第41話 サーニャ 第二編
私はそれから、その人とよく時を過ごすようになっていった。
名前を尋ねると、その人は少し悩んでから、
「ロウです」
と言って、目尻に
春の陽だまりのように暖かく、静かな人だった。
ロウと共に過ごす時はひどく穏やかで、互いによくしゃべる、というわけではなかったが、沈黙の時間も苦ではなく、不思議と心が安らいだ。
次第に私はロウに惹かれていき、次にロウが訪れる時を心待ちにするようになっていった。
思えばそれは、初めての恋だった。
熱い激流のような、激しいものではなかったが、水が滲みていくように、じんわりと心の中に広がり、気が付けばその多くを占めていた。
愛に近いものだったのかもしれない。
ロウと共に過ごした時も数えられないほど長くなったある日、いつものように向かいに座って、私の刺繍を眺めていたロウが、ぽつぽつとおとぎ話を聞かせてくれた。
——昔々、とても豊かな国がありました。
水にあふれ、緑にあふれ、民たちの笑顔であふれていました。
その国の王はとても人徳者で、民たちに愛されておりました。
しかし、ある日、その豊かで幸せな暮らしが、悪しき魂によって脅かされました。
真黒な憎悪が国を包み込み、水は枯れ、大地は荒廃し、民たちの笑顔も消えていきました。
王もまた、ひどくやつれ、頭を抱えました。
「このままでは国が死んでしまう、いったいどうすれば良いのだろうか」
そこに、1人の剣士が現れました。
その剣士は不思議な容姿をしていました。
髪の毛が真っ白だったのです。
「王よ、私にお任せください。私がその悪しき魂を打ち破って見せましょう」
剣士はそう言うと、旅立っていきました……。
私は手元を動かしながら、クスリと笑った。
「ふふ、そこでお話、終わってしまうんですね」
ロウは眉を下げて笑った。
「いや、もしかすると続きはあるのかもしれない。
ただ、俺もこの話は人から聞いたものだから、ここまでしか知らないんだ」
「先を、その人に尋ねたりはしないんですか?」
「気になって尋ねはしたんだ。『結末はいったいどうなるのですか?』と。
でも、その人もここから先の話は知らないと言って、首を振ってしまったよ」
ロウは口を閉じ、しばし静寂が訪れたが、やがて、再び口を開いた。
「……でも、俺は、この話はここで終わってしまっていい気がするんだ」
私は首を傾げた。
「どうしてですか?」
「……結末を知らなければ、俺たちは自由にその先の話を描けるじゃないか。
本当は悲しい結末だとしても、それを知らなければ、幸せな物語にすることだってできる……」
そう言ったロウの声があまりにも
ハッと面をあげ、ロウが私を見つめた。
初めて触れたロウの手は傷だらけで、皮膚が硬かった。
——この人が、普通の人でないことは、何となくわかっていた。
そして、永遠に消化しきれない寂しさを胸に抱えていることも……。
ロウの温かい体温が手に伝わると、胸がつかえ、涙が流れた。
「……どうか、私にあなたを愛させてください……それを許して……」
身を
ロウは頭を殴られたように目を見開き、一瞬、哀しげな表情を浮かべると、うつむいた。
しばし、そうしてうつむいていたが、やがて、私の手が温かいものに包まれた。
ハッと顔をあげると、ロウがもう一つの手で、私の手を挟み、包み込んでいた。
「俺も……」
ロウはそうつぶやくと、クシャリと顔をゆがめ、ひどく幸せそうに、泣いているように笑った。
「俺も、一目ぼれだったんだ。あなたに。
気持ちを抑えようと思ったけど無理だった……。
あなたに近づきたくて、近づきたくて……」
そこで言葉が途切れると、ロウの手が小刻みに震え始め、私の手を両手で包み込んだ。
——そして、瞼を閉じ、それを愛しそうに頬に当てた。
手の甲に、温かい雫が伝い、その温かさに、思わずボロボロと涙がこぼれた。
それからは夢のように幸せな日々が続いた。
ロウは相変わらず、あまり宿場に滞在することは叶わなかったが、それでも、共にいられる短い時間を目一杯大切にし、互いに愛を育んだ。
ある日、ロウが街中で木の苗を買って戻ってきた。
「どうしたの?それ?」
紙に包まれ、ロウの腕に抱えられた苗を見て、私は尋ねた。
ロウは小さくはにかみ、目尻に小じわを作った。
「あの庭に、一緒に植えたいと思ってさ……」
こんなことを言っては偏見になってしまうが、ロウは男性には珍しく、花を愛でることが好きだった。
よく二人で散歩に出かけては、道端に咲いているものから花屋で売っているものまで、ロウは歩きながら、色々な花の名を教えてくれた。
はじめは、「ふーん」としか思わなかったが、次第にロウに感化され、私も花を愛でることが好きになっていった。
——そして、気が付けば、がらんとしていた宿の庭は、ロウと一緒に植えた花々が、至る所で咲き誇るようになっていた。
私はくすくすと笑った。
「ついに苗木に手をだしたのね」
「せっかく土地もあるしさ……ダメかな?」
ロウは眉を下げ、私の瞳を上目で覗き込んだ。
叱られた犬のように、ロウから垂れた耳と尾が見えた気がして、思わず吹き出した。
「もう……そんなに体が大きいのに、可愛くならないで。
いいわ……一緒に植えましょう」
ロウははにかむと、嬉しそうに頷いた。
庭に出て、苗木を植えるための土を二人で掘りながら、ロウがつぶやいた。
「この木はね、リリィっていうんだ」
「リリィ?可愛らしい名前ね」
ロウは目を細めて微笑んだ。
「名前だけではなくて、花もとても可愛らしいんだ。
山吹色の小さな花が、春先にワッと咲いて、とても心地よい、甘い香りを放つんだ」
「そう……それは花が咲くのが楽しみね」
そう言って笑うと、ロウは私を愛しそうに見つめて微笑み、私の頬に手を伸ばした。
親指でサッと頬を撫でられる。
「はは、土がついてたよ」
私は目を瞬かせると、
「もう……指でこすったら余計汚れちゃうじゃない」
と文句を言って、互いに笑った。
愛しい時間だった。
やがて、私には、さらなる幸せが訪れた。
ロウとの間に子ができたのだ。
私はこのことをロウに伝えるかどうか悩んだ。
この子がロウの重荷になってしまったらどうしよう、という不安があったのだ。
しかし、腹もだんだん大きくなり、何よりも、ロウと腹の子、そして自分の三人が、庭で小さくなって頭をくっつけながら、笑って花を植えている光景が、目に浮かんで仕方なくなった。
私はついに決心した。
季節は冬になり、ロウが再び宿を訪れたその日、暖炉の前に座りながら、私は打ち明けた。
「あのね……子供ができたの」
「……え?」
ロウは呆けた顔をして私を見た。
心ノ臓はバクバクと跳ねていたが、私は努めて平淡に言った。
「あなたとの子供ができたの」
もう一度そう言うと、ロウはすさまじい衝撃を受けていたが、パッと、歓喜に沸いた表情を浮かべた。
しかし、それは一瞬だった。
何かがロウを強く引き戻し、ロウは目を見開き、そして表情を消した。
全てをあきらめてしまったような、とても虚ろな表情だった。
私はロウの言葉をひたすら待った。
やがて、ロウは口を開いた。
「……君に言っておかなければならないことがある」
そうつぶやくと、ロウは己の身の上を、目を伏せてぽつぽつと話し始めた。
孤児だったこと。
<
そして、それからは、ただ
まるで任務の報告をしているかのように、そんなことを淡々と話した。
「君を見かけたのも、
一目見て、君のことが好きでたまらなくなってしまった。
俺は、ただ、言ノ葉ノ王に命を捧げて生きてきた。
<
……最初は、君を遠くから見つめるだけで幸せだった。
その、ささやかな幸せを胸に、生きて、死んでいこうと思っていた。
けれど、人の欲というものはダメだな……もっと、もっとと……。
——そして、俺は君といる未来を望んでしまった」
ロウは目を伏せ、うつむいたまま、血を吐くようにそう言った。
「君に話した……あのおとぎ話は、
そうつぶやくと、ロウは口を閉じた。
私は哀しくて、やりきれなくて仕方なかった。
誰かと共にいたいと、そんな気持ちですら、この人は『欲』と、そう言ってしまうことが。
この人はどこか、どうしようもない孤独を胸にずっと抱えていると、そう感じていた。
( そう…… )
そんな、理由だったのね。
沈黙が流れた。
暖炉の炎が爆ぜる音が木霊した。
やがて、私は口を開いた。
頬には涙が、ツウっと流れていた。
「……あなたは私と共にいて、幸せだった?」
唇が震え、声が震えた。
ロウはゆっくりと面をあげ、泣いているかのように顔をゆがめると、再びうつむき、
——そして、小さく頷いた。
それだけで十分だった。
言葉などいらなかった。
私は泣き笑いしながら、ロウを抱きしめた。
「それなら一緒にいましょう。—— 一人では生きていけないから……」
そう囁くと、ロウは血が滲むほど唇をかみしめて、幼子のように、私にしがみついた。
私たちは、自分たちが作った庭で、ささやかな
身内は誰もいない、二人だけの祝言だった。
しかし、私はこの時、きっと世界の誰よりも幸せな女性だった。
互いに、相手の
ロウが息を吹きかけた時、柔らかい麦藁色の猫っ毛が掌をくすぐり、それがくすぐったくて、愛しくて、笑みを浮かべた。
風に吹かれ、さらさらとこすれ合うみずみずしい花々が、私たちを祝福していた。
光があふれ、咲き誇る花畑の中、私たちは額をこすり合わせ、子供のように目一杯、笑い合った。
そして、そのあふれ出る幸福をこぼさないよう、きつく抱きしめて、そっと口づけた。
孤独を抱えた男と女は、この時、肉体という隔たりを越え、愛の果て、生命の果てに、魂が溶けあい、
——そして一つとなった。
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