第40話 サーニャ 第一編
物心がついたときから、父の姿はなかった。
ずいぶんと前に死んでしまったらしい。
母一人、子一人で生きていた。
母はよく、私に暴力をふるった。
「あんたはあたしが生んだんだ!
だからあたしがあんたをどう扱おうと、あたしの勝手だ!」
よくそう叫んでは、灰皿や酒瓶で私の頭を殴った。
酒瓶が歯に当たった時、その歯が折れた。たくさん血が出た。
乳歯から生え変わったばかりだったので、その歯は二度と生えてくることはなかった。
私はできる限り身を潜め、母を視界に入れないようにした。
目が合うと、よく皿が飛んできた。
私はあまりお風呂に入れなかった。
入るとしても、母が寝静まった後に入るしかなかった。
一度、母の後に湯舟に入った時、母に死ぬほど殴られ、熱湯をかけられたことがあった。
母は私を殴りながら静かに言った。
「お湯にね、髪の毛が浮かんでいたの。すごく気持ち悪かった。
どうしてそんな酷いことをするの?
あんたは……あんたは‼」
覆いかぶさる母の髪が、鼻血を流した私の頬に触れていた。
「もう、二度とそんなことをしないって約束する?」
私はぼんやりする頭を必死に動かして、こくこくと頷いた。
身体中が痛かったが、今
それからは、母が寝静まった後に入るようにしたが、母は自分が入った後、湯を抜いてしまうので、入れないことの方が多かった。
その時は、<
神聖な泉を汚すことはとても心苦しかったが、私の身体が臭いと、母がまた怒るので仕方がなかった。
それでも、私に暴力をふるう母を憎いと感じたことは一切なかった。
だって、気が付けばこうだったのだ。それが当たり前だった。
家にはできる限り帰らないようにしていた。
街をぶらついて時間をつぶしていたとき、ふと、服屋の看板が目に入った。
お金は持っていなかったが、気まぐれに、店の扉を開けた。
店の中は、色とりどりの衣が飾られ、夢のようだった。
私はあまり衣を与えられなかったので、同じ衣を着回し、ボロボロのものしか身にまとったことがなかった。
綺麗な衣が飾られた店に自分がいることが、急にひどく場違いな気がして、恥ずかしさがこみあげた。
一刻も早く立ち去ろうと、扉に手をかけると、背後から声がかけられた。
「お待ちなさい……衣を見ていかないかい?」
しゃがれて不安定な声だったが、ひどく優しい声だった。
振り返ると、年配の女性がたっていた。
紙をくしゃくしゃに丸めたように、顔は皺だらけだったが、瞳は凄まじい生気を放っていた。
私はおばあちゃんに導かれ、店の奥へと入っていった。
おばあちゃんは私にいろいろな衣を見せてくれた。
「また、おいで」
帰り際に、売れ残ってしまった衣をたくさんくれて、そう言った。
その衣は家に帰ってから、母の目につかないところに隠した。
それから私は、街を歩くことが楽しくなった。
ただ時間をつぶすだけの時間にはならなくなった。
母の前ではボロボロの衣を身にまとっていたが、幸い家の周りを林が囲んでいたので、街に出るときは、木の裏で、おばあちゃんがくれた衣に着替えて出かけた。
新しい衣は、私をまるで普通の子のように見せてくれた。
私はおばあちゃんの言葉に甘え、街に出たときは必ず、おばあちゃんの店を訪れた。
店に行けば、信じられないほどおいしく、甘いお菓子を口にすることもできた。
やがて気が付けば、私はお店の中で、おばあちゃんに教えてもらいながら、針と糸を手にするようになっていた。
とても幸せな時間だった。
ああ、でも世界はなんて無情なのだろう。
ある日、急に服屋が閉まってしまった。
風の噂で、おばあちゃんが亡くなったことを知った。
私は
そして、気が付けば、おばあちゃんのお店の中に忍び込んでいた。
