第42話 サーニャ 第三編

 ああ、世界はなんて無情なのでしょう。


 一緒に暮らすことは叶わなかったが、私たちは互いを思い合い、誰もがうらやむほど幸せな生活をおくっていた。


 ——しかし、膝が見えぬほど腹が大きくなったころ、ずっと背後を付きまとっていた薄暗い影が、ついに私を飲み込んだ。


 突然、ロウが宿を訪れなくなった。


 間が空くことはあったが、これほど空いたことは今までなかった。

 特に腹が大きくなってからは、無理をしてでも、ロウは宿に顔を出すようになっていたのだ。


 2週間がたち、ひと月がたち、ふた月がたった……。


 私はとてつもない不安に飲み込まれそうになりながら、ひたすらロウを待ち続けた。


 ——季節が移りかわり、冬の凍り付くような雨がざんざんに降っていた夜、宿の扉が叩かれた。


 重い腹を支えて、足をもつれさせながら、私は弾かれるように扉を開けた。


 そこには見知らぬ男が立っていた。

 ずぶ濡れの外套を身にまとい、顔は頭巾に隠れていたが、隙間から見えたその表情はひどく暗かった。

 

「……あなたがサーニャさんですか?」

「……ええ」


 頷きながら、心ノ臓はドクドクと波打っていた。

 

 ——ひどく嫌な予感がした。


 ひたひたと冷たい何かが背後で立ち止まり、自分の顔を覗き込んでいる。

 緊張して顔がこわばった。

 決して、その何かと目を合わせてはいけない。


 私が頷くと、その人は一層暗い顔をして、目を伏せた。


「……俺はロウの同僚です」


 そうつぶやくと、その人は唇を硬く結び、そして沈黙が訪れた。


 雨が地を打ち、さんざめく。

 灰色の曇天が景色を飲みこんでいた。


 やがて、再び息の気配がすると、私は己の耳を手で塞いでしまいたくて仕方なくなった。続きの言葉を聞きたくなかった。


「……ここに来るかは迷ったんです……。

 あなたも聞いていると思いますが、俺たちは<刀と盾>シ・カイン

 ——けれど、けど、あいつが居たことを、俺はなかったことにはしたくない……!」


 そう叫ぶと、その人は唇を噛み、歯を食いしばった。

 噛んだ唇は切れ、そこから血が滲みはじめた。


「……俺はあいつの友でもあるんだ!ちくしょう!ちくしょう!ちくしょう!」


 唇を震わせ、そう叫ぶと、その人の目尻から一筋、涙が伝うのが隙間から見えた。


 きつく、きつく拳を握ると、やがて、その人はふっと全身の力を抜いて、魂が抜けたような虚ろな表情を浮かべた。


「……すみません。俺はただあなたにこれを届けに来たんです。

 あいつは、ロウは——死にました」

 

 そう言って、私の手に紙に包まれた何かを握らせると、その人はふっと姿を消した。


 雨が地を打ち、さんざめく。


 私は突然頬をはたかれたように、扉を開けたまま、呆然と立ち尽くしていたが、やがて、機械的に扉を閉め、中へと戻っていった。


 椅子を引き、腰を落とす。

 向かいに、刺繍を覗き込むロウの姿はない。


 何も感じたくなかった。何も。


 私はとっさに心を鈍くして、身体を這いずり回るものに、気が付かないふりをした。


 瞳と耳に膜が張られ、水の中に沈んだように、全てのものがぼやけていく。


 心を鈍くすることは得意だった。

 幼い頃、母から殴られているときは、いつもこうして、自分をいない者としてやり過ごしてきた。


 ——どのくらいそうしていたのだろうか。


 気が付けば、雨はやみ、外は明るくなっていた。


 手に何かを握っている。


 そっとそれを机の上に置き、湿った紙をはがした。


 ——突然、色彩が戻ってきた。


 腹の中によどんでいたものが、一気に胸までせり上がり、喉元まで突きあがった。

 それをもう塞ぐことはもうできなくて、声が漏れ、涙があふれ、身体が震えた。


 ——紙の上にのっていたのは一房の髪の毛だった。


 麦藁色の猫っ毛の、何度も何度もこの目で見た、愛しい愛しいロウの髪だった。


 ついに私は崩れ落ちた。


 目の前に突きつけられた現実に、気が付いてしまった。


 泣きわめきながら、この髪を捨ててしまおうかと、そう考えた。

 捨ててしまえば、全てなかったことになるのではないかと。


 ——しかし、そんなこと、できるはずがなかった。


 愛しいあの人が残したものを、捨ててしまうことなんて……。


 何日も何日もその場で泣き続け、ついに流す涙も枯れてしまい、持て余した、冷たく熱い激しいものが、腹の中でうごめいていた。


 それを腹に抱えたまま、茫洋と庭を眺めた。

 食事もとらずにひたすら泣き続けていたせいか、身体はひどく衰弱していた。


( このまま死んでしまおうか )


 そうだ、そうしよう。


 絶望のあまり、ふっと笑みをこぼすと、突然、腹の中で衝撃が起きた。

 何度も何度も、どん、どん、と衝撃が起こる。


 腹の中の者は、食事が与えられないせいか、ひどく憤怒し、「よこせ!よこせ!」と腹を力強く蹴っていた。


 それは生命だった。


 呆然と自分の腹を見つめ、手を添えると、枯れてしまったはずの涙が再びあふれてきた。


 頬に伝った涙を雑にぬぐうと、私は立ち上がった。


 凄まじい立ちくらみに、視界が白くなり、耳の中がキーンと震えたが、グッと足に力をこめ、机に手をついて、何とかこらえた。


 やがて、視界と音が、じわりじわりと戻ってくる。


 顔を上げると、私は台所へと、まっすぐ向かった。


 戸をあけて、中から果物や麦餅むぎもちをひっつかむと、それをひたすら口へと運んだ。


 久しぶりの食事に、胃が驚き、吐き出してしまいそうになるのをこらえ、水で流し込みながら、ひたすら食べ物を身体の中に入れていった。


 辛かった。


 鼻水や涙など、あらゆる体液で、顔はグシャグシャになっていた。


 それでも、私は食べ続けた。


 生きるための食事をした。

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