった容姿をもつ人がいたのね…… )

 

 心ノ臓は短い間隔で波打っていたが、不思議と頭の中は山奥の泉のような静けさがたたずんでいた。

 


 もう一つの愛しい記憶がつられてよみがえってきた。

 


 ぽつぽつと低くかすれた声が、耳の奥で響く。優しい声だ。

 彼は私の刺繍を見て微笑みながら、そのおとぎ話を語ってくれた。


( 今日はどうしてこんなにあの人のことを思い出すのかしら…… )


 そう思い、サーニャは穏やかに微笑んだ。


 時が静かにゆっくりと過ぎていく。


「お名前……」


 サーニャが口を開くと、客が顔を上げた。


「お名前をお聞きしてもよろしいですか?」


 視線は手元に向けたまま、サーニャはつぶやいた。


「お連れの方は名簿にお名前を書いていただいたのですが……」


 そこで言葉をきり、サーニャは客を見た。


 彼女は目を瞬かせると、小さな笑みを唇にのせて、


「ロトル」


 とつぶやいた。


( <ロトル>……この人をそのまま表したような名前だわ )

 

 サーニャは微笑みを浮かべた。


「……良いお名前ですね」


 お世辞でもなんでもなく、心の底からあふれ出た言葉だった。


 そして、ロトルの顔を見た時、サーニャは思わず手を止めた。


 ——まるで花が開くように、彼女は屈託のない笑みを顔いっぱいに広げていた。

 

 いきなり、言いようのない物哀しさが胸にこみあげてきた。


 この人はまるで、山の馬の背に降り積もった雪のようだ。

 思わず息をひそめてしまうような静けさと、雪解けとともに顔をのぞかせる花畑のような明朗めいろうさをいっぺんに持っている。


 いつも自分の中の、どうしようもない寂しさを埋めるかのように、何度も何度も針を刺し、ひたすら精緻せいちな模様を縫ってきた。——静かな時を、ただぼんやりと過ごすには、サーニャはあまりにも孤独すぎた。

 

 自分の刺繍に感銘を受けて、正式に刺繍作家として働かないかと提案してくれる人もいた。

 

 しかし、己の奥底にある寂しさをこねて、それを糸にのせて出来上がった作品を世にだすことは、ひどく恐ろしかった。

 いつか誰かが、作品に込められた虚しさに気が付いてしまうのではないかと。

 

 だからその話は断ってしまった。


( まさか、こんな風に穏やかな時をもう一度過ごせるなんて…… )



 胸にこみあげた物哀しさが溶けると、春の木漏れ日のような穏やかさが滲み出てきた。

 


 今の自分は孤独を埋めるためではなく、純粋に布に針をさすことを楽しんでいる。そう感じた。


 そう感じたことが何よりも嬉しかった。





 それからサーニャの刺繍机の向かいは、ロトルの専用席となった。


 サーニャが刺繍をしているところを見つけると、ロトルは子犬のように駆け寄って、定位置についた。


 刺繍をしながらぼつぼつと他愛ない話をすることもあったが、話していたのはほとんどサーニャだけだった。

 けれど、ロトルはなんでも面白そうに話を聞いてくれた。

 

 ただ、花の話題になったとき、ロトルが一つだけ尋ねたことがあった。


「サーニャは……青い花の名前を知らない?」

 

 ロトルと初めて会話をしてから、2,3日ほどしか過ぎていなかったが、この時にはすでに、自然とお互い名を呼び合うようになっていた。

 

「青い花?」


 聞き返すとロトルはこくりと頷いた。

 

「空の色みたいな……淡い青色の花」

 

「淡い青……」


 紫や濃紺の花はよく知っているが、空色の花は、多くの花屋が店を構えるワッカでも見たことがなかった。

 

「どこでその花を見たんですか?」


 記憶をたどるように、ロトルは目を上に向けた。


 「凄い広い原っぱで……一面にその青い花が咲いて……山、山が見えた気がする……」


 ( 山……それなら、交配で人工的に作った花じゃないわね )


 サーニャは立ち上がり、帳場から紙と万年筆を持ってくると、それをロトルに渡した。


 「もし花の形を覚えていたら、その紙に描いてください。思い出せる範囲でいいので……」

 

 ロトルは頷くと、こちらが驚くほどすらすらと、筆を紙に滑らせていった。

 見た場所はあいまいでも、花の姿は良く覚えているようだ。

 

 ロトルから紙を受け取って、描かれた絵をみると、息をのむほど緻密ちみつに花が描かれていた。

 

 上からのぞいたものと横から見たもの、二つの視点から見た花がそれぞれ描かれ、花冠かかんもそうだが、茎や葉の形状まで細かく記されている。

 

 描かれた花は、実に可愛らしい花だった。

 

 五つの花びらの中心に、もう一つ小さな花があるような花冠で、花びらと中心の小さな花からは、細く線が伸び、それぞれ『空色』『黄色』と記されていた。

 葉は倒皮針形とうひしんけいで、まっすぐな茎と五つに分かれたがくには、かぎ状の細かな産毛が描かれている。

 

 記憶をたどって、よくぞここまで描いたものだ。


「花の大きさは小指の爪くらい」


 ロトルは小指を立てた。

 

 しかし、これほど細かく描かれたものを見ても、その花は見たことのない花だった。


 ——サーニャには刺繍の他に、もう一つ、園芸という趣味があった。

 

 入口傍の鉢植えや、宿の庭に植えた花を世話し、愛でるのが好きだった。

 時々林の方まで、自然に生えた草花を、季節が変わるたびに眺めに行ったりもしていた。


 しかし、そんなサーニャでさえも、その花の名は分からなかった。


「すみません……私には見覚えのない花です」

 

 サーニャはロトルに紙を返した。

 

「お役に立てず、すみません」

 

 サーニャがそう謝ると、ロトルは気にしないで、とでも言うように首を横に振った。

 

 そして何事も無かったかのように、絵が描かれた紙をふところに仕舞うと、刺繍の続きをしてくれと、ロトルは目顔めがお催促さいそくした。


 サーニャは再び針を糸に刺し始めたが、完成し、出来上がった布を見ると、青い花ばかりが布に咲いていた。

 




 この日からサーニャは、古い本棚から埃をかぶった植物図鑑を取り出し、夜眠る前に少しずつ眺めるようになった。

 

 もう既に多くの花の名が頭に刻まれているので、こうやって植物図鑑を眺めることはずいぶんと久しぶりだった。


 ——しかし、結局、サーニャが植物図鑑の中にロトルの話した花の名を見つけることは、叶わなかった。

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