お腹がどうしようもなく減ってしまった時は、よく母の隙をついて台所に忍び込み、気が付かれないように食べものを手にしていたので、コッソリと忍び込むことは手馴れたものだった。
私は店の中から、おばあちゃんが丹精込めて作り上げていた衣と刺繍道具を盗み出し、それらを箱に仕舞って、林の中の土の下に隠した。
それからは、刺繍道具を手にして街に出かけるようになった。
広場の腰掛で刺繍をしていると、しばらくして、見知らぬ女の子が隣に座るようになった。
初めは鬱陶しく思い、うずうずと自分の手元を見ているその子を無視して刺繍をしていたが、やがて我慢できなくなったのか、その子が話しかけてきた。
「すんごい上手だね!どうやってるの!?」
わざとらしく顔をしかめ、その言葉も無視したが、その子はめげることなく毎日のように現れ、しきりに私に話しかけ続けた。
「あたしね、ユシパっていうの!」
「凄い!」とか「はわぁ……」とか、奇声を漏らしながら見るので
気が付けば、自分の名前を教えていた。
「私は……サーニャ」
名前を教えた時、ユシパは一瞬呆け、やがて、お日様のようにパッと顔を明るくした。
それからは、ユシパと広場で過ごすようになった。
私の刺繍に感化されたのか、やがてユシパも刺繍道具を手にして隣に座るようになり、私はユシパに刺繍を教えていくようになっていった。
胸も膨らみ、身体が女性のそれに成長しはじめたころ、母が死んだ。
あっけない死だった。
興奮した馬に蹴られて死んだそうだ。
母の訃報に喜びも悲しみもなく、ただ空虚な
身体は成長したものの、まだ幼かった私だったが、母がいなくとも生きていくことは容易だった。
時間がたち、腐ってしまった食べ物を口にしても、今まで
むしろ、今までよりも、ずっと生きやすくなった。
懸命に働いていたおかげか、やがて、働き先の宿場を主人からもらい受けた。
「私はもう年だから、引退しようと思ってね……。
よかったら、女将として、私の宿を継いではくれないか?」
私はすぐに頷いた。
主人はとても優しく、私を本当の娘のようによくしてくれて、思い出のたくさんある場所を潰してしまうのは、もう嫌だった。
それから、私は居住地も宿へと移し、女将として正式に働き始めた。
成人を迎え2年たったころ、その優しかった宿の主人も亡くなってしまった。
深い哀しみに、打ちひしがれていたが、
——そこに、私の人生において、最大の幸福が訪れた。
ある一人の男性客が宿を訪れた。
不思議な客だった。
妙に足音が静かなのだ。
客が出かけたことに気が付かないことすらあった。
その客は度々訪れた。
2週間ほど泊まっては帰っていき、そしてひと月ほどたつと、再び宿を訪れ2週間ほど泊まる……それを繰り返していた。
客はすでに常連となっていたが、親しく話すようなことはなかった。
しかし、ある日の
なんだろう、と思い、私は客の視線の先を覗き込んだ。
客が見ていたのは、私が置きっぱなしにしていた、布と刺繍道具だった。
慌てて客に謝った。
「ああ、お客様、すみません……私物を置きっぱなしにしてしまいまして……すぐに片づけますね」
私の声に客が振り返った。
——ふわふわの、柔らかそうな麦藁色の猫っ毛が、蜜色の光に縁どられ、キラキラと輝いていた。
「……いえ、すみません。あんまり凄い作品だったので見とれてしまって……。
あなたが縫ったのですか?」
普段物静かで、少しとがった雰囲気のあるその客が、その時、あまりにも優し気に、穏やかに眉を下げて笑うので、私はあっけにとられた。
そして、思わず言葉が口をついてでた。
「ええ……あの……刺繍……大した腕ではありませんが、ご覧になりますか?」
その人は少し驚き、目を丸くしたが、恥ずかしそうにはにかんで、やがて、小さく頷いた。
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