第43話 サーニャ 第四編
子は何とか無事に生まれ、すくすくと育っていった。
麦藁色の髪をもった女の子だった。
あの人の面影が、その子の至る所で見え、愛しくて愛しくて仕方なかった。
夜泣きをしたり、ぐずったりしたり、働きながら我が子を育てることは、時々意味もなく涙が溢れてしまうほどに大変だったが、それでも何とか踏ん張った。
我が子が立った時の感動は、今までの苦労何もかもを吹き飛ばし、ただ生命の素晴らしさと、
やがて、我が子は猿のような容姿から、まるで花が咲くように、娘のそれへと変貌をとげた。
喜ばしいことだった。
しかし、この頃から、私の胸に、もやもやと鉛筆で書きなぐったようなものが身を潜め始めた。
——そして、ある日、それが心を飲みこんだ。
本当に些細なことだった。
食事をしていたとき、娘が食べ物を落とした。
それは娘の好物だった。
まだ『常識』というものがよく分かっていない娘は、床に落ちた好物に手を伸ばし、口に運ぼうとした。
「もう、ダメよ。落ちた食べ物は食べちゃダメ」
私は注意して、娘に『常識』を教えようとした。
しかし、娘は一向に聞こうとしない。
私は何度も何度も、根気強く注意した。
しかし、娘は嫌々と頭を振って、一向に聞こうとしない。
それを何度か繰り返し、娘は、ついに、手に持っていたそれを口の中に放りこんで、
好物をようやく食べれたせいか、ひどく幸せそうな顔をしていた。
——その顔が、ひどく
どろどろと、真っ黒いものが腹から溢れ、
——気が付いたら、娘の頬をはたいていた。
娘は驚いたように目を見開き、やがて泣き出した。
泣き声がうるさかった。
うるさい。
「うるさい!」
私は叫びながら、バシバシと娘を叩き続けた。
やがて、ハッと現実に引き戻され、目の前を見ると、頬を赤く腫らし、麦藁色の髪の我が子が、
娘の衣を
「ごめんね!ごめんね!」
きつく我が子を抱きしめ、自分の中にあふれてきた黒いものに動揺し、そして、ただひたすら後悔した。
娘は腕の中で、小さく頷いた。
しかし、我が子がどんどんと娘の姿に変わっていくにつれて、私の中には、どうしようもない嫌悪感が沸き上がってきた。
そして、気が付けば、些細なことで手をあげてしまっていた。
愛しいあの人が残してくれた、我が子。
私は苦しみもがいた。
果てしない愛しさの裏に、底が見えないほど
( どうして! )
何故、あの人の面影が残った愛しい我が子に、こんな気持ちを持ち、そして、あんな仕打ちが出来るのか、自分でもわからなかった。
凄まじい後悔の念と、己への
——そして、ようやく見つけたそれは、やはり純粋な嫌悪感だった。
自分はこの娘くらいの頃、母から
それなのに娘は、幸せそうに笑っている。
比べるものではない、決して。
けれど、どうしても比べてしまう。
比べて、
幼い頃に受けた暴力が、自分を壊してしまっていた。
そして、ようやくその実害が、今、出てきた。
まだ終わっていなかった。
私は始めて母を憎んだ。
憎んで、憎んで、憎んで、
——その相手がもういないことに、虚しくなった。
ある日、湯浴みをしようと風呂場に行き、浴槽に浮かぶ麦藁色の髪の毛を見た時、熱く粘り気のある、黒い濁流が身体中を這いずり回り、ぶわりと肌が粟立った。
突然、ふっと意識が消え、再び意識が戻った時、視界には鼻と頭から血を流し、ぐったりと床につっぷす娘の姿があった。
息をのみ、
裸足のまま、街を駆けていく。
そんな資格などないはずなのに、涙が溢れて仕方なかった。
目的地に着くと、扉をガンガンと必死に叩いた。
扉が開けられると、医術師が立っていた。
ボロボロと涙を流し、息を弾ませながら、私は言った。
「わ、私、<
——こ、この子、階段から落ちて……!」
医術師は腕の中で、ぐったりとしている娘を見ると、
「とりあえず、中へ」
と落ち着いた様子で、家の中へと案内した。
私はその後ろを歩きながら、とっさに己を庇ったその浅ましさに、
医術師の治療により、娘の身体の傷はあっという間に治った。
しかし、娘は目を覚まさなかった。
「大丈夫、ちゃんと生きてますから。——目が覚めるのを待ちましょう」
医術師は布団の上で瞼を閉じる娘を見て、そう私を励ましたが、その言葉がいっそう私を苦しめた。
娘の小さな手を握りながら、私は思った。
( もう駄目だ )
このままでは娘を殺してしまう。
私はついに決断した。
コンコンと扉を叩くと、中からユシパが出てきた。
ユシパは服屋を開いていた。
何の因果か、そこはかつて、自分に刺繍を教えてくれた、あのおばあちゃんの店だった。
ユシパは私の姿を見て、目を丸くした。
「……どうしたの、そんな真っ青な顔をして!」
私は唇を噛み、何も答えなかった。
ふぅ、とユシパは息を吐いて、微笑んだ。
「とりあえず、中へお入んなさいな」
頷くと、私はユシパの後をついて行った。
置いてある物や壁紙は変わってしまっていたが、幼いころに見たあの店と、構造はほとんど変わっていなかった。
2階へと案内され、「ここでちょっと待ってて」と居間に座らされた。
この居間は、昔、おばあちゃんに刺繍を教えてもらっていたところだった。
しばらくすると、ユシパが
湯呑を私の前に置きながら、ユシパは尋ねた。
「それで、いったいどうしたの?」
唇を噛み、私は何も答えなかった。
「……あたしに何か言いたくて、ここまで来たんでしょう?
