第16話 透明

 夜のかげりをまだ少し残し、青白い光が窓から差し込みはじめたころ、アトイは布団からのそりと起き上がった。


 もう春を迎えているのにも関わらず、弦がぴんと張り詰めたような冷えこみに、アトイは寝起きの体をぶるりと震わせた。


 布団をさっとたたみ、壁にかけてあった外套がいとうを羽織る。


 そして、床に置いた袋を背中にかけると、まだ仄暗ほのぐらい部屋を後にしようとアトイは入り口へと床を踏みしめた。


 ギシリと床がなる中、ふと、いまだ眠りの淵にいるロトルの姿が目に留まった。


 赤子のように緊張とは無縁の四肢を布団に投げ出し、満ち足りたように白い睫毛まつげを伏せ、安らかにゆっくりと胸を上下させていた。


 黎明れいめいの光がなめらかな頬の曲線をふち取り、まだ幼さが残ったその顔に青碧せいへき陰影いんえいを落としている。


 アトイはすっと顔をそむけた。


 —— 自分がとっくに捨ててしまったその姿を見ると、うら寂しい気持ちになる。

 

 その感情に気が付かないふりをしてアトイは長靴ちょうかのひもをきつく結んだ。


( 今日は何か見つかるといい…… )


 今日こそは、今日こそは、と思いながらこの扉を開くのも、もう何度目になるのだろう……こうも手掛かりが見つからないとさすがにうんざりする。


 やりきれなさをあたり散らすようにガチャンと乱暴に扉を開いたが、頭の隅にロトルの姿を思い出すと、アトイは音を立てないよう、ゆっくりと静かに扉を閉めた。




 筆で描いたような雲が赤い空にたなびいていた頃、ロトルはネロと一緒に歩いていた。


 特にすることもなく、ぼんやりと部屋の窓際でたそがれ、宿の前を行き交う人々を数えていると、突然扉をたたく音が響いた。

 そっと小さく開けた扉の隙間から覗き込むと、片手をあげ満面の笑みを浮かべたネロが立っていたのだ。

 買い物に付き合ってくれないかと言うので、ただひたすら時間を持て余していたロトルは頷き、鍵をサーニャに預けて部屋を後にした。


 買い物に付き合ってくれと言われてついてきたが、買ったものはロトルのためのものだった。


「買ってもらっちゃって……いいの?」


 ロトルが申し訳なさそうに尋ねると、ネロは手をぷらぷらと振りながら、あっけらかんと笑った。


「いいのいいの!」


 ロトルの足元で、真新しい黒い長靴ちょうかが光を反射し、ぴかぴかと輝いていた。

 

 その長靴はロトルの足にピッタリとあい、つま先ですくうように歩かなくても、足についてきてくれた。

 

 かかともすり減っておらず、しっかりと地面を踏みしめることが出来た。


「さすがにあの長靴は何とかしないとって思ってたのよ」


 盗んだ長靴はそのまま靴屋で回収してもらった。


 このまま捨ててしまうのかと、罪悪感いっぱいに長靴を眺めていると、痛んだところを直せば再び誰かの手に渡ると、穏やかそうな靴屋のおじさんが教えてくれた。


 ネロがロトルの顔を覗き込み、ぱちんと片目をつぶった。


「その靴、よく似合ってるよ!」


 ロトルは覗き込むネロに、心底嬉しそうに笑った。


「……ありがとう」

 

 そうお礼を言った時、突然、体に衝撃が走った。向かいからくる人と鉢合わせてしまったのだ。

 

 謝ろうと口を開くと、


「おい!前みて歩けよ!」

 

 と罵声が飛び、相手はすたすたと先に行ってしまった。


 ネロが心配そうに見つめた。


「大丈夫か?」


 首をすくませ、ロトルは頷いた。

 相変わらず、人が多く賑やかな商店街を歩くのは慣れなかった。


 急にどっと疲れがでて、ロトルは大きくため息をついた。

 森を一日中歩いている時よりはるかに体を動かしていないにも関わらず、なぜか酷く体が重かった。


 ロトルの茫洋ぼうようとした瞳を見て、ネロがある場所を指さした。


「ちょっとあそこで休んでいこうか」


 ロトルが顔を上げると、指の先には大きな噴水があった。

 

 そこはちょっとした広場となっており、煉瓦畳が敷き詰められた商店街で唯一緑がある場所だった。

 

 よく手入れされた花々が大きな花弁を広げて咲き誇こり、そのすぐ脇には、足を休めるための腰掛も置かれている。


 あそこならば、この鬱屈とした気も晴れるかもしれないと、ロトルは頷いた。




 腰掛の背もたれに身を預けると、甘い花の香りが漂い、しこった頭の中をゆっくりとほどいていった。


 ネロは「ちょっと待ってて」と言ってどこかへ行ってしまったが、やがて、紙に何かがくるまれた物を両手に持って帰ってきた。


「おまたせ」


 そう言うと、ロトルに片方を渡した。


「これ何?」


 折られた紙の間に、何か黄色い薄い生地につつまれた食べ物が挟まっていた。


「それはカンヌ(クレープ生地にアイスクリームが巻かれたもの)。食べてみ」


 かぶり付いてみると、もちもちとしたほんのり暖かい薄い生地の中で、キーンと冷たい甘いものがジワリと広がった。

 

