第35話 化物と二匹の獣

 彼女の表情が見えたのは一瞬で、その姿はあっという間に黒い煙の中に包まれた。

 

「なんだこれ……」


 ネロは呆然とつぶやいた。


 気体は徐々に固体となり、サーニャだったものは化物になった。


 無数の黒い触手が背から伸び、宙をうごめいている。

 胴体から膝下にかけて、衣とも鎧ともいえる黒い鋼が、花弁のように広がって身を包み、体の大きさも十尺(3m )ほどに膨れ上がっていた。

 顔は黒く塗りつぶされ、何を思っているのか、何を考えているのかはわからない。

 黒く薄い絹のようなものが頭から垂れ、彼女の頭を覆い、闇の中で妖艶に光る月が、まるで彼女を神聖なものであるかのように描いていた。

 

 突然、湧き上がるような、低い地鳴りがした。


「よけろ!」


 アトイが短く叫ぶと、地面から、いくつもいくつも黒い触手が突き出してきた。

 皆一斉に飛び跳ね、幸い、誰一人として当たることはなかった。


 かつてサーニャだった化物は、天に向かって肌が粟立つような、甲高い声を上げた。


 ——突然、アトイの視界が黒く染まった。


 アトイはとっさに身をじってかわし、過ぎ去ったものを振り返ると、それは一匹のウェンだった。


 そして、<神ノ泉ウ・ラ>の側に、もう一匹ウェンが現れると、アトイが睨みつけていたウェンはとっとっとっ……と歩き、もう一匹の側に寄った。


 強烈な月の光の下に、化物と、二匹のウェンが淡く、影のように浮かび上がっている。


 アトイの頬に、冷たい汗がつたった。

 蛇に睨まれたように、足が動かなかった。


 この場にいて生き残れる光景も、背中を見せ、逃げて生き残れる光景も、どちらとも浮かびはしなかった。


 ——激しく胸を叩いていた心ノ臓が、やがて、その拍動をやめた。

  浅い呼吸を繰り返しながらも、心ノ臓は妙に静かだった。


 これは諦念なのかもしれぬ。

 とっさに、自分の命に見切りをつけてしまったのかもしれぬ。


「アトイ!」

 

 はっと、アトイは、夢から覚めたようにロトルを見た。

 化物を睨みつけ、闇に燃えあがるロトルの瞳は、死んではいなかった。


「アトイ、あの二匹の獣だけなら、どうにかできる?」


 ロトルが言わんとしていることはわかったが、アトイは押し黙った。

 ロトルはかまわず続けた。


「できるかどうかはわかんないけど、私が何とかサーニャを引きつけてみる」


 そう言ったロトルに、アトイは目を見開いた。


 アトイが驚いたことは、ロトルが、1人で化物と対峙すると言ったことではない。

 

 そうではない。


( お前はあの化物を、まだ名で呼ぶのか…… )


 そう思った時、何かがアトイの心ノ臓を強く突き、再び拍動を始めた。

 全身に熱い血が通い始める。


 アトイは思わず、頷いていた。


「……わかった。俺とネロがあの二匹のウェンを請け負おう」


 そう言うと、ロトルは口の端をあげ、頷いた。


 アトイは、隣で呆けているネロに呼びかけた。


「ネロ!」


 ネロもまた、夢から覚めたようにアトイを見た。


「ロトルがあの化物を引き付けている間に、俺たちがあのウェンをどうにかするぞ」


 ネロの瞳は揺れていて、しばらく定まっていなかったが、ようやく事態が飲み込めてきたのか、ゆっくりと頷いた。

 