——言ってごらん?」
昔と変わらぬ、お日様みたいな笑顔で、ユシパは優しくそう言った。
その笑顔を見た瞬間、喉元に熱いものが突きあげてきて、私は顔をゆがめた。
そして、バッと立ち上がると、片膝をつき、両手を掲げてユシパに最敬礼をした。
ユシパが焦った声を上げる。
「ちょっと!やめてよ!」
ユシパの手が肩に触れたが、私は
頭を垂れたまま、唇を震わせ、途切れそうになる言葉をつないだ。
「ユシパ……お願い。どうか、どうか……私の娘を育てて……!」
大きく息を吸う気配がして、肩に添えられた手が離されると、部屋は静まり返った。
やがて、再び肩に手が添えられると、ユシパは優しくささやいた。
「とりあえず、落ち着いて、——落ち着いたら、あたしに説明して」
ゆっくりと顔を上げると、ユシパはニッコリと笑った。
「さぁ、息を吸ってぇ……吐いてぇ……また、吸ってぇ……吐いてぇ……」
ユシパがそう言って、大げさに深呼吸の仕草をするので、それがおかしくて、思わず笑みがこぼれた。
そして、床に腰を落とし、ユシパの言われた通り、大きく深呼吸を繰り返した。
しばらくすると、濁流のようにゴウゴウと音を鳴らしていた胸の内が、
そして覚悟を決めると、ユシパに全てを話した。
全てを。
自分が幼いころに母から虐待を受けていたこと。
この店をかつて持っていたおばあちゃんとの出会い。
ユシパとの出会い。
歳を偽って宿場で働いていたこと。
その宿を継いだこと。
ロウとの出会い。
初めての恋。
子供を身ごもったこと。
ロウが<
ささやかで幸せな祝言を挙げたこと。
ロウとの暮らし。
ロウの死。
娘が生まれたこと。
娘の成長。
そして、成長した娘への虐待。
これまで自分が歩んできた軌跡を、ずっとひた隠しにしてきた薄暗いものまで、その全てをユシパに打ち明けた。
話している途中、様々な感情が溢れ、涙が止まらなかった。
それでも、しゃくりあげながら、ユシパに全てを話した。
親友に。
そして、全てを語り終えると、窓から見えていた白い光は、いつのまにか黒い闇へと移り変わっていた。
沈黙が流れた。
やがて、鼻をすする音が聞こえた。
ユシパは手で顔を
「……ごめんなさい!ごめんなさい!サーニャ!」
そう謝ると、ユシパは手を顔から放し、うつむきながら語り始めた。
「あたしね……あたし、わかっていたの。小さかったけれど。
——あなたが暴力を受けていたこと。
顔に傷はあまりなかったけれど、いつも衣で隠していたけれど、ちらっと見えたあなたの腕や足には、おびただしいほどの傷や痣、火傷の跡まであった。
気が付いていたの……。
でも、言い出せなかったの……。
わからないけど、怖くて怖くて……」
「……ユシパは、私が可愛そうだから仲良くしてくれたの?」
そうつぶやくと、ユシパは目を
「あたしを見くびらないで!そこまで落ちぶれていないわ!」
顔を真っ赤にして憤怒するユシパを見て、私は微笑んだ。
それだけで十分だった。
「ユシパ……私を見つけてくれてありがとう。あなたに、何度も何度も救われた」
そう言うと、私は顔を伏せ、つぶやいた。
「……それなのに、また、こんなことを頼んでしまってごめんなさい……」
胸がつかえ、涙が溢れた。
「でも……でも!私、もうダメなの!
こ、このままじゃ、あの子を殺してしまうわ!」
机に身を乗り出し、私は向かいに座るユシパの肩を
「お願い!お願い、ユシパ!——あの子と……私を救って」
ユシパの肩を掴んだまま、私はそう言って
最後は消えてしまいそうな声だった。
背に温かいものが触れた。
ユシパの手だった。
そして、その手で私を抱き寄せると、泣き崩れた私をユシパがきつく抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫……私に任せて。
これはあなたが悩んで悩んで……そして、苦しんで決断したことなのでしょう?
——今度こそあなたを救うから」
硬いユシパの声に、ボロボロと涙を流し、私は何度も何度も頷いた。
ぽんぽんと私の背を
「あなたの娘の名は何というの?」
「……リリィ。リリィよ」
「そう、いい名ね……」
「……ロウと一緒に植えた木の名前がリリィっていうの。
宿の庭に咲いているわ……。
名前だけではなくて、花もとても可愛らしいの。
山吹色の小さな花が、春先にワッと咲いて、とても心地よい、甘い香りを放つのよ……」
「そう……あなたの娘もきっとそう育つわ。
可愛らしくて、皆に春を届けるような——そんな子に」
そう
母の胸に抱かれたような、そんな
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