 ほんのりとなめらかな牛の乳の香りが鼻に抜け、なんとも言えないおいしさに、思わずロトルは喉の奥で唸った。

 

「おいしい!」

 

 パッとロトルが顔を輝かせると、ネロは満足そうにうなずいた。

 

「そうか、そうか」


 そして、ネロも自分のカンヌに齧り付くと、幸せそうに顔をほころばせた。

 

「疲れた時のカンヌは沁みるなぁ」


 ロトルも大きく頷いた。

 

 口の中で広がった甘さが、じんわりと体の奥底まで広がっていった。

 

 やがて、食べ終わると、包み紙をまるめ公園の屑籠に入れた。


 再び腰を下ろすと、どこからか二人組がやってきて、近くの腰掛に座り、何やら話をし始めた。


「つい二日ほど前の話なんだが、仕掛けた網を引き揚げて、捕ったチュカ(サクラマス)を木箱に詰めている時、街に降りてきた狐がチュカを一本盗んでいきやがってなぁ。

 しかもそのチュカがいい脂がのってそうな、そりゃまぁデカい奴だったんだ。

 ありゃいい値が付いたのによぉ」


「ああ……あいつらには困ったもんだよな。俺もやられそうになったことがあるよ。 そん時は足元の石を投げて追っ払ったから、盗まれずにすんだがな。

 あいつらこの時期になると、すかせた腹を満たすために餌を盛んに探し出すからなぁ」


「稼ぎ時のこの時期に、これ以上あの泥棒狐たちにチュカを盗まれちゃ敵わねぇ。

 俺がどんだけそしったところで、あいつら、知らん顔して持っていきやがる」


「……そういや、俺の知り合いが漁をするときは竹を焼くって言ってたな。

 なんでも、竹が爆ぜる音で獣たちが寄ってこないんだそうだ」


「ああ、そりゃいいな」


 二人はしばらく腰かけながらそうやって話して、やがて、再びどこかへ行ってしまった。


 何でもない世間話だった。

 しかし、ロトルは何か引っかかっているようで、首をかしげていた。


「どうかしたのか?」


「うーん……どうしてあの人は怒っていたのかなって」


 ネロは微かに笑った。

 

「そりゃぁ、捕った魚、それも売りもんを獣に盗られたら怒りたくもなるだろう」

 

 しかし、ロトルはまだ腑に落ちないようで、眉をひそめた。


( 何をそんなに悩んでいるんだ? )


 本当によくわからなかった。自分には他愛もない会話に聞こえた。

 

 しかし、真剣に頭を悩ませているロトルに、これは何かあるな、とネロは穏やかに尋ねた。


「あんたは、いったいどこに引っ掛かっているんだい?」

 

 しばらくロトルはじっと黙り込んでいたが、やがて、ゆっくりと口を開いた。


「うん……魚は狐がつくったものでもないけれど、あの人がつくったものでもないよね?

 ……自然がつくった魚を、あの人がいっぱい採らせてもらって、それで、そのいっぱいのうちの、たった一匹を狐がもらっていくことに、どうしてあの人はあんなに怒るのかなって」


 それを聞いて、ネロは思わずうなった。

 

 表情からロトルが本気でそう言っていることは確かだった。


 そして、ロトルが一体どこに眉をひそませているのかが、ようやくわかった。

 

 それはいつの間にか多くの人間が、忘れ去ってしまったことだった。


( ……この子は、人間の『おごり』というものを、正確にとらえている )



 この子はなんて純粋な子なのだろうか。



 ロトルの悩みを理解できず、軽く笑い飛ばした先ほどの自分が、ひどく恥ずかしくなった。

 

 あたしたちはいつの間に、こんな不遜ふそんなことを言うようになってしまったのだろう。


「……たしかに、あんたの言う通りだ。あたしたちは自然が作り上げたものを、少しずつ拝借させてもらっているだけ」


 しかし、そう口にしても、言葉はスルスルと表面を滑っていった。

 

 一度中までしみ込んでしまった驕りというものを、完全に払拭ふっしょくすることは、おそらくもう二度と叶わないのだろう。


 私たちは得る代わりに、失ってしまったのだ。


 この世はそうやって釣り合いを取っているのかもしれない。等価交換というものが、無慈悲な真理なのかもしれない。


 ロトルがネロの方を向いた。


「私たちもまた、この世界を間借りする動物の一匹……

 そんな当たり前のことをどうして忘れてしまったんだろう……

 いつからこんなおごった考え方をするようになったんだろうな」


 どちらが良かったのかなど、もはや渦の中に入ってしまった自分にはわからない。


 しかし、それでも焦がれてしまう。


 ——かつてはあった、澄みきった水で泳ぐことを。


 ネロはロトルを見つめ、そして、すこし寂しそうに微笑んだ。


「ありがとう。大切なことに気づかせてくれて」

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