第36話 炎海

 ネロはアトイの方を見ると、口元に笑みを浮かべ、囁いた。

 

「何か、いい案が浮かんだんだな、アトイ」


 アトイの顔は、かすかに高揚していた。


 ネロの言葉に頷くと、アトイはネロに、先ほど思い浮かんだ策を伝えた。

 

 聞き終わると、ネロは、

「あんたを信じるよ」

 と言って、アトイの背中を強く叩いた。


「……痛い」


 そうアトイが文句を言うと、二匹のウェンが再び、凄まじい速さでこちらへと駆けてきた。傷の修復が終わったのだろう。


 ネロは弾かれるように、アトイに背を向け、一気に駆け出した。


 ネロが駆け抜けた跡に、火の玉が、ぽっぽっぽっと灯っていく。


 ネロが走り回っている間、アトイは<エピカ>を放ち、二匹のウェンの注意をまとめてひいた。今のネロに、ウェンの足止めをするほどの余裕はない。


 二匹のウェンをまとめて請け負うのは、かなりの無理があった。

 しかし、どれだけ無謀なことであろうと、やらないわけにはいかなかった。


( 俺がしくじったら、ネロが死ぬ )


 アトイは身体中の全ての神経を集め、汗を流し、歯を食いしばりながら、ウェンへと<エピカ>を放ち続けた。


 あと少し、あともう少し。ネロが罠を張り終わるまで……。


 ネロもまたひたすら走り回り、<アーイ>を紡ぎ続け、

 ——そしてついに、宙に浮かんだ火の玉は、凄まじい数となり、真っ黒な闇を打ち消した。


「いいぞアトイ!」


 息を切らしながらネロは叫び、アトイの方へと駆けてきた。


 その声に頷くと、今度はアトイが駆け出し、目視で火の玉の位置を確認すると、その場所に<キール>を紡いだ。


 地面から土が盛り上がり、メリメリメリと鈍い音を立て、宙に浮かんだ火の玉を土の壁が囲んでいく。


 アトイは必死に駆けながら、<キール>を紡ぎ続けた。


 ——やがて、土が全ての火の玉を囲み終えると、辺りには無数の小さな山が出来上がった。


「ネロ!」


 アトイは短く叫びネロと合流した。


 ウェンに火を放っていたネロは、アトイと背中合わせになり、そのままくるりと、アトイと位置を逆転させた。


 ——目を閉じ、深く大きく息を吐くと、ネロは目を見開いた。


 辺りには、自分が仕掛けた<火>の種が、無数に浮かんでいる。

 そして、それらの文字のを、一斉に紡いだ。


 小さな土の山の中で、ネロの炎が一気に燃え上がり、壁を赤く染め上げた。


 行燈あんどんのようなぼんやりとした赤い灯が、闇の中で淡く光る。


 淡く光り続けていたその灯は、蛍の明滅のように、やがてゆっくりと消えていき、

 ——そしてついに、すべての灯が消えた。


「アトイ!」


 ネロが叫ぶと、アトイは大きく頷き、若葉色の文字をさっと紡いだ。

 ぼこん、と音が鳴り、地から木の根がつきだすと、太い根が二匹のウェンを締め上げた。


 ウェンがくぐもったうめき声をあげる。


「走れ!」

 

 アトイがそう叫ぶと、二人は渾身の力をふくらはぎにこめ、ひたすら地を蹴った。


 あの根はそう長くはもたない。

 おそらくすぐに喰いちぎられてしまうだろう。

 だが、少しでもいい。少しでも距離をあけられれば……。


 やがて、アトイの予想通り、木の根はあっという間にちぎられ、ウェンが一斉に走り出した。


 しかし、その時にはすでに、ウェンとの距離は充分に離れていた。


 ウェンがこちらへと走ってくる。


 アトイの心ノ臓が跳ねた。


(頼む……)


 そう祈ると、アトイは、すでに紡がれ、暗闇に無数に浮かぶ<キール>の一部を崩した。


 土の山が少しだけ崩れ、ぽっかりと穴が開いていく。


 ——そして、突然、耳をふさぎ、しゃがんでしまいたくなるような、凄まじい爆発音と共に、穴からぶわりと炎が噴き出した。


 闇夜が瞬時にカッと明るくなり、やがて、噴き出した炎は海となり、二匹のウェンを包み込んで、アトイとネロの視界を赤く染め上げた。



 炎、というものは酸素と結びつくことによってその姿を現す。

 そのため、限られた酸素を全て消費してしまえば、自ずと炎は小さくなっていく。

 しかし、そこに勢いよく空気が流れ込めば、酸素を求めていた火種が、一気に結びつき、凄まじい爆発と炎の渦を起こすのだ。

 


 アトイはその現象を知っていた。

 火事になった家の炎が消えたと油断し、扉を開けた火消しの末路を、昔、目にしたことがあった。


 そして、ネロの炎の渦と、己が作り出した土の柱を目にしたとき、このときの記憶がよみがえってきた。


 燃え上がる炎海の熱気で、二人の前髪は逆立っていた。

 じりじりと皮膚を焼いていく。


 瞳を炎で揺らしながら、二人は息をのみ、燃え上がる赤い海を見つめていた。


 パチパチと、草花が焼かれる音が響く。


「アトイ……」

「ああ」


 ネロがささやくと、アトイは頷いた。


 ネロは紡いだ<アーイ>を一斉にほどいた。


 琥珀の文字の糸が解かれ、光の粒となり、霧散した。


 さぁっと炎がひいていき、黒い大地が露わになった。


 そこに獣の姿はない。


 二人は警戒しながら、歩みをすすめ、ゆっくりと焦げた地に足を踏みいれた。


 かつんと足に硬いものが当たった。

 つま先を見ると、黒い結晶が転がっていた。


 アトイはかがんでそれを拾い上げると、ふとネロの方を見た。

 ネロの手にも同じものがあった。


 ネロは手元の黒い結晶をしばし見つめると、アトイに顔を向けた。


 その顔には笑みが浮かんでいた。


 そして、ネロは小さく、噛み締めるように囁いた。


「アトイ……やったな」

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