第3話 運命の曲がり角
いや、と自分がたどり着いた答えにアトイは首を振った。
( そんな人間がいるはずがない……この女は
自分を油断させるためにそんな嘘をついているのだ。
それでも、もしかすると、という思いが頭から離れなかった。
自分の底にある虚ろな部分が、
「お前のようなものが、この世に実際、いるではないか」
と
(うるさい、黙れ……!)
頭をかかえ、必死にその声を追い出した。
そうだ、はぐれ者がそうポンポンと存在するわけがない。
この女の目的はなんだ?金か?
それとももっと別の何かなのか…?
「あの……?」
不思議そうに、血のような瞳がアトイを
アトイは後ろへ少しのけぞった。
紅い瞳がこちらを見ている。
氷で背筋をなぞられたように、ぞわぞわとしたものが、体のうちから染み出してきた。
この女は得体がしれない……
「お前は……<
アトイは
女は数回瞬きをして、頷いた。
「そうか……」
呆然とそうつぶやいて、アトイは焚火を見つめた。
揺れる炎を見つめていると、騒がしかった胸のうちが、徐々に静まってきた。
火の粉が
そして、独楽鼠たちが全て死んだとき、アトイは再び口を開いた。
「お前が不思議に思っていることは誰にでもできることだ」
「……誰にでも?」
女がそう聞き返すと、どうしようもない嫌悪感がぐつぐつと湧き上がってきた。
感情を殺し、
「俺はただ<
「赤ん坊……」
女は
「読める<
「……エピカは一つじゃないの?」
アトイは頷いた。
そして、
「<
言葉に合わせ、順番に『火』『水』『木』『風』『雷』と枝で土を削って字を記していく。
女はその字を見ながら小刻みにうなずいていたので、どうやら字は読めるようだ。
盗賊に身を落とすような者は、貧しい出のことが多いので、文字を読めなくても不思議ではない。
現に、この女は年齢の割に、舌足らずなところがある。
「6種類に加えて、この国、<
『光』と字を書いたところで、アトイは一瞬手を止め、言葉を切った。
しかし、やがて、口を開いた。
「……それから、この世には無いとされる<
「……無いとされる?」
「<
「言い伝え……」
女が小さな声でつぶやいた。
アトイはかまわず話を続ける。
「<
「どこまで読める?」
「……<
アトイは宙に綴られた文字を指さした。琥珀色に輝く<
女はアトイの指先に顔を近づけ目を細めたが、やがてあきらめたように身を引き、見えないと言うように首を横にふった。
「<
アトイはこれがそうだ、とでも言うように腰の小刀を触った。
しかし、それは偽りだった。
——アトイの<
「<
アトイがそう言うと、女はしばらく黙り込んだ。
何かひっかかることがあるのか、眉をひそめ考え込んでいる。
やがて、自分自身に問いかけるように、小さな声でつぶやいた。
「……でも、私が見たものはもっと凄いものだったような……」
女のつぶやきにアトイは口の端を上げた。
「それは俺が<
「ホロケウ?」
アトイは頷いた。
「<
<
それは一般的な<
だから、<
そこで一度言葉を切り、アトイは問いただすように静かに女の顔を見つめた。
「そのためか、<
へにゃりと眉尻をさげ、女は青ざめた。
そして細い声で、
「あの……本当にそんなつもりはなくて……」
と口の中でつぶやいた。
アトイはしばらく無言で女を見つめていたが、ふっと目を炎へと戻した。
おそらく、本当に<
もしそうならば、これほど凝った演技などせず、隙を見て小刀を奪うか、何も盗らずに逃げ出しているだろう。
それを行えるだけの力を、この女は持っているはずだ。
それならば何故この女は、<
きっとそれは、自分に近づくこと、それ自体がこの女の目的だったのではないだろうか。
岩の背に隠れた大きな獲物を、鷹のように空から狙い……そして自分に近づいたのだろう。
それも、わざわざこの俺にだ。
しかし、その獲物の見当がつかない。
ふいに、考えることが面倒になり、
顎を膝の上にのせながら、ゆらゆらと揺らめく炎を見つめていると、ふと、ある言葉が記憶の底から突然よみがえってきた。