 ——その時、白い旋光が目に映った。


 それは一直線に化物へと飛んでいき、黒い触手が一本、音もなく切れ、すっと地に落ちるのが見えた。


 ロトルの刃は月光を反射して鮮烈に怪しく輝き、サーニャの背から生えた触手を切り落としてしまった。


 しかし、そう簡単に倒せるものではなかった。


 切り口から、あっという間に新しく触手が生えると、黒い線が見えたその瞬間、ロトルが勢いよく吹っ飛んでいった。


「ロトル!」


 ネロが叫び、一歩足を踏み出したのを、アトイは手首をつかんで止めた。


「俺たちはこっちだ」


 アトイは二匹のウェンへとあごをしゃくった。


 地面に転がったロトルは、すぐに態勢を立て直し、立ち上がった。

 触手が横腹に刺さる寸前で、何とか刀でいなすことが出来たようだ。


 それを見て、ネロはほっと息を吐くと、アトイに大きく頷いた。


 アトイは腰にぶら下げた旅灯の螺子ねじを回した。

 ぽっと明かりが灯る。


 小刀を手に持ち、宙に現れた琥珀こはくの文字と、白緑びゃくろくの文字を読むと、アトイのてのひらの先に火球が生まれた。


 それを二匹のウェンへと放ち、ロトルから離すよう引き付けていく。


 ネロも片手鍋を手に持ち、同じように<アーイ>を放っていた。


 しかし、ウェンたちはそれを軽々とかわし、徐々に距離をつめてくる。

 それた火球は地に落ち、美しい<神ノ泉>の花たちが墨となっていった。


 ——ネロもアトイも、走ってウェンと距離を取りながら、その内心で、ひどく驚いていた。


 ウェンの様子が以前とは異なっていたのだ。


 もちろん、賢く、剽悍ひょうかんであることに変わりはないのだが、ロトルただ一人を狙うようなことはしなかった。

 それどころか、ロトルをあえて、目に入れないようにしているようにすら見える。

 

 アトイは、はっと気が付いた。


「……これは幸いしたな」

「え?」


 アトイがつぶやくと、ネロは息を切らしながら尋ねた。


「もし、俺の考えが正しければ、あの2匹のウェンがロトルに襲いかかることはないだろう」

「どうしてさ?」

「明確な王が、あいつらの中で腰を下ろしているからだ」


 アトイは身を翻す二匹の獣を、冷静に見つめた。


(あいつらには、おそらく、順位制が伴われている )


 そう思えば、ウェンは見た目だけではなく、その性質も狼に少し似ているのかもしれない。


 狼は群れの中に、明確な順位が確立されている。

 そして獲物を先に食らうのは、必ず、上位の個体からだ。


 彼らの三角形の、明確な頂点には、おそらくサーニャが君臨しているのだろう。

 だから、彼らは極上の獲物の香りを嗅ぎながら、その欲望をぐっとこらえ、サーニャへと供物を献上しているのだ。


「よくわかんないけど!」


 ネロは息を切らしながら声を上げた。

 

「あんたがそう言うならそうなんだろう!

 で、あたしたちは、いつまでこうやって走り続けなきゃいけないんだ?

 なんかいい案ないのか、アトイ。このままだと……!」


 ネロの声はそこで途絶えた。


 地面を蹴り、ネロとアトイは体をひねって翻ると、お互いに外へ広がるように跳んだ。


 間に、黒い塊が凄まじい勢いで通りすぎていく。


 地面に手を付け、ネロは呆然と過ぎ去った影をみつめ、思わず声を漏らした。


「あぶねぇ……喰われるところだった」


 しかし、そう休んでいるのもつかの間、ネロとアトイに、歯をむき出しにしたウェンがそれぞれ襲い掛かってきた。


 ネロはとっさに、<アーイ>で目の前に炎の竜巻を起こすと、ウェンの頭を焼き、アトイは<キール>で地面から直方体の柱を生み出すと、その先でウェンの顔をつぶした。


 ウェンは短く叫ぶと、二人から距離をとった。

 傷を負ったウェンの身体が、黒い煙を放ち、とてつもない勢いで再生していく。


 ネロはその光景をみて、苦い顔をした。


「くそ……やっぱり核を傷つけないと!」


 ウェンを睨みつけながら、このわずかにできた空白の時間に、アトイは必死に思考を巡らせた。


 何とかあのウェンたちを、まとめてほうむることはできないだろうか……。

 しかし、やみくもに<エピカ>を放ってはいけない。


( 不意をつかないと奴らに<詩>は当たらない )

 

 先ほど、ウェンの顔をつぶした後、何か光る点のようなものが頭に浮かんだ。


 その点を必死に追いかける。


(俺はあの時、何を見た?)


 目で見た光景を、写真を眺めるように、その瞬間瞬間を脳裏に映し出していった。


 獰猛どうもうなウェンの歯と、鋭く光る眼。

 そして、高く燃え上がったネロの炎……。


 ここで何か引っかかり、再び巻き戻すと、同じ光景を映写した。

 何度も何度もそれを繰り返す。


 ——やがて、アトイは目を見開いた。


 ようやく捕まえた光る点は、包み込んだ指の隙間から鮮烈な輝きを放って、アトイをまるごと飲み込んだ。

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