第37話 甘い匂い

 ネロの言葉に、アトイは大きく頷き、グッと結晶を強く握りしめた。


 つかの間、激しい高揚に胸を打ち鳴らしていたが、耳をつんざくような叫び声が聞こえ、アトイは弾かれるように、パッと面を上げた。


 キィンという金属音と共に、白い残光が見える。


「ネロ、行くぞ」


 アトイは結晶を懐にしまうと、短くネロに声をかけ、走り出した。






(甘い匂いがする……)


 どろどろの真っ黒な液体で身体を締め付けられ、そのわずかに残った意識で、サーニャはそんなことを思った。


 意識が薄れ、もう、自分の身体があるのかもわからない。


 自分は何者なのだろうか。


 ただ、強烈な甘い香りが、脳みそを溶かしていく。


 甘い。


 甘い。


 甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘いおかしくなりそうだ。







 彼女たちの戦いは、目を凝らして、ようやくその動きをとらえられるほどに、人間離れしていた。


 ロトルはわずかにできた隙をつきながら、サーニャへと駆け出した。

 刃が妖しい残光をひき、風をきる鋭い音がアトイの耳に飛び込んでくる。


 ねばりつくように伸びる黒い触手を、体をひねり、宙に跳んでかわしながら、ロトルはサーニャとの距離を縮めていったが、無数に飛んでくる触手を全てかわしきることはできず、鞭のようにしなった触手にあっけなく払われ、吹っ飛んでいった。


「ロトル!」


 ネロはロトルに駆け寄った。


「ロトル、大丈夫か!?」


 激しく背中をうったのか、息がつまり、返事はできなかったようだが、ロトルは大丈夫だ、というようにネロに頷き、人差し指で口元に×印を作った。

 静かに、という意味だろう。


 ロトルの身体は傷や痣だらけだった。

 しかし、顎や眉間など、急所となるようなところは絶妙に外していた。


 アトイはサーニャを警戒しながら、しゃがみ、ロトルの耳に囁いた。


「何かわかったことはあるか」

「……あの獣は倒したの?」

「ああ」


 アトイが頷くと、ロトルは面を上げ、アトイをじっと見つめた。


「おい、油断するな」


 アトイがそう注意すると、ロトルはわずかに口の端をあげた。


「大丈夫。ここはサーニャの間合いに入っていないから」


 そう言うと、ロトルは衣の土を払い、立ち上がった。

 アトイはロトルを見上げて尋ねた。


「間合い?」

「うん」


 ロトルは頷くと、足元の小石を拾った。


「見てて」


 そう言うと、ぶんとその小石を、サーニャに向かって勢いよく投げた。


 小石が地面で跳ねると、サーニャはばっと振り向き、小石が跳ねた場所に勢いよく触手を伸ばした。


 ロトルはその様子を見て、静かに言った。


「たぶん、サーニャは目があまり見えないんだと思う。

 でも、そのぶん、どんな小さい音も聞き漏らさず、音で判断してる」


 ロトルはアトイを見下ろした。


「恐ろしく耳がいいけれど、ここはサーニャの耳が届く範囲から外れているから、静かにしていれば大丈夫。それに、サーニャはさっきからずっと、あそこから一歩も動いてない。……絶対とは言えないけど、もしかすると、あそこから動けないのかもしれない」


「……それなら、俺の——俺たちの<エピカ>なら届くかもしれないな」


「うん、そうかも」


 ロトルはそう言って、あっけらかんと頷いた。


 アトイは立ち上がり、口の端に苦笑いを浮かべた。


(まったくこいつは……)


「なんか、どんどん強くなってる感じがする……早く何とかしないとまずいかも」


 アトイはロトルの言葉に頷くと、ネロの方を向いた。


「ネロ、頼めるか?」


 ネロは頷いた。


「ああ、やってみるよ」


 ネロは片手鍋を構え、その柄を力強く握りこんだ。


 途端に、空気を震わせる低い爆発音と共に、真っ赤な火柱が燃え上がり、サーニャを丸ごと飲み込んだ。


 闇空を貫く火柱を見つめ、アトイは思わず笑みを浮かべた。


(凄いな、相変わらず)


 とてもじゃないが、あれほどの<アーイ>を紡ぐことなど、自分にはできない。


 しばし暗闇を切り裂いたのち、火柱は徐々に勢いをなくしていき、そしてふっと消えた。

 

 ——ネロは思わず声を漏らした。

 

「……え?」


 アトイも目を見開き、信じられぬ光景に、間抜けにもぽっかりと口を開けた。


 視界には、真っ黒なさなぎがうつっていた。


 煙が立ち込め、どくんと波打つと、さなぎの皮が萼片のようにほどけ触手となり、再びサーニャが現れた。


 ネロは唇を震わせた。


「どうして……」


 サーニャには傷一つなかった。


 怒り狂ったサーニャは、背筋をなぞるような金切り声で叫ぶと、しきりに辺りの音を探り始めた。


 その様子を見つめ、アトイは呆然とつぶやいた。


「<エピカ>は利かない……」

「じゃぁ、どうすればいいんだよ」


 アトイはしばし考えた。

 先程のように、さなぎの中に閉じこもってしまわれたら、こちらはお手上げだ。


 ——しかし、ただ一人、刃が届くものがいる。


「……お前なら、あの化物に傷をつけられるんだよな?」


 アトイが問いかけると、ロトルは頷いた。


「それなら俺たちは、こいつの刃が届くよう、奴の気をそらす役割に徹した方がいいだろう」

 

 アトイはまっすぐにロトルを見つめた。

 

「お前がかなめだ」

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