ずいぶんと昔に聞いた言葉だ。
「……<
聞こえるか聞こえないかの声でそうつぶやくと、女が目を向けた。
「祝福?」
聞き返した女の言葉が染みのように広がり、
——アトイ、お前は自分の『力』を決して
その力はお前を苦しめるものかもしれないが、それもまた『祝福』なんだと私は信じている。
お前がどう使うかによって、その『力』は毒にもなるし薬にもなる。
結局は、使う者次第なんだ。それをどうか、心に刻んでくれ。
視界に墨のようなものが滲み、やがて何も見えなくなった。
( 結局、俺にとっていまだにその祝福は、呪いにしか思えない )
水の中でおぼれるような、どうしようもない重苦しさが押し寄せてきた。
神が人々に祝福を与える中、呪いを一身に受けた自分はいったい何なのだろうか。
もしも前世というものがあるのならば、俺はいったいどれほどの大罪を犯したのだろう。
おもむろに目を横に向けると、急に黙り込んだアトイを女が心配そうに見つめていた。
冷たい風が頬を撫で、女の髪を揺らした。
それを考えた時、結局のところ、自分はこの女に、どこか似たところを感じてしまっているのだという結論に至った。
自分とは正反対の真っ白な髪。
しかし、それはどこか自分の黒い髪と似ていた。
血のような紅の瞳。
色は異なるが、それはどこか自分の黒い瞳と似ていた。
短く息を吐き、顔を上げて、アトイは闇に溶けた
いくつもの夜を迎えてきたが、その境目をはっきりとこの目で見たことはない。
夜というのはいつの間にか静かに背後にたたずみ、気が付いたときには全てをあっという間に飲み込んでしまうのだ。
( 俺は…… )
自分の胸にそっと生まれた
木製の
——闇の中で光るその目は、獲物を狩るときに向ける目と同じだった。
「俺は街へ行く途中だ。お前も街まで一緒にこい」
「え!?」
女は目を丸くし、アトイを振り仰いだ。
「……ここで野垂れ死なれても気分が悪いだけだ」
淡々としたうわべだけの言葉が唇を滑る。
自分で発した声なのに、まるで他人のものを聞いているかのようだった。
女は呆けたように、あんぐりと口を開いていたが、やがて、嬉しそうに目を細め、
「ありがとう」
とかすれた声で言った。
不気味なこの女から、一刻も逃げ出したい気持ちはあった。
しかし……何度自分を殺すことになろうとも、この女がいったい何をしようとしているのか、それを傍で見極めることが、このときのアトイにとって、最善のように思えた。
なぜ突然、そんな思いが身を貫いたのか。
——それは、
「明日は早い。お前ももう寝ろ」
女が頷いたのを見ると、アトイは川で湯呑を軽く洗い、寝支度を始めた。
袋の下に丸めて吊るしてあった二枚の毛布をほどき、一枚を自分用に、もう一枚を女に投げた。
アトイはいつも、一枚を土の上に引き、もう一枚を上にかぶるようにして寝ている。
毛布の表面には
幸い、ここずっと天気が良く、怪しい雲の動きもないため、数日は雨が降る心配はせずとも良いだろう。
腕を組み、毛布にくるまれるようにして横たわる。
目を
しばらくそうして目を瞑っていると、かちゃという金属音が聞こえた。
刀の刃と
静寂な闇と相反して、心ノ臓が激しく拍動し、緊張が走った。
小刀はあえて脚からはずし、手を伸ばした先においてある。
恐ろしい賭けではあったが、女の出方を見るには、あえて隙を作る必要があった。
いつでも飛び起きれるように、全身の筋肉をこわばらせていたが、布のこすれる音をかすかに背中で感じたあとは、ただ静けさが残っただけだった。
くるりと体を回転させると、焚火を挟んだ向かいで、女はアトイと背中合わせになるように丸まって寝転がっていた。
頭の先に
周囲の音が次第に戻ってきた。
リーンリーン……と虫が羽を震わせる音が響く
再び体を回転させると、アトイはゆっくりと瞼を閉じた。
この夜が、アトイの運命を決定づける、大きな曲がり角となった